*障害という言葉のどこに差別があるか考える第10回
機械がちゃんと動かない(作り手の望みどおりには動かない)ふたつの場面をみなさんにご確認いただきました。ひとつは、機械がちゃんと動かないことの非が作り手にある場面、もうひとつは、機械がちゃんと動かないことの非が使用者にある場面でした。両者の場面で、機械を異常と判定するのが不適切であることを確かめました。
正常異常の区別が実は機械に対してつけられないことをこれから明らかにします。
機械がちゃんと動かないとき、その理由として考えられるのは何でしょうか。つぎの三つのうちのいずれかではないでしょうか。
- 理由1.作り手が『ちゃんと動くように機械を作ることができていない』
- 理由2.使用者が『ちゃんと動くように機械を使うことができていない』
- 理由3.その両方
このように、機械がちゃんと動かないのはすべて、作り手もしくは使用者の責任であると考えられます。
さて、〈理由1〉から〈理由3〉までの各場合につき、機械を異常と判定することができるかどうか順に見ていきます。
先に機械がちゃんと動かない場面をふたつご想像いただきましたけれども、そのうちのひとつ目の考察では、機械がちゃんと動かない理由が〈理由1〉であるとき、機械を異常と判定するのは不適切であると確認しました。
またふたつ目の考察では、機械がちゃんと動かない理由が〈理由2〉であるとき、機械を異常と判定するのは不適切であると確認しました。
これらふたつの確認からは、機械がちゃんと動かない理由が〈理由3〉であるときにも、機械を異常と判定するのは不適切であると考えられます。
機械がちゃんと動かない理由が〈理由1〉から〈理由3〉までのいずれであっても、機械を異常と判定するのは不適切である、すなわち、機械の「動き」には異常ということはあり得ないと、こうしてまずわかります。
いま機械の「動き」には異常ということはあり得ないとあらたに知るに至りましたが、これは何も「動き」についてのみ言えることではないと考えられます。形状など、機械の他のありよう全てについても、いまのと同じ論法を用いて、異常ということがあり得ない旨、確認できるのは明らかです。こうしてつぎに、機械には、動きにも、形状にも、その他どんなありようにも、異常ということはあり得ないとあらたにわかってきます。
異常な機械はこの世に存在しないといまあらたに知るに至りました。するとその結果、矢継ぎばやにつぎのことがわかってきます。
- 機械に対して正常異常の区別をつけようとしても、すべての機械が正常と判定されて終わるだけで、実質そうした区別はつけられないこと、
- 機械についてほんとうにつけられるのは、正常異常という区別ではなく、作り手が「ちゃんと機械を作ることができているか」どうかとか、使用者が「ちゃんと機械を使うことができている」かどうか、といった区別であること。
ようやく、予告しておきました結論にたどり着きました。
機械に対して正常異常という区別はつけられません。
最後にこう申し上げられます。
正常異常の区別は機械に対してつけることはできない。当然ひとに対してもつけることはできない。異常なひとはこの世に存在しない。にもかかわらず、ひとを正常と異常に振り分ければ、両者のひとたちのあいだに不当な差をつけ、差別をしていることになる。このことは、昔もいまもこれからもずっと、真実である、と。
「遺伝子工学が進歩して、ひと自身がひとの作り手になった暁には、〔機械に対してと同じように〕ひとに対しても正常異常の区別がつけられるようになるのは明白だ」との声を先にいただきました。その架空の声には、もはやこうお返事できます。そんな日が仮にいつか来るとしても、ひとに対して正常異常の区別がつけられるようには絶対になりません。ただ作り手としてのひと自身に、「望みどおりにひとを作ることができている」か、どうかといった区別がつけられるようにはなるでしょうけれども、と。
ごあいさつが遅れまして誠に申し訳ありません。
あけましておめでとうございます。
みなさんのご健康とご多幸を切にお祈り申し上げます。
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