*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.60
目次
・医学は一部のひとたちに「理解不可能」の烙印を押してきた
・「現実」が「イメージ」に合致するとは、しないとは
◆医学は一部のひとたちに「理解不可能」の烙印を押してきた
この短編集「統合失調症と精神医学と差別」のなかで以前に確認したつぎの5つの基本事項をいま、そのときにもちいたのとは別の、もっと簡単なやり方で、順に再確認しているところです。
今回はとうとう最後の5を見る番となりました。
- 正常、異常とは何か(短編NO.1)。
- 異常なひとはこの世にただのひとりも存在し得ない(短編NO.2)。
- 医学に不当にも異常と決めつけられ、差別されるのは、誰か(短編NO.3)。
- 障害、障がい、障碍、はどれもみな差別用語である(短編NO.4)。
- この世に「理解不可能」なひとなどひとりたりとも存在し得ない(短編NO.6)。
四の五の言ってないで、はじめますね。
(精神)医学はたとえば或るひとたちのことを統合失調症と診断し、やれ「永久に解くことのできぬ謎」だ、「了解可能」だと言ってきました。
かつてクルト・コレは、精神分裂病〔引用者注:当時、統合失調症はそう呼ばれていました〕を「デルフォイの神託」にたとえた。私にとっても、分裂病は人間の知恵をもってしては永久に解くことのできぬ謎であるような気がする。(略)私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか(木村敏『異常の構造』講談社現代新書、1973年、p.182、ただしゴシック化は引用者による)。
専門家であっても、彼らの体験を共有することは、しばしば困難である。ただ「了解不能」で済ませてしまうこともある。いや、「了解不能」であることが、この病気の特質だとされてきたのである。何という悲劇だろう(岡田尊司『統合失調症』PHP新書、2010年、p.30、ただしゴシック化は引用者による)。
このように、(精神)医学は一部のひとたちに、「理解不可能」の烙印を押してきました。
だけど、そのひとたちが、その烙印どおり、「理解不可能」な人間であったことは、実はこれまで一瞬たりともありませんでした。ほんとうは「理解可能」なそのひとたちを、(精神)医学が勝手に「理解不可能」と決めつけ、差別してきたにすぎませんでした。そもそもこの世に「理解不可能」な人間など、ただのひとりも存在し得ません。今回はそのことを、イメージというものに着目した簡単な仕方で、再確認していきます。
*前回の短編(短編NO.59)はこちら。
*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。