(新)Nothing happens to me.

科学はボタンをかけ違えたまま来たのではないでしょうか。

超ベストセラー、科学公房著『箱人間』

科学の出発点をナミダナミダで語り直す第4回

〔科学は事のはじめに「絵の存在否定」という操作を為すと訴える僕さん。その操作がどんなものか、絵、景色、と順にやってみせたあと、今度は、見るとか聞くといった知覚体験についてやってみせると言います。〕

 着目する〈三次元の広がり〉を、絵、景色、と少しずつ広げてきた。その広がりを景色よりも手前にもっと延ばして、僕の身体まで含めば、それは、何かを見ている、何かを聞いている、何かを嗅いでいる、何かを味わっている、何かに触れているといった、知覚と呼ばれる体験になる。


 この何かを見ているという知覚体験にまで、科学は「絵の存在否定」という不適切な操作を為す。


 どういうことか。


 いまこの瞬間、僕が柿の木を見ているとご仮定あれ。僕がその瞬間に目の当たりにしている柿の木の姿は、僕の前方数十メートルのところにある。このように柿の木の姿と僕の身体とはたがいに数十メートル離れた場所にあるが、この瞬間、共に「柿の木を見ているという僕の体験の部分」である。


 科学は、柿の木と僕の身体とがこの瞬間、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(1.場所の承認)。しかしそれらをいずれも「柿の木を見ているという僕の体験の部分とは認めない(2.部分であることを否認)。


 するとどうなるか。


 柿の木と僕の身体とはたがいに数十メートル離れた場所にただバラバラにあるだけということになる。その瞬間、柿の木が僕に見えているはずはないということになる(3.絵が存在していないことになる)。すなわち、柿の木を見ているという僕の体験はそのとき存在していないことになる。


 しかしみなさん、疑問にお思いになるだろう。でも、その瞬間、僕さんは現に柿の木の姿を目の当たりにしているんじゃ・・・・・・? と。


 科学はそこで、心(意識等、いろんな名で呼ばれる)という正体不明のものをもち出してくる。そして、その瞬間に僕が現に目の当たりにしている柿の木の姿を、僕の前方数十メートルのところにあるものではなく(そう認めれば、その瞬間、僕には柿の木が見えていることになる)、僕の心のなかにある映像であることにする(4.場所の追放)。で、僕の前方数十メートルの場所にはその代わりに「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まりにすぎない柿の木が実在しているということにする(5.存在のすり替え)。


 で、つぎのような視覚=情報伝達変換論(6)を口にする。


 すなわち、この瞬間、僕の前方数十メートルの場所に実在する「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まりにすぎない柿の木についての情報が、当の柿の木から光にのって僕の目にやってきて、そこで当の情報をゆずり渡すと、以後それは電気信号のかたちで神経をつたい、僕の脳までやってきて最後、心のなかの映像に変換される。それこそ、その瞬間に僕が現に目の当たりにしている柿の木の姿なのだ、と。

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つづく


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