(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

科学の、景色を消してみせる激ヤバmagic

科学の出発点をナミダナミダで語り直す第3回

〔科学が事のはじめに為すという不適切な操作、「絵の存在否定」を絵に対してやってみせた僕さんですが・・・・・・〕

「絵の存在否定」と呼ぶ不適切な操作を、絵を例にご説明申し上げたが、僕はみなさんにおわかりいただけるようお話することができているだろうか。


 こういうことだった。


 みなさんの目のまえにあるカンバスの、たがいに離れた場所に描かれたもの同士が、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める。しかしそれらをいずれも「絵の部分とは認めない。すると、白い壁、窓、机、女性、ツボ(?)、茶色の容器、パンらは、たがいに離れた位置にただバラバラにあるだけであって、絵は存在していないということになる。で、そうなったが最後、どんなに努力しても絵を説明し出せなくなる。

1.たがいに離れた場所にあるもの同士が、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。

2.しかしそれらをいずれも「絵の部分」とは認めない(部分であることを否認)。

3.するとそれらは、たがいに離れた位置にただバラバラにあるだけであって、絵は存在していないということになる

4.そしてどうやっても絵の存在が説明できなくなる。


 この操作を、絵についてやるとこのように絵が存在していないことになるのをもって、僕は「絵の存在否定と呼ぶわけである。


 いま「絵の存在否定」なる不適切な操作を、目のまえにある絵という〈三次元の広がり〉に為すとどうなるかご覧いただいた。科学はこの操作を為す〈三次元の広さ〉をカンバスや紙のうえなどに限定したりはしない。この操作を及ぼす範囲を極限まで広くとる。すなわち、いまこの瞬間に僕が体験している世界のありよう全体(いまこの瞬間に僕がしている体験全体と申し上げたほうがおわかりになりやすい?)の隅々にまでこの「絵の存在否定」を施す。


 するとどうなるか。


 いまから時間をかけてひとつずつご確認申し上げていこう。「絵の存在否定」という不適切な操作が施される〈三次元の広さ〉を絵から、少しずつ広げていこう。


 じゃ早速、「絵の存在否定」を施す範囲を、壁にかかった絵よりも、上下左右と向こう側とにぐんと広げてみることにしよう。


 するとそれは、景色、と呼ばれる〈三次元の広がり〉になる。


 いまこの瞬間、真ッ青な空の下に、雪をかぶった山が見えているとしよう。その山のななめ上方には、モコモコした雲がひとつ浮かんでいる。それら、雲と富士山とはこの瞬間、たがいに離れた場所にあるけれども、共に僕に見えている。つまり、それらは共に、この景色の部分である。


 では、この景色に対して、「絵の存在否定」をやってみよう。それら雲と富士山とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(1)。しかしそれらをいずれも「景色の部分とは認めないとすれば(2)、どうなるか。


 雲と富士山とは、たがいに離れた位置にただバラバラにあるだけということになる。雲と富士山とが共に見えている景色はこの瞬間、存在していないことになる(前記3)。


 そして、たがいに離れた位置にただバラバラにあるだけとなった雲と富士山とをどう足し合わせても、富士山のななめ上方にモコモコの雲が浮かんでいるという景色は説明し出せなくなる。

1.雲と富士山が、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。

2.しかしそれらをいずれも「景色の部分」とは認めない(部分であることを否認)。

3.すると、雲と富士山はたがいに離れた場所にただバラバラにあるだけであって、富士山のななめ上方にモコモコの雲が浮かんでいるという景色は存在していないということになる(絵が存在していないことになる)。


 みなさんはいま、おかしなことを僕がヘタクソな言いかたで申し上げているとお思いになっているだろうか。


 たしかに表現が拙劣なのは、みなさんお思いのとおりである。


 おかしなことを申し上げているのもまたそのとおりである。


 だが、科学がこのように景色を扱うのも残念ながら、事実である。


 つぎに、「絵の存在否定」なる不適切な操作を、見る、聞く、匂う、味わう、触れる、といった知覚体験に為すとどうなるかご覧いただければ、そのことを実によくおわかりいただけるものと思う。

つづく


2018年1月17日に一部表現を修正しました。


前回(第2回)の記事はこちら。


このシリーズ(全8回)の記事一覧はこちら。