*科学の出発点をナミダナミダで語り直す第2回
科学の出発点を「絵の存在否定」と名づける僕さん。絵を例に、その操作について語り出します。
一枚の絵をご想像あれ。いやみなさんのお宅にかけてある絵をじかにご覧いただくことにしようか。
その絵は平面に描かれたものである。しかしその二次元のムコウには、夜空・・・・・・じゃなかった・・・・・・三次元が広がっている(不思議な気がなさらない?)。みなさんはその広がりの一部として、白い壁、窓、空いた場所、机、あざやかなblueの前掛けをつけた女性、ツボ(?)、さらに机のうえには、茶色の容器、パンなどをいまお認めになっている。その女性がもっているツボ(?)から机のうえの容器へまッ白な牛乳が流れているのも。
絵が二次元でありながらも、三次元の広がり、たりうることを今後のためにちらっといま確認した。ではこれから、その絵に描かれた、blueの前掛けをつけた女性の姿と、ツボ(?)から流れ出ているまッ白な牛乳のふたつについて、あることを確認しようと思う。
その絵を引きつづきご覧になりながら、お聞きあれ。
それら、女性の姿とまッ白な牛乳とは、たがいに離れた場所にある。そしていまみなさんには、たがいに離れた場所にあるこのふたつが一緒にご覧になれている。そうであってこそみなさんは、女性の前掛けのあざやかなblueと、まッ白な牛乳の色の対比をお愉しみにもなれているわけである。
つまり、いまみなさんがご覧の、女性の姿とまッ白な牛乳のふたつは、たがいに離れた場所にはあるけれども、共にこの絵の部分である。
ごくごく当たりまえのことである。
その絵に描かれた、白い壁、窓、机、女性、ツボ(?)、茶色の容器、パン等についてもこの当たりまえのことが同様に申せる。それらもたがいに離れた場所にあるが、いまみなさんには、ひとつの絵、と見えている。みなさんがご覧のそれら、たがいに離れた場所に描かれたもの同士は共に「その絵の部分」である。
いま、ひとつの絵の、たがいに離れた場所に描かれたもの同士が共に「その絵の部分」であることをみなさんにご確認いただいた。では、いまからひとつ、この絵をもちいて空想実験とシャレコムとしよう。
その絵をご覧になったままお聞きあらんことを。
いまみなさんがご覧の、たがいに離れた場所に描かれている、白い壁、窓、机、女性、ツボ(?)、茶色の容器、パンらは共に「同じ絵の部分」であると申し上げてから、まだ僕の舌の根は乾いていないけれども、ここでつぎのふたつの操作を同時にやってのけるとすれば、いったいどうなるとみなさん、お考えになる?
- それら、たがいに離れた場所に描かれているもの同士が、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める。
- しかしそれらをいずれも「絵の部分」とは認めない。
こうした操作を同時にすれば、僕が思うに、白い壁、窓、机、女性、ツボ(?)、茶色の容器、パンらは、たがいに離れた位置にただバラバラにある(孤立してある)だけであって、いまみなさんの目のまえに絵は存在していないということになる。
横にいる僕がみなさんに「イイ絵ですね〜、女性のまえかけのblueと、牛乳のまッ白さの対比がボクは好きだなあ〜」としみじみ申し上げても、「イロノタイヒ? 流行りの食べモノかなにかで? どこに絵があります? えっ、えっ」とみなさんはおっしゃらなければならなくなる。
つまり、絵の存在を否定なさらなければならなくなる。
そんなみなさんはムッツリとお考え込みになるのではないか。で、たがいに離れた位置にただバラバラにあるだけとしか考えられなくなった、白い壁、窓、机、女性、ツボ(?)、茶色の容器、パンらをどう足し合わせても、絵は出てこないとお気づきになり、目を丸めてひと言、「あれ、コレどうなってんの?」。ひょっとするとそのあと激しく眼球を振戦させながらボソリ、「全体は部分の総和ではない・・・・・・」と屁理屈をおこねにもなるかもしれない
2018年1月17日に一部表現を修正しました。
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