(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学は快さや苦しさをどういったものと誤解するのか、遠い目をしてふり返る(2/4)

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第3回


 いまふり返っている先日の文章では、説をふたつ確認したじゃないですか。

  • 説1.快さを、心のなかにある、「身体機械が正常であることを知らせる情報」、苦しさを、心のなかにある、「身体機械が異常であることを知らせる情報」とする説(自覚症状という言葉を使うとき、ひとが採用しているもの)
  • 説2.快さと苦しさを、「身体機械」が行動まえにするウォーミングアップとする説


 説1から順にざっと振り返っていきます、ね?


 説1は、こういうものだと言えるんじゃないですか、ね? 腹痛(苦しさの感じ)なら、心のなかにある、「身体機械の腹部に異常があることを知らせる情報」、かたや身体中にみなぎっている活力(快さの感じ)なら、心のなかにある、「身体機械が正常であることを知らせる情報」と見るものだ、って。


 でも、この世には異常ということはあり得ないじゃないですか。今日は確認しませんけど、まえにそのこと、確認しましたよ、ね? 異常な機械も、異常な気象も、異常なひとも、異常な感情も、この世には存在し得ないんだ、って。言うなればすべては正常なんだ、って。異常なものなんかないというこのことから、快さと苦しさを、「身体機械が正常であるか、もしくは異常であるかを知らせる情報」とするこの説1は成り立たないと言えますよ、ね?


 ほんとうなら他のみんなとおなじく正常と判定されるべき一部のひとたちを不当にも異常と決めつける差別をするつもりなら別ですけど(皮肉で言っていますよ)。


(このシリーズ等で、異常なものなどこの世には存在し得ないことを確認しました)


 しかもこの説をとると、快いか苦しいかといった区分と、「身体機械」が正常であるか異常であるかといった区分は最終的に別のふたつのものとなり、前者の区分は無視されることになるってことだったじゃないですか。


 こういうことでした、よね?


 足首を痛めているとしますよ。この説1でいくと、足首のその痛みは、心のなかにある、「身体機械の足首部分に異常があることを知らせる情報」であることになるじゃないですか。でも、いざ試合になると、足首に痛みを感じなくなるってこと、ありますよね? そういった状態は、説1にしたがうとこういうことになります。足首部分には依然、異常があるのに、心のなかには、「身体機械の足首部分に異常があることを知らせる情報」がやって来ていない状態なんだ、って。


 説1にしたがうと、「身体機械」に異常があっても、苦しさを感じているとは限らないってことになるじゃないですか。


 で、身体機械に異常があるかどうかを知るのに、苦しさの感じは当てにならないってことになるじゃないですか。


 その結果、身体機械に異常があるかどうかは、苦しさの感じに頼ることなく、身体機械だけを見て決めるべきだってことになるじゃないですか、ね?


 肝臓なんか、よく沈黙の臓器って言われますよね? 自覚症状が無いこと、しばしばだ、って。これは、肝臓に異常があるかどうかを、身に覚える苦しさなんか無視して、肝臓だけを見て勝手に決めてるってことを意味するんじゃないのかなあ。


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科学は快さや苦しさをどういったものと誤解するのか、遠い目をしてふり返る(1/4)

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第3回


 先日、俺、長々と、快さと苦しさについて書いたじゃないですか。で、つぎの3つを確認したじゃないですか。

  1. 快さとか苦しさというのは何なのか。
  2. 西洋学問ではなぜ、快さや苦しさが何であるか、理解できないのか。
  3. 西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのか


(先日、長々と書いたその文章はこちら)


 遠い目をしながら、その3つを簡単に思い返している最中ですよ。


 最初に1をふり返りました、ね? 快さを感じているというのは「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや、苦しさを感じているというのは「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということである、ってことでした、ね?


 つぎに2の思い出に浸りましたね。


 そのとき身体とは何か、確認することからはじめました、よね?


 みなさんにとって身体とは何でしたっけ? みなさんにとって身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚」と「身体の物」とを合わせたもののこと、でした、ね? 身体のうちに「身体の感覚」は含まれました、ね?


 でも、西洋学問では、身体をそうしたものとは見ないとのことだったじゃないですか。


 事のはじめに、俺が「絵の存在否定」、「存在の客観化」とそれぞれよぶ、ふたつの不適切な操作を立てつづけに為す西洋学問のもとでは、身体は元素(西洋学問では、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないものと考えられる)が寄り集まったにすぎないものと解される、ってことだったじゃないですか、ね?


 そのように、元素が寄り集まったにすぎないものと解された身体を「身体機械」とよぶことにしました、よね?


 西洋学問ではそうして身体のうちから「身体の感覚」を除外するってことでしたけど、じゃあ、除外したその「身体の感覚、西洋学問では何と解するのか? 


 心のなかにある、「身体機械の様子を知らせる情報と解するとのことだったじゃないですか、ね?


 で、そんなふうに身体を機械と見ると、快いか苦しいかといったことを、見落とすことになるか、もしくは、機械に見られる何かとして説明しなくちゃならなくて行き詰まることになるかする、ってことだったじゃないですか、ね?


 では今日はここから残りの3西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのかいっちょふり返っていきます


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前回(第2回)の記事はこちら。


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科学にはなぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか、遠い目をしてふり返る〈5/5〉

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第2回


 事のはじめに「絵の存在否定」、「存在の客観化」というふたつの不適切な操作を立てつづけに為す西洋学問の手にかかると、左手はこう解されるとのことでしたね?

  • .左手は「左手機械」である。
  • .「左手の感覚」は、心のなかにある、「左手機械(心の外に実在)の様子を知らせる情報」である。


 こういった見方を西洋学問では身体全体にし、こう解します。

  • α身体は元素がよせ集まったにすぎないものである(身体は「身体機械」である)。
  • β.「身体の感覚心のなかにある、「身体機械(心の外に実在)の様子を知らせる情報である


 でも、身体とはみなさんにとって、おなじ場所を占めている「身体の物」と「身体の感覚」とを合わせたもののことだったじゃないですか。「身体の感覚」は身体のうちに含まれました、ね? ほら、身体は機械なんかじゃありません、ね(αへの批判)? 「身体の感覚心のなかにある像なんかじゃないですよ(βへの批判)? 左手を眼前にかかげてくれているみなさんの「左手の感覚」は、みなさんの眼前数十センチメートルのところにありますし(左手を降ろしてくださいって言うの忘れてました……)、みなさんの「足先の感覚」も、床のちょうど上にありますし、ね?


 以上、西洋学問ではなぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか、再確認しました。西洋学問では事のはじめに「絵の存在否定」、「存在の客観化」とそれぞれ俺がよぶ、ふたつの不適切な操作*1を立てつづけ為し、身体を機械と見なすに至る(上記α)とのことでしたね。そして「身体の感覚」を、心のなかにある、「身体機械の様子を知らせる情報」であるとあやまって定義づける(上記β)とのことでしたよね。


 そのように身体を機械と見なせば、快さや苦しさが何であるかは当然理解できなくなるって、最初に言ったじゃないですか。たしかこういうふうに言いましたよ。機械は快さや苦しさを感じたりはしない。つまり、機械には快いか苦しいかといった区分は見当たらない。したがって、身体を機械と見なせば、快いか苦しいかといった区分を、見落とすることになるか、もしくは、機械に認められる何らかの区分として考えなくちゃならなくて行き詰まることになるか、に決まってる、って。


 次回、その行き詰まりぶりを見ていきます。


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*1:「絵の存在否定」について書いた記事一覧です。


「存在の客観化」について書いた記事一覧です。

科学にはなぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか、遠い目をしてふり返る〈4/5〉

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第2回


 西洋学問では、身体についてもこれとまったくおなじように解します。


 左手を例にまず見てみます、ね?


 みなさんにさっき、自分の左手を眼前にかかげてもらったじゃないですか? あ、しまった、下げてくださいって言うの忘れてた……しびれてます? ああ、申し訳ないです……でも心苦しいですけど、もうしばらく、そのままで……


 身体っていうのは、おなじ場所を占めている「身体の感覚」と「身体の物」とを合わせたもののことであるって、さっき確認したじゃないですか。なら、みなさんの左手も、おなじ場所を占めている「左手の感覚」と「左手の物」とを合わせたもののことであると言えますよね?


 いま、みなさんが目の当たりにしているみなさんの「左手の物」の姿は、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあります、ね?


 みなさんの「左手の感覚」もそこに、おなじく場所を占めてます、ね? 


 眼前数十センチメートルのその場所をおなじく占めているそれら「左手の物」と「左手の感覚」とをひとつに合わせて、みなさん、左手って言いますよ、ね?


「左手の感覚」は左手のうちに含まれます、よね?


 ここで、ついさっき確認したことを思い出してみてくださいよ。事のはじめに「絵の存在否定」、「存在の客観化」というふたつの不適切な操作を立てつづけに為す西洋学問の手にかかると、みなさんが体験しているもの一切はみなさんの心のなかにある像にすぎないことになる(先のⅠ)ってことだったじゃないですか。で、この世に実在しているのは見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素なるものだけということになる(先のⅡ)んだ、って。


 西洋学問では、いまみなさんが現に目の当たりにしているみなさんの「左手の物」の姿と、現にそれとおんなじ場所を占めているみなさんの「左手の感覚」とを共に、みなさんの心のなかにある像であることにします(先のⅠに相当)。で、この世に実在しているのは元素なるものだけであるとする考え(先のⅡ)にもとづいて、みなさんの眼前数十センチメートルの場所に実在している左手は、元素の集合体にすぎないということにします。


 そうして左手から「左手の感覚」を除外します。


 このように元素のあつまりにすぎないものと解された左手を以後、左手機械とよぶことにしますね?

  • (i)みなさんが現に目の当たりにしている「左手の物」の姿と、現に感じている「左手の感覚」とを共に、みなさんの心のなかにある像であることにする。
  • (ii)みなさんの眼前数十センチメートルのその場所に実在している左手は、元素の集まりにすぎないということにする(左手を左手機械ということにする)。


 西洋学問では、みなさんの眼前数十センチメートルの場所に実在しているその「左手機械」から、「当の左手機械の様子を知らせる情報」が、光にのってみなさんの眼球にやって来て、電気信号にかたちを変えたあと、神経を伝って脳まで行き、そこで映像に様式を変換されて、心のなかに認められるということにします。そうして最後、心のなかに認められた映像こそ、みなさんが現に目の当たりにしている「左手の物」の姿であるということにします。


 また、「左手機械各所の様子を知らせる情報」が、「左手機械」各所から、電気信号のかたちで発したあと、神経を伝って脳に行き、そこで感覚に様式を変換されて、心のなかに認められるという経路も想定し、最後そうして心のなかに認められた感覚こそ、みなさんが現に感じている「左手の感覚」であるということにします。

  • (iii)左手の感覚心のなかにある、「左手機械の様子を知らせる情報であることにする


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科学にはなぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか、遠い目をしてふり返る〈3/5〉

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第2回


 西洋学問ではこの要領で、俺が現に目の当たりにしているバラの花の他、俺が現に聞いている音や、現に嗅いでいる匂い、現に味わっている味、現に感じている「身体の感覚」、その他、俺が体験しているもの一切を俺の心のなかにある像であることにし俺の心のそとに実在しているのは見ることも触れることもできず音もしなければ匂いも味もしない元素なるもののみということにします。

  • .俺が体験しているもの一切を、俺の心のなかにある像であることにする。
  • .この世に実在しているのは、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素なるもののみということにする。


 で、音というのは、俺が現に聞いているあの音のことではなく(それは俺の心のなかにある像にすぎないとする)、元素の運動(空気の振動)のことであるとし、俺が現に聞いているみなさんの歌声などの音を、俺の心のなかにある、「空気の振動の様子を知らせる情報」であることにします。


 匂いについても、俺が嗅ぐあの匂いのことではなく(それは俺の心のなかにある像にすぎないとする)、匂い分子(元素の集合体)のことであるということにし、俺が現に嗅いでいるらっきょうの香りなどの匂いを、俺の心のなかにある、「匂い分子の様子を知らせる情報」であることにします。


 また味についても、俺が現に味わっている辛いとか甘いといったあの味のことではなく(それは俺の心のなかにある像にすぎないとする)、味物質(元素の集合体)のことであるということにし、俺が現に味わっているライスカレーなどの味を、俺の心のなかにある、「味物質の様子を知らせる情報」であることにします。

  • .俺が現に聞いている音、嗅いでいる匂い、味わっている味等を、俺の心のなかにある、「元素(心の外に実在)の様子を知らせる情報」であることにする。

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科学にはなぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか、遠い目をしてふり返る〈2/5〉

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第2回


 さあ、いま、身体とは何か確認しましたよ。もう一度言いますよ。みなさんにとって身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚」と「身体の物」とを合わせたもののことなんだ、って。


 けど、西洋学問では身体をこんなふうに解することはありません、ね? 身体を機械と見なしますよ、ね? 身体がそんなふうに機械と見なされるに至る経緯をいまから追っていきますね


 西洋学問では事のはじめに、ふたつの不適切な操作を立てつづけに為します。そのふたつの操作を俺は「絵の存在否定」、「存在の客観化」とそれぞれよんでいますが、そのふたつを為すのが、身体を機械と見るに至る発端だと言えるんじゃないですかね?


(参考1:絵の存在否定)

(参考2:存在の客観化)


 その発端から身体が機械と見なされるに至る経緯は簡単に言いますと以下のとおりです


 俺の目のまえに、花瓶に入った、一輪の真っ赤なバラの花があると仮定してみてくださいよ。俺が目の当たりにしているその一輪のバラの姿は俺の前方数十センチメートルのところにあります。でも、西洋学問では事のはじめに、さっき俺が「絵の存在否定」、「存在の客観化」とそれぞれよぶんだって言った、不適切な操作ふたつを立てつづけに為します。で、ややこしいことは抜きにして、結論だけをさらっと言いますと、俺が現に目の当たりにしているその一輪のバラの姿を、俺の眼前数十センチメートルのところにあるものではないことにし、俺の心のなかにある映像であることにします。そして、俺の眼前数十センチメートルのその場所に実在しているのは、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素なるものが、集まったにすぎないものであることにし、それこそが「ほんとうのバラ」であるということにします。

  • .俺が現に目の当たりにしている一輪のバラの姿を、俺の眼前数十センチメートルのところにあるものではなく、俺の心のなかにある映像であることにする。
  • .俺の眼前数十センチメートルのその場所に実在しているのは、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素なるものが、集まったにすぎないものであることにし、それこそが、「ほんとうのバラ」であるということにする。


 西洋学問では、その「ほんとうのバラ」から、「そのほんとうのバラの様子を知らせる情報」が、光にのって俺の眼球までやってきて電気信号にかたちを変えたあと、神経をつたって脳に行き、そこで映像に様式を変換されて、最後、俺の心のなかに認められるということにします。で、最後、心のなかに認められたその映像こそ、俺が現に目の当たりにしているバラの姿であるということにします。

  • .俺が現に目の当たりにしているバラの姿を、俺の心のなかにある、「ほんとうのバラ(心の外に実在)の様子を知らせる情報」であることにする。


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科学にはなぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか、遠い目をしてふり返る〈1/5〉

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第2回


 先日、快さと苦しさについてどういったことを書いたのか、遠い目をしながら簡単にふり返っています。先日書いたその文章では、つぎの3つのことを確認しましたよね?

  1. 快さとか苦しさというのは何なのか。
  2. 西洋学問ではなぜ、快さや苦しさが何であるか、理解できないのか。
  3. 西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのか。


(先日書いた文章というのはこれです)


 で、ついさっき1を再確認したじゃないですか。快さを感じているというのは「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであるいっぽう、苦しさを感じているというのは「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということなんだ、って。


 今度は2について思い返してみますよなぜ西洋学問では、快さや苦しさをこうしたものと当たりまえに理解することができないのか


 西洋学問ではあやまって身体を機械と見なすじゃないですか。機械って、快さや苦しさを感じたりはしませんよね。機械には快いか苦しいかといった区分は見当たりません、ね? したがって、身体を機械と見なせば自動的に、快いか苦しいかといった区分を、見落とすことになるか、あるいは、機械に認められる何らかの区分として考えなくちゃならなくて行き詰まることになるか、に決まってるじゃないですか、ね?


 西洋学問では身体をあやまって機械と見なす結果快さや苦しさが何であるか理解できなくなる、ってことですよね。


 でもですよ、そもそもなぜ西洋学問では身体を機械と見なすんですかね? 西洋学問のもとで身体が機械と見なされるに至る経緯、見たじゃないですか。どんなでしたっけ?


 いまからちょっとふり返ってみますね
? 


 え〜、みなさんはふだん何を身体って言いますかね? 目のまえに自分の左手をかざしてみてくださいよ。みなさんが現に目の当たりにしているそのみなさんの左手の姿は、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあります、よね?


 その眼前数十センチメートルのところにある左手はブツ)ですか、ね?


 けど、そこには、みなさんの、左手の感覚、もありませんかね? いわば、「物」と「感覚」というふたつの別もの同士が、みなさんの眼前数十センチメートルのそのおんなじ場所を、重なり合いながら占めてはいませんかね?


 占めてますよ、ね?


 おなじように今度は身体全体を考えてみますよ。


 みなさんの身体の感覚はいま、頭の頂から下半身の末端までひと連なりになっているじゃないですか。その「感覚」が占めているのとおんなじ場所を、みなさんの、頭髪とか皮膚とか骨とか歯とか臓器とか血液といった「物」もまた占めていませんかね?


 いや、占めてますよ、ね?


 こんふうにおなじ場所を、重なり合いながら占めている「感覚」と「物」とをひとつに合わせて、ふだんみなさんは(自分の)身体と言うんじゃないですか、ね?


 で、おんなじ場所を占めている「感覚」と「物」のうち、前者「感覚」のほうを、「身体の感覚とか、「身体」感覚と言うんじゃないないですか、ね?


 じゃあ、それに倣って後者「物」のほうは今後、「身体のカラダブツ)、もしくは「身体」物(シンタイ・ブツ)とよぶことにします? 


 さすがに身体物(シンタイ・ブツ)ってよびかたは無いですか、ね? なら、「身体の物」ってよび名で行きます*1? 


 おなじ場所を占めている身体の感覚身体の物とをひとつに合わせたもののことをふだんみなさんは身体とよぶ、といったふうに以後、表現することにしますか、ね?


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*1:このblogでは、「身体の物」といった言い方のほか、「身体の物部分」とか「身体の物的部分」といった表現をしています。