(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

快いとか苦しいとかいうのはどういうことか、遠い目をしてふり返る(2/2)

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第1回


 さあ、いまこう言いましたよ。みなさんは生きているあいだ中どの瞬間でも、「今という一瞬をどういった出来事の最中とするかという問いに身をもって答えるんだ、って。


 この問いは別様に言い換えられたじゃないですか? どうですか、なにか思い出しましたか?


 さっき、話しを、こう尋ねることからはじめました。「いまこの瞬間の、もしくは過去の或る一瞬の、みなさんの状態を教えてください」って。そのときみなさんは、「〜している/していた」もしくは「〜中」って文末表現をもちいて答えくれるだろうってことでした。


 でも、別の文末表現をもちいて答えくれたひともいたんじゃないかな。


 通勤・通学しようとしているとか、結婚しようとしていた、といったふうに、「〜しようとしているしようとしていた」といった文末表現をもちいて答えてくれたひと、いたんじゃないですかね?


 たとえば、「いまこの瞬間のみなさんの状態を教えてください」って質問に、駅に向かって歩いている最中であると答えたひとは、そのとき渦中にいた歩行という出来事の行き着く先に着目して、こう答えることもできたはずだってことですよ。「通勤しようとしている」、って。


 かたや「みなさんの過去の或る一瞬の状態を教えてください」って質問に、熱愛していたと答えたひとは、そのとき渦中にいた熱愛っていう出来事の行き着く先に着目して、「結婚しようとしていた」って答えることもできたってことです。


「いまこの瞬間の、もしくは過去の或る一瞬の、みなさんの状態を教えてください」って質問にみなさんは、「〜している/していた」とか「〜中」といった文末表現をもちいて答えることもできたけど、「〜しようとしているしようとしていたって言い方を使って答えてくれることもできたってことですよ。


 このように、「〜中」もしくは「〜している/していた」という文末表現は、より先の未来に着目して、「〜しようとしている/しようとしていた」といった言い方に換えることができます、ね? みなさんは、生きているあいだ中ずっと、どの瞬間でも、「今という一瞬をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもって答えるんだってことだったじゃないですか。じゃあ、その「出来事の最中とするってところをしようとするといった表現に換えてこう言い改めることもできるんじゃないですか、ね?


 みなさんは、生きているあいだ中ずっと、どの瞬間でも、「どうしようとするか」という問いに、身をもって答えるんだ、って(ただし「今」という表現で、今という一瞬を表すものとしますよ。以下略)。


 すると、「今・どう・しようとするか」という問いにみなさんが身をもって答えた結果、今どうしようとするか、かなりはっきりしていれば、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」そのことを、快さを感じているといったふうに表現し、今どうしようとするか、あまりはっきりしていなければ、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」そのことを、苦しさを感じているといったふうに表現するんだ、ってことになるじゃないですか、ね?


 先日、こういう感じで、快さや苦しさが何であるか確認したじゃないですか*1。でも、西洋学問では(べつに西洋学問に限った話ではないでしょうけど)、快さや苦しさをこういったものとして的確に理解することはできないんだってことでした、よね? つぎに復讐する、あ、ちがった、復習するのは、そのことですよ。


 先に挙げた番号2に行きます、ね?


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後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

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このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。

 

*1:先日、快さと苦しさが何であるかを確認したときの記事はこちら。 

「科学するほど人間理解から遠ざかる」第3回


第4回


第5回


第6回


第7回

快いとか苦しいとかいうのはどういうことか、遠い目をしてふり返る(1/2)

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第1回


 快いか、苦しいかという区分はみなさんにとって、非常に大事なものじゃないですか。先日、その区分について、長々と考察しました、よね? 今日はそれを簡単にふり返ってみようと思ってひょっこり顔を覗かせたって次第です。


(先日の考察とはこれです)


 その長々とした考察で、こういうことを確認したの、覚えてくれてますかね?

  1. 快さとか苦しさというのは何なのか。
  2. 西洋学問ではなぜ、快さや苦しさが何であるか、理解できないのか。
  3. 西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのか。


 その3つをいまからひとつずつ順に、ざっくり思い返していきますね?


 じゃあ1から。


 快さや苦しさって何でしたっけね? 


 いま、強烈な快さを感じている場面をひとつ想像してみてくださいよ。快さを感じているその状態を、こう表現できるとみなさん、思いません?


 今どうしようとするかかなりはっきりしている、って?


 じゃあ、今度は、めちゃんこ苦しんでいる場面を想像してみてくれますかね? 苦しさを感じているその状態はこんなふうに表現できるんじゃないですか、ね?


 今どうしようとするかあまりはっきりしていない、って?


 いま、快さを感じているというのは「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであるいっぽう、苦しさを感じているというのは「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるって、えっ、ちょっとなにを言っているか、わからない?


……じゃあ、ゆっくりいちから確認することにしましょうか、ね?……


 え〜っと、最初にここでも、みなさんにこう尋ねることからはじめようかな。


 いまこの瞬間のみなさんの状態をご教示ください、って。


 みなさん、この質問にどう答えます? 


 食事をしている、とか、駅に向かって歩いている最中である、とかって答えるんじゃないですかね?


 つまり、「〜している」とか「〜といった文末表現をもちいて、みなさん、答えるんじゃないですかね?


 みなさんの過去の或る一瞬の状態を尋ねても、みなさん、おんなじように答えてくれるんじゃないのかなあ。熱愛していたとか、バイト中だった、というように、「〜していた」もしくは「〜中」って文末表現をもちいて答えてくれるんじゃないのかなあ。


 こうしたみなさんの答え方から、何がわかりますかね?


 まさにみなさんはどの瞬間でも出来事の最中にいる、ってことがわかるんじゃないですかね?


 したがって、こう言えませんかね? みなさんは生きているあいだ中どの瞬間でも、「今という一瞬をどういった出来事の最中とするかという問いに身をもって答えるんだ、って?


 身をもって、「今という一瞬を、出来事の最中とする」このことを、ふだんみなさん、行動とか運動とかとよんでるんじゃないですか、ね?


         (1/2) (→2/2へ進む

 

 

このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。

 

なぜ快さや苦しさについて考察しなおさなければならないのか

*科学するほど人間理解から遠ざかる第32回


 最後に冒頭からこれまでを、遠い目をしながらふり返って終わります。


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといちばんはじめに、補足説明をつけて確認しました。


快さや苦しさが何であるか確認する(第3回〜第7回②)。


 ついで、そのようなものとして快さや苦しさを俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところから、たどりました。


快さや苦しさが何であるか理解するに至った道筋をたどる(第8回〜第17回)。


 で、そのあと、西洋学問ではそのようなものとして快さや苦しさを理解できないのはなぜなのか確認しました。西洋学問では、「絵の存在否定」と俺がよぶ不適切な操作を事のはじめになし、存在を、無応答で在るもの(客観的なもの)と事実に反して定義づけてしまうばっかりに、快さや苦しさが何であるか理解する道をみずから閉ざしてしまうとのことでした。


西洋学問では快さや苦しさが何であるか理解できないのはなぜなのか確認する(第18,19回)。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではいったいどういったものと誤解するのか。最後に見たのはそのことでした。西洋学問のもとに見られる快さ苦しさについての解釈をふたつ、ひとつは広く世間に流布しているもの(自覚症状という言葉を発するときにひとが採用しているもの)、もうひとつはアカデミックなもの(情動として定義するもの)を確認しました。それらの説をとると、訳がわからなくなって、快さや苦しさにまともにとりあえなくなるのをみなさんに痛感していただきました。


西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのか確認する西洋学問では、快さや苦しさにまともにとりあえなくなるのを確認する)(第20回〜第31回)。


 以上4点を、みなさんに見守っていただきながらここまで、見て参りました。


 いま俺は改めてヒシヒシと感じています。快さや苦しさが正当に着目されるようになる日が一刻も早くやってこなければならない、と。


 だって、そうではないでしょうか。みなさん、お考えにもなってみてください。


 みなさんは何を健康とし、何を病気とお考えになるでしょうか。健康とは「健やかに康らかに」と書きます。みなさんは、健康であるとおっしゃるとき、そのひと言で、苦しまずに居られていることをひとに知ってもらおうとなさるのではないでしょうか。いっぽう病気とは「気を病む」と書きます。気を病むとは苦しむということではないでしょうか。みなさんは、病気であるとおっしゃるとき、実にそのひと言で、苦しんでいることをひとに知ってもらおうとなさるのではないでしょうか。


 みなさんが健康であるとか病気であるとかとおっしゃるとき争点となさるのはこのように、苦しまずに居られているか、苦しんでいるか、であるように思われます。しかし、快さや苦しさにまともにとりあうことのできない西洋学問のもとでは、健康であるとか病気であるとか言うとき、みなさんのように、苦しまずに居られているか、苦しんでいるか、を争点にすることはできません。


 実際、健康であるとか病気であるとかと言うときに、西洋学問のもとで争点にしてきたのは、正常であるか異常であるかということでした。西洋学問では、健康とは正常であること、病気とは異常であることと定義づけてやってきました。その結果、西洋学問のもとでは、多くのひとたちが不当にも異常と決めつけられ、差別されてきたとは、何度も申し上げてきたとおりです(正常異常というのが何を意味するのか考えてみればすぐに、異常なひとなどこの世に存在し得ないとわかります。西洋学問では、正常異常という言葉の意味をろくに考察してきませんでした)。


 快さや苦しさにまともにとりあえなくなった結果西洋学問ではこのように一部のひとたちを差別することになってきたわけですが、事はそれだけでは済みませんでした。


 西洋学問のもとでは、治るとか治療とかいうのもみなさんのように考えることはありません。健康であるとか病気であるとか言うことで、苦しまずに居られているか、苦しんでいるかを争点となさるみなさんにとって、治るとは、苦しまずに居てられるようになること、治療というのは、苦しまずに居てられるようになるのに役立つもののこと、を指すように思われます。ところが、健康を正常であること、病気を異常であることと定義づけてきた西洋学問のもとでは、治るとは正常になること、治療とは正常になるのに役立つもののこと、と考えてきました。


 つまり、治療の趣旨を何とするかがみなさんと西洋学問のあいだでずっと異なってきました。みなさんは苦しまずに居てられるようになることとするいっぽうで、西洋学問では正常になること、もしくは異常にならないこととしてきました。


 こうした、治療の趣旨を何とするかのズレは、問題にならないときもあれば、看過できないときもあります。看過できないのは、副作用とか毒性とか副反応とかとよばれる苦しみをこうむる治療を医学から勧められたときです。


 そういったとき、苦しまずに居てられるようになることを治療の趣旨とお考えになるみなさんなら、その治療を受けると仮定した場合と、治療を受けないと仮定した場合のふたつをそれぞれご想像になり、どちらのほうが苦しさがマシになるか、予測にお努めになるのではないでしょうか(マシという判定は、苦しさの強度、苦しむ期間、苦しくなる頻度等を総合的に評価したものとお考えください)。そして、その治療を受けると、治療を受けない場合より、苦しさがマシになると思われれば、みなさんはこう結論づけるのではないでしょうか。


 治療を受けると、苦しさがマシになる。つまり「」をする。この「得」を打ち消すぐらい、治療によって生存期間が短縮するというのでなければ、この治療を受けよう、と。


 逆に、その治療を受けると、治療を受けない場合より、苦しさが酷くなると思われれば、こう結論づけるのではないでしょうか。


 治療を受けると、苦しさが酷くなる。つまり「」をする。この「損」を埋め合わせるくらい、治療によって生存期間が伸びるということでもなければ、この治療を受けることはできない、と。


 ですが西洋学問では、そういった苦しさの比較考量をろくにしてきませんでした(一部の良心的な医師たちを除いて)。みなさんなら、いまのような比較考量をなさって、勧められた治療をお避けになるような場合でも、医学は患者を正常にするために、もくしは異常にならないようにするためにと言って、治療を施してきました。治療を受けてこうむる苦しみ(副作用・毒性・副反応)は、正常になるためには、もしくは異常になるのを避けるためにはどんなものでも我慢するのが当然だと患者に強いてきました


 その結果、患者が気息奄々となって、早々に死んでしまっても、「治療は正しかった。思ったより病気が重かったのだ」と言い訳してきました。


 がん治療、抗ウィルス治療、抗細菌治療、精神病治療、各種予防治療などのもとにそうしたものの実例をみなさん、わんさかとお認めになるのではないでしょうか。


 快さや苦しさにまともにとりあうことができないために医学は苦しまずに居てられるようになりたいという多くのひとたちの要望をこうして治療によって裏切ることになってきたのではなかったでしょうか


 以上、快さや苦しさが正当に着目されるようになる日を、俺がいまかいまかと待ち望む理由をみなさんにうまくお伝えできていたら、幸いです。そうした日が一秒でも早くやってくることを切望しながら、快さと苦しさについて根本から考察して参りました次第です*1


第31回←) (完)         

 

 

このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2019年12月30日に文章と内容を一部修正しました。

現代科学は快さや苦しさを理解できないしろものに変える

*科学するほど人間理解から遠ざかる第31回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといったふうに快さや苦しさを的確に理解することは西洋学問にはできないとのことでした。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか


 いろんな誤解の仕方があるのでしょうけれども、ここではそのうちからふたつ見ることにし、いまそのふたつ目を、理化学研究所脳科学総合研究センター編『脳科学の教科書(こころ編)』岩波ジュニア新書、2013年、のもとに確認しているところです。

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

 


 つぎの4を見ている途中でした。

  1. 情動(何度も申しますように、科学は感情を情動とよびます)が、行動まえのウォーミングアップと説明されていること。
  2. 行動が、好物への接近行動と、敵からの逃避行動に二分されていること。
  3. 快さ(快情動)が、好物への接近行動まえのウォーミングアップ、苦しさ(不快情動)が、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップとそれぞれ説明されていること。
  4. それら、好物への接近行動まえのウォーミングアップと、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップとがそれぞれ、脳のなかの特定の一点によって引き起こされるものと説明されていること。
  5. 「脳によって身体機械がどのようなウォーミングアップをさせられているかを知らせる情報」が、電気信号のかたちで「身体機械」各所から発したあと、神経をへて脳に行き、そこで「身体の感覚(部分)」に変換され、それが、好物への接近行動まえのウォーミングアップについての情報なら、快さの「感じ」という分類のなかに入れられるいっぽう、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップについての情報なら、苦しさの「感じ」という分類のなかに入れられると説明されていること。


 前記4のうち、苦しさのほうは見終わりました。つぎに、快さのほうを見ます現代科学のもとでは、快さ(快情動)好物への接近行動まえのウォーミングアップと解される(前記3)とのことでしたけれども、その好物への接近行動まえのウォーミングアップが、脳のなかの特定の一点によって引き起こされるものと説明されているのを確認します。ゴシック体の部分にご注目ください。

 基本的な情動神経回路2(接近行動と側坐核

 では、これまでとは反対に、好ましく心地よい「快情動はどのように生みだされ、どのような神経回路によってコントロールされているのでしょうか? それには、これまでに知られていた扁桃体を中心とするシステムとはべつの、しかしそれと密接な関係をもった、「報酬系とよばれる脳内神経メカニズムがかかわっていることが、最近になってだいぶくわしくわかってきました。つまり、快い好ましいことに対応する行動に対して、近接行動が引きおこされると、それを強化するようなメカニズムが動員されると同時にポジティブな情動がわきおこって、その行動を維持し増大されるのです。


 この報酬系中心的役割を担うのは腹側被蓋野とよばれる中脳の部位から、大脳腹側の深部に位置する側坐核にいたる神経経路で(略)この側坐核、快情動にかんして、さきに説明した不快情動にかかわる神経メカニズムのなかでの扁桃体と対をなす位置に対応し、大脳皮質、海馬の記憶や、視床下部でのいろいろな情動反応の発生メカニズムと協力して、さまざまなポジティブな情動反応を引きおこしさらにそれを強化するはたらきをしています。


 たとえば、動物実験では「自己刺激」といって、脳のこの部位に刺激電極を埋めこんでおいて、動物がみずからレバーやボタンなどのスイッチを押すと、そこに電気刺激が与えられるような装置をつなぎます。そうすると、その動物は(おそらく)気持ちがよくて、エサも食べずにずっと刺激しつづける、という現象が見られます。また、麻薬などの薬物におぼれたような場合には、この部位が異常に活動しているらしいこともわかってきています*1


 快さ(快情動)脳のなかの特定の一点によって身体機械に引き起こされる、好物への接近行動まえのウォーミングアップと説明されているのをご確認いただきました。


 最後に前記5を見て、お別れします。つぎの引用文には、「情動反応」と「感情」というふたつが登場します。前者「情動反応」は、いままで見てきた快情動と不快情動とを合わせたもののことで、脳が「身体機械」にさせる、好物への接近行動まえ、もしくは敵からの逃避行動まえのウォーミングアップのことを指します。いっぽう、後者の「感情」というのは、快さもしくは苦しさの「感じ」を指すものであるとお考えください(快さには、快情動のほかに、快さの「感じ」があり、苦しさには不快情動のほかに、苦しさの「感じ」があるということになります)。ゴシック体の部分にご注目ください。

 このような情動反応が引きおこされると、それにともなってわたしたちのこころのうちにはいわゆる「感情」がわきおこります。基本的な感情である喜怒哀楽のうち、大きくは忌避反応にともなっては「努」や「哀」、接近反応に対応しては「喜」や「楽」を感じます。これにはどのようなメカニズムがかかわっているのでしょうか?(略)


 では、人間はどのように、自分自身のからだにおこっている情動反応をモニターし、認識しているのでしょうか?


 このメカニズムについてはまだ確定的なことはわかっていませんが、「ソマティック・マーカー」という仮説は、これをうまく説明できるとされているものの一つです。「ソマティック」というのは「からだの」という意味で、ここでは情動反応にともなって引きおこされるからだや内臓系の状態やその変化を「ソマティック反応」とよびます。心臓がドキドキする、胸がしめつけられる、口がかわく、はらわたが煮えくりかえる、頭に血がのぼる、顔をまっ赤になる、胸がおどる、腹がすわる、怒髪天をつく、などのことです。(略)


 その一方で、さきにも触れたように、情動情報は大脳皮質にも送られて記憶と照合され、分析されます。とくに前頭葉腹内側部は、外的な刺激の客観的性質とされにともなって自己にわきおこる情動を連合する場所と考えられています。この連合によって、大脳皮質は、ソマティックな情動反応に、それが引きおこされた文脈と照合しつつ、「善・快あるいは悪・不快という価値を与えて、マークすることになるわけです*2


 以上、「脳によって身体機械にどのようなウォーミングアップが引き起こされているかを知らせる情報」が、電気信号のかたちで「身体機械」各所から発したあと、神経をへて脳に送られ、そこで、それが、好物への接近行動まえのウォーミングアップについての情報なら、快さの感じという分類のなかに入れられるいっぽう、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップについての情報なら、苦しさの感じという分類のなかに入れられるといったふうに、現代科学が説明しているのをご確認いただきました。


 理化学研究所脳科学総合研究センター編『脳科学の教科書(こころ編)』岩波ジュニア新書、2013年、をもちいて見てきましたように、現代科学は、快さや苦しさをまったく訳の分からない奇っ怪なものに変えてしまいます。そんなふうに解したのでは、快さや苦しさはまともには理解できなくなってしまうのではないかと俺が疑義を呈しましても、みなさん納得してくださるのではないでしょうか。


第30回←) (第31回) (→第32回

 

 

このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:同書pp.139-140、文中のゴシック体は引用者による。

*2:同書pp.141-144、文中のゴシック体は引用者による。

レイプ被害者に「なぜ逃げなかったのか」と心なくも詰問する現代科学の情動理論

*科学するほど人間理解から遠ざかる第30回 


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといったふうに快さや苦しさを的確に理解することは西洋学問にはできないとのことでした。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか


 いろんな誤解の仕方があるのでしょうけれども、ここではそのうちからふたつだけを見ることにしました。いま、そのふたつ目を、理化学研究所脳科学総合研究センター編『脳科学の教科書(こころ編)』(岩波ジュニア新書、2013年)を開いて確認しているところです。

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

 


 つぎの5つ*1を順に、同書のもとに確認しようということでした。

1.情動(何度も申しますように、科学は感情を情動とよびます)が、行動まえのウォーミングアップと説明されていること。

2.行動が、好物への接近行動と、敵からの逃避行動に二分されていること。

快さ(快情動)が、好物への接近行動まえのウォーミングアップ苦しさ(不快情動)敵からの逃避行動まえのウォーミングアップとそれぞれ説明されていること。

4.それら、好物への接近行動まえのウォーミングアップと、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップとがそれぞれ、脳のなかの特定の一点によって引き起こされるものと説明されていること*2

5.「脳によって身体機械がどのようなウォーミングアップをさせられているかを知らせる情報」が、電気信号のかたちで「身体機械」各所から発したあと、神経をへて脳に行き、そこで「身体の感覚(部分)」に変換され、それが、好物への接近行動まえのウォーミングアップについての情報なら、快さの「感じ」という分類のなかに入れられるいっぽう、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップについての情報なら、苦しさの「感じ」という分類のなかに入れられると説明されていること*3


 前記1と2はすでに同書のもとに確認がとれました。よって、前記3は自動的にもう確認が済んだことになります。では、つぎに、前記4を見ます*4。このように行動まえのウォーミングアップと解された快さと苦しさが、脳のなかの特定の一点によって引き起こされると解説されているところを確認します。まずは、苦しさが扁桃体という一点によって引き起こされるとされているのを見ます。以下、文中のゴシック体の部分にご注目ください。

 基本的な情動神経回路1(逃避行動と扁桃体

(略)まず、条件刺激としての単純な音や光などの感覚情報は、感覚種ごとにすべて大脳新皮質の手前の視床のどこかに集まります。情報はここで大きく二つの経路に分かれます。


 一方は、大脳皮質に送られてその「内容」について処理されたあとに海馬に送られて、そこで長期的に記憶されます。


 他方は、視床のすぐとなりに位置する扁桃体へただちに送られます。扁桃体では、その情報の内容というよりも、それが生存にとって(有利か不利かなど)どのような意味や価値をもつかが評価されます


 扁桃体でこのように処理された情報は、さらに大脳や海馬などの記憶情報とやりとりされて、過去のことがらについてたくわえられた長期的な記憶に、いわば情動的ないろどりをそえることになります。このように、扁桃体には、生存に直接かかわるような原初的な情報が記憶されていて、あとからそのような状況にぶつかるとこの記憶がひきだされ、それに対処するための身体的な反応情動反応・行動)が強く引きおこされるのです。「恐怖条件づけ」は、このような記憶と情動の相互作用の結果として成り立つ現象と考えられます。その結果引きおこされる身体反応には、つぎのようなものがあります


 扁桃体で処理された情動情報は、まず自律神経機能とホルモン分泌の中枢である視床下部へ送られて、心臓がドキドキと脈拍があがったり、血管系が変化して顔が赤くなったりあおくなったり、瞳がカッと見開いたりし、また胃腸のはたらきも変化して胃が痛くなったり腹がムカムカしたりします。恐怖をいだくような状況に出会うと、扁桃体からの情報は中枢へ伝達されて、すくみあがったり毛を逆立ててかまえるというような全身運動が引きおこされます。情動に特徴的な威嚇やおびえなどの表情も、この一連の行動の一つと考えられています*5


 苦しさ(不快情動)が、脳のなかの扁桃体という一点によって「身体機械」に引き起こされる、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップと解説されているのを以上、ご確認いただきました。


 いまみなさんは暗い顔をしておいでなのではないでしょうか。


 どうやらレイプ(いま改めてとり沙汰されている*6)についてお考えであるものとお見受けします。


 どういうことか。


 暴漢におそわれたとき、恐怖を強く感じれば感じるほど、身はより固まってしまうだろうとは、すこし想像力を働かせて考えてみれば、誰にだってすぐわかることであると思われます。


 ところが現代科学のいま見ている説でいきますと、暴漢におそわれたときに恐怖を感じるというのは、暴漢という敵からの逃避行動をスムースにとれるようにするため、あらかじめ脳が「身体機械」にさせるウォーミングアップであるということになります。恐怖を強く感じれば感じるほど、暴漢からの逃避行動がよりスムースにとれるようになると考えることになります。


 したがって、脳科学のこうした快さ苦しさについての説を信じてしまうと、レイプされたりされそうになったりしたひとが「怖くて逃げられなかった……」と勇気をふりしぼって打ち明けてくれているのを聞いても、つぎのような心ない言葉を平気でかけ、愚かしくも、相手を不当に傷つけることになります。

恐怖を感じていたのだから、逃げる準備はバッチリ整っていたはずだ。なのに、なぜ、あなたは、逃げなかったのか?


(怖くて逃げられなかったという証言)


 脳科学のように苦しさを、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップと解することは、よほどの人間知らずか、心ない人間かくらいにしかできないことなのではないでしょうか。


第29回←) (第30回) (→第31回

 

 

あけましておめでとうございます。
みなさんのご健康とご多幸をこころよりお祈り申し上げます。


以前の記事はこちら。

第1回(まえがき)


第2回(まえがき+このシリーズの目次)


第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)


第4回


第5回


第6回


第7回


第8回(西洋学問では快さや苦しさが何であるかをなぜ理解できないのか確認します。19回③まで)


第9回


第10回


第11回


第12回


第13回


第14回


第15回


第16回


第17回


第18回


第19回


第20回(最後に、西洋学問では快さや苦しさを何と誤解するのか確認します。)


第21回


第22回


第23回


第24回


第25回


第26回


第27回


第28回


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2019年1月7日に、「4つ」と書いていたのを「5つ」に改めました。

*2:2019年1月7日に、この項目4を追加しました。

*3:2019年1月7日に表現を一部修正しました。

*4:2019年1月7日にこの一分を追加しました。

*5:同書pp.135-139、ゴシック体は引用者による

*6:2019年1月7日にカッコ内の一文を追加しました。

脳科学の本を開いて現代科学流の快さ苦しさの定義を確認する

*科学するほど人間理解から遠ざかる第29回 


 快さを感じているというのは「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといったふうに快さと苦しさを理解することは、事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」というふたつの不適切な操作をなす西洋学問にはできないとのことでした。


 では快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか


 いろんな誤解の仕方があるのでしょうけれども、ここではそのうちのふたつを見ることにし、いまそのふたつ目を見ています


 そのふたつ目の誤解の仕方  理化学研究所脳科学総合研究センター編『脳科学の教科書(こころ編)』岩波ジュニア新書、2013年、で説かれているもののことですが  では、快さ快情動、脳が「身体機械」に、好物への接近行動をとらせるまえにさせるウォーミングアップ苦しさ不快情動、脳が「身体機械」に、敵からの逃避行動をとらせるまえにさせるウォーミングアップとするということでした。

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

 


 実際に同書をひらけて、そのように説明されているのをつぎの順で確認します。

情動(何度も申しますように、科学は感情を情動とよびます)行動まえのウォーミングアップと説明されていること

行動が好物への接近行動と敵からの逃避行動に二分されていること

3.快さ(快情動)が、好物への接近行動まえのウォーミングアップ、苦しさ(不快情動)が、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップとそれぞれ説明されていること。

4.それら、好物への接近行動まえのウォーミングアップと、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップとがそれぞれ、脳のなかの特定の一点によって引き起こされるものと説明されていること*1

5.「脳によって身体機械がどのようなウォーミングアップをさせられているかを知らせる情報」が、電気信号のかたちで「身体機械」各所から発したあと、神経をへて脳に行き、そこで「身体の感覚(部分)」に変換され、それが好物への接近行動まえのウォーミングアップについての情報なら、快さの「感じ」という分類のなかに入れられるいっぽう、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップについての情報なら、苦しさの「感じ」という分類のなかに入れられると説明されていること*2


 前記1「情動が行動まえのウォーミングアップと説明されている」ところをまず確認します。ゴシック体の部分にご注目ください。

 動物が、環境の中でなんらかの反応をすることが必要な状況に直面すると、その状況に対して適切な行動をスムーズにとれるように、からだの中ではさまざまな生理的な反応が自然に引きおこされてからだ全体の状態がその反応に向けて最適な状態に準備されます。たとえば、目の前においしい餌を見つければ、舌なめずりをしながらむしゃぶりつこうとするでしょうし、こわい敵にとつぜん出会えば、毛を逆立てて攻撃しようとするか、身がまえて逃げだそうとするでしょう。


 これらの、主に自律神経系のはたらきなどによる生理的な反応を、広く一般的に「情動反応といいます


(略)そして、そのときどきに適したさまざまな行動を引きおこすためのからだの内部状態のかまえ」あるいは「準備のしかた」のパターンが、一連の情動反応としてさまざまに分類されているのです*3


 脳科学者が、情動(反応)を行動まえのウォーミングアップと説明しているのをいまみなさんにご確認いただきました。つぎは前記2「行動が、好物への接近行動と、敵からの逃避行動に二分されている」のをごらんいただきます。今度もゴシック体の部分にご注目ください。

 しかし、情動反応の本質が、動物がその場での最適な行動をおこすためにからだの状態を準備することにあるならば、このような現象は、たとえばアメーバなどのごく下等な生物からでも観察することができるはずです。


(略)ここでもういちど、ある環境にのぞんだときの生物の基本的な行動・態度のパターンについて、よく考えなおしてみましょう。ある生物が外界のある状況におかれたときとる行動は、(そこにとどまって、ぼーっとしたまま何もしない、というような特別な場合以外は)基本的には、そこから「逃げる」「避ける」「退ける」といった忌避行動をとるか、「近づく」「認める」「とりこむ」といった接近行動をとるかに大きく分けられると思います〔引用者注:いまみなさんは前記2をご確認になりました〕。つまり、敵がくれば逃げるでしょうし、食べものがあれば食べにいくでしょう。そして、この状況に直面したとき、これらの行動がスムーズにとれるように、からだの状態が準備するわけです*4


 つぎに、前記3「快さ(快情動)が好物への接近行動まえのウォーミングアップ、苦しさ(不快情動)が敵からの逃避行動まえのウォーミングアップとそれぞれ説明されている」のを確認します。


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本年も大変お世話になりました。
ありがとうございます。
次回は、来年1月6日(日)21:00にお目にかかります。
みなさん、どうぞよいお年をお迎えください。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2019年1月7日に、この項目4を追加しました。

*2:2019年1月7日に表現を一部修正しました。

*3:同書pp.128-131、ゴシックは引用者による。

*4:同署pp.131-133、ゴシックは引用者による。

現代科学の定義には納得できるところがひとつもない

*科学するほど人間理解から遠ざかる第28回 


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといったように快さや苦しさを理解することは西洋学問にはできないとのことでした。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか


 いろんな誤解の仕方があるのでしょうけれども、ここではそのうちからふたつ見ることにし、ちょうどいまそのふたつ目(現代科学の情動理論)を見ているところです


 その誤解の仕方では、快さ(快情動)、脳が「身体機械」にさせる、好物への接近行動まえのウォーミングアップ苦しさ(不快情動)、脳が「身体機械」にさせる、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップとそれぞれし、快さや苦しさをみなさんに理解できない奇っ怪なものにしてしまう、とのことでした。


 そんなふうに解したのでは快さや苦しさが理解できなくなるのも当然です。このふたつ目の解し方については、すくなくともつぎの難点がすぐに思い浮かびます。

  1. 身体は「身体機械」ではない。
  2. 行動は好物への接近行動と敵からの逃避行動のふたつから成るのではない
  3. 行動は、「身体機械」の位置取りの変化ではない。
  4. 感情は行動まえのウォーミングアップではない
  5. 身体に起こる出来事を一点(いまの場合は脳)によって引き起こされるものと考えることはできない
  6. 「身体の感覚(部分)」は、心のなかにある、「身体機械についての情報」ではない。


 これらについて簡単にひと言ずつ申し述べていきます。


 前記1と6、および3については前述しました。ここではもう触れません。


(1と6については前者、3については後者の記事でそれぞれ触れました。)


 2については、こう申し添えましょう。いったいどういった根拠にもとづいて現代科学は行動をこうしたふたつから成ると考えたのか。友人と別れてひとり淋しく自宅に歩み行く俺は、敵から逃避しているのか。それとも好物に接近しているのか。にっくき相手打者に向かって球を投げこむ投手としての俺は、好物に近よっているのか、それとも敵から逃避しているのか。


 4についても、感情を行動まえのウォーミングアップと解する根拠はどこにあるのか、と疑問を呈さなければなりません。感情をどう説明してよいかわからず、苦し紛れに、行動にからめて定義づけたというのが真相なのではないでしょうか。


 5については正直、何か言うのはもうほとほと疲れました。


 現代科学では、好物への接近行動や敵からの逃避行動を脳という一点のせいにするとのことでしたが、ほんとうに出来事を一点のせいにすることはできるのでしょうか。実績を出すことによって科学を長いあいだ支え導いてきたのは、物理学や化学でしたけれども、それらが、ビーカーのなかで起こる出来事や、テーブルのうえで起こる出来事、水中で起こる出来事、ボイラーのなかで起こる出来事、宇宙空間で起こる出来事等を、何か一点によって引き起こされるものと説明したことはこれまで一度たりともなかったはずです。すくなくとも俺には物理学や化学に  といっても受験勉強や試験勉強をとおしてにすぎませんが  出来事を一点のせいにすることができると教えられた記憶はまったくありません。もし出来事を一点のせいにすることができるのなら、似かよった出来事を複数集めてきて、それらに共通する一点を探し出せば、それでもうその種の出来事は説明できたことになります。


 その一点がそうした出来事を引き起こすと断じればいいわけです。


 テーブルから物が落ちるという出来事についてなら、そうした出来事を複数集めてきて、それらすべてに共通して見つかる一点を探し出し、それこそ、テーブルから物を落とす一点(医学はこうした一点を原因とよびます)なのだとすれば、その出来事を解明できたことになります。今後テーブルのうえにそうした一点を見つけさえすれば、そのテーブルからいまにも物が落ちると自信満々に未来予想できることになります。物理学者や化学者も、出来事は一点によって引き起こされるとだけ考えていれば十分で、わざわざ、教科書に書かれているような法則を見つけ出そうと努力する必要もなかったし、学生も試験会場に、物理学や化学の授業で習った法則を暗記して臨む必要もなかったということになります。


 しかし、そんな一点はいくら探しても見つかりません*1、物理学者や化学者は、いま教科書にのっているような数々の法則を実際、必要としてきました。こうした事実はまさに、出来事は、一点のせいにすることができるほど単純なものではないということを示しているのではないでしょうか。


 俺が思うに、出来事を一点のせいにするというのは、ものごとを過度にわかりやすく見ようとする人間の悪癖であって(俺も含めてひとは隙あらばすぐ、出来事を一点のせいにしようとします)、出来事をつぶさに見ることを惜しみ性急に白黒つけようとするとき、ひとはしばしばこの論理に飛びつきます排外主義の根っこであるとも申し上げられるのではないでしょうか。自分たちの生活が苦しいのを移民のせいにするとか(世界の富の80%が、世界人口のたった1%に集中していると言われるなか、自分たちの生活が苦しいのをすべて移民におっ被せるのはおかしな話です)、社会が自分たちの思ったとおりではないのを、国内の一民族のせいにするとかといった差別のうちにみなさんは、出来事を一点のせいにするこうした論理をお認めになるのではないでしょうか。

健康帝国ナチス (草思社文庫)

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 科学は物理学や化学の分野からいっぽ外に踏み出すと、つまり身体に起こる出来事を扱うだんになると、急に、出来事を一点のせいにするこうした排外主義的論理をもちい出します。科学のなかでも医学という分野だけは、出来事を一点のせいにするこうした悪癖から手が切れていません(物理学的手法が生物の解明にも通用することをはじめて示したと言われる、1950年代に隆盛をきわめた分子生物学は、身体に起こる出来事を遺伝子という一点のせいにするために都合よく作り上げられた物語だったのではないでしょうか)。

生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫)

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 医学は「身体機械」に起こる出来事を正常なものと異常なものとに分け、前者については脳や遺伝子のせいにするいっぽう、後者については、ガンとか、ウィルス、細菌、といった一点のせいにしてきました。ほら、免疫学なんか排外主義まるだしです。昔話に出てくる偏屈な村人よろしく、身体の外から入ってくるものは敵(非自己は敵)だと頭ごなしに決めつけ、身体には、外からやってくるものを敵と認識して排除する機構(免疫機構)があるのだとするその論理は、排外主義以外の何ものでもないではありませんか。みなさんがいままで免疫学的知見とやらを口にされるとき、いつもひどくためらいを覚えておいでだったのは、そうした事情があってのことなのではないでしょうか。

免疫・「自己」と「非自己」の科学 (NHKブックス)

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 みなさんはいまガン治療のことをお考えかもしれません。すべてをガンという一点のせいにし、その一点さえ撲滅できればと言って、手術や抗ガン剤投与で、身体のなかを焼け野原にするのは、排外主義の論理そのものではないか、と。

がん検診の大罪 (新潮選書)

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 先に挙げました1から6までの難点について、ひと言、ふた言、何やらぶつぶつと申しました。大変こころ苦しいかぎりですが、いくら頑張っても、いま点検している現代科学流の快さ苦しさについての解釈(情動理論)には、まともな論理はひとつたりとも見い出せないとしか申し上げられないように思われます。


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12月25日に表現を一部修正しました。


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*1:身体にガンができるという出来事を一点(遺伝子)のせいにできると考え、ガンの完全解明を謳った、アメリカの有名大プロジェクトは、思ったよりうまくいかなかったのではないでしょうか。ワインバーグ教授ははっきり失敗だったと言っているようですが……