*科学するほど人間理解から遠ざかる第30回
快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといったふうに快さや苦しさを的確に理解することは西洋学問にはできないとのことでした。
では、快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか。
いろんな誤解の仕方があるのでしょうけれども、ここではそのうちからふたつだけを見ることにしました。いま、そのふたつ目を、理化学研究所脳科学総合研究センター編『脳科学の教科書(こころ編)』(岩波ジュニア新書、2013年)を開いて確認しているところです。
つぎの5つ*1を順に、同書のもとに確認しようということでした。
1.情動(何度も申しますように、科学は感情を情動とよびます)が、行動まえのウォーミングアップと説明されていること。
2.行動が、好物への接近行動と、敵からの逃避行動に二分されていること。
3.快さ(快情動)が、好物への接近行動まえのウォーミングアップ、苦しさ(不快情動)が、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップとそれぞれ説明されていること。
4.それら、好物への接近行動まえのウォーミングアップと、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップとがそれぞれ、脳のなかの特定の一点によって引き起こされるものと説明されていること*2。
5.「脳によって身体機械がどのようなウォーミングアップをさせられているかを知らせる情報」が、電気信号のかたちで「身体機械」各所から発したあと、神経をへて脳に行き、そこで「身体の感覚(部分)」に変換され、それが、好物への接近行動まえのウォーミングアップについての情報なら、快さの「感じ」という分類のなかに入れられるいっぽう、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップについての情報なら、苦しさの「感じ」という分類のなかに入れられると説明されていること*3。
前記1と2はすでに同書のもとに確認がとれました。よって、前記3は自動的にもう確認が済んだことになります。では、つぎに、前記4を見ます*4。このように行動まえのウォーミングアップと解された快さと苦しさが、脳のなかの特定の一点によって引き起こされると解説されているところを確認します。まずは、苦しさが扁桃体という一点によって引き起こされるとされているのを見ます。以下、文中のゴシック体の部分にご注目ください。
基本的な情動神経回路1(逃避行動と扁桃体)
(略)まず、条件刺激としての単純な音や光などの感覚情報は、感覚種ごとにすべて大脳新皮質の手前の視床のどこかに集まります。情報はここで大きく二つの経路に分かれます。
一方は、大脳皮質に送られてその「内容」について処理されたあとに海馬に送られて、そこで長期的に記憶されます。
他方は、視床のすぐとなりに位置する扁桃体へただちに送られます。扁桃体では、その情報の内容というよりも、それが生存にとって(有利か不利かなど)どのような「意味や価値」をもつかが評価されます。
扁桃体でこのように処理された情報は、さらに大脳や海馬などの記憶情報とやりとりされて、過去のことがらについてたくわえられた長期的な記憶に、いわば情動的ないろどりをそえることになります。このように、扁桃体には、生存に直接かかわるような原初的な情報が記憶されていて、あとからそのような状況にぶつかるとこの記憶がひきだされ、それに対処するための身体的な反応(情動反応・行動)が強く引きおこされるのです。「恐怖条件づけ」は、このような記憶と情動の相互作用の結果として成り立つ現象と考えられます。その結果引きおこされる身体反応には、つぎのようなものがあります。
扁桃体で処理された情動情報は、まず自律神経機能とホルモン分泌の中枢である視床下部へ送られて、心臓がドキドキと脈拍があがったり、血管系が変化して顔が赤くなったりあおくなったり、瞳がカッと見開いたりし、また胃腸のはたらきも変化して胃が痛くなったり腹がムカムカしたりします。恐怖をいだくような状況に出会うと、扁桃体からの情報は中枢へ伝達されて、すくみあがったり毛を逆立ててかまえるというような全身運動が引きおこされます。情動に特徴的な威嚇やおびえなどの表情も、この一連の行動の一つと考えられています*5。
苦しさ(不快情動)が、脳のなかの扁桃体という一点によって「身体機械」に引き起こされる、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップと解説されているのを以上、ご確認いただきました。
いまみなさんは暗い顔をしておいでなのではないでしょうか。
どうやらレイプ(いま改めてとり沙汰されている*6)についてお考えであるものとお見受けします。
どういうことか。
暴漢におそわれたとき、恐怖を強く感じれば感じるほど、身はより固まってしまうだろうとは、すこし想像力を働かせて考えてみれば、誰にだってすぐわかることであると思われます。
ところが現代科学のいま見ている説でいきますと、暴漢におそわれたときに恐怖を感じるというのは、暴漢という敵からの逃避行動をスムースにとれるようにするため、あらかじめ脳が「身体機械」にさせるウォーミングアップであるということになります。恐怖を強く感じれば感じるほど、暴漢からの逃避行動がよりスムースにとれるようになると考えることになります。
したがって、脳科学のこうした快さ苦しさについての説を信じてしまうと、レイプされたりされそうになったりしたひとが「怖くて逃げられなかった……」と勇気をふりしぼって打ち明けてくれているのを聞いても、つぎのような心ない言葉を平気でかけ、愚かしくも、相手を不当に傷つけることになります。
「恐怖を感じていたのだから、逃げる準備はバッチリ整っていたはずだ。なのに、なぜ、あなたは、逃げなかったのか?」
(怖くて逃げられなかったという証言)
脳科学のように苦しさを、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップと解することは、よほどの人間知らずか、心ない人間かくらいにしかできないことなのではないでしょうか。
あけましておめでとうございます。
みなさんのご健康とご多幸をこころよりお祈り申し上げます。
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第1回(まえがき)
第2回(まえがき+このシリーズの目次)
第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)
第4回
第5回
第6回
第7回
第8回(西洋学問では快さや苦しさが何であるかをなぜ理解できないのか確認します。19回③まで)
第9回
第10回
第11回
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第20回(最後に、西洋学問では快さや苦しさを何と誤解するのか確認します。)
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