*障害という言葉のどこに差別があるか考える第19回
科学は健康を正常であること、病気を異常であることと定義づけ、医学を「異常なひとを無くす営み」と考えます。
しかし第1部で確認しました。正常異常の区別は機械に対してつけられず、当然ひとに対してもつけられませんでした。そんな正常異常の区別にもとづいて、健康、病気、医療、を定義づけるのは適切だとは思われません。
ちょうど先ほど、息がしにくい、幻聴がするといったふたつの訴えを用いて確認しましたように、健康とは苦しくない状態がつづくこと、病気とは苦しい状態が引きつづくこと、医療とは苦しまずにいられるようひとを手助けする営み、ではないでしょうか。
何か俺は突飛なことを申し上げているでしょうか。いや、どなたにでも考えつくことがおできになる、ごくごく当たりまえのことを、拙い表現力でぎこちなく申し上げているだけではないでしょうか。こんなにも病院をはじめ、いろんなところでたくさんのひとたちがたえず苦しみを訴え、苦しまずにいられるようになりたいと要望しているというのに、わざわざ、健康、病気、医学、を、正常異常という、何を意味しているのか誰もまともに把握していない区別にもとづいて定義づけるのはむしろ不自然だ、とみなさんお感じになりませんでしょうか。
もしそうお感じになるなら、それと同時にご自身の胸中に暗い陰がさっと兆すのをみなさんお見逃しにはならないでしょう。
そして呆然とこう独り言たれることでしょう。
ひょっとして科学には、快さとか苦しさが何であるか理解できないのではないか、と。
で、みなさんはふと思い返してごらんになる。すると、快さとか苦しさというのが、昔っから西洋学問ではほとんど取り扱われてこなかったことにお気づきになって愕然
えっ、俺?
俺の見解は・・・・・・科学のように身体を機械と考えると、快さや苦しさがいったい何であるか一気に理解できなくなる・・・・・・
ですが、それについては詳しくお話しする準備をしておりません。しておったのは油断のほうでした! 未来の俺に別の文章でつまびらかに話させます。
ただ、あつかましくも、ひと言だけ・・・・・・
科学の快さと苦しさについての見方は、寡聞な俺が知っているところでは、ふたつです。身体を機械と考える科学にとっての身体を「身体機械」と呼ぶことにしますと、こうです。
- 1.快さを、神経をつたって心(脳)のなかにやってきた、「身体機械」が正常であることを知らせる情報、苦しさを、神経をつたって心(脳)のなかにやってきた、「身体機械」が異常であることを知らせる情報とする見方、
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- 2.快さ(快情動)を、脳が「身体機械」に好物への接近行動をとらせるまえにさせるウォーミングアップ、苦しさ(不快情動)を、脳が「身体機械」に敵からの逃避行動をとらせるまえにさせるウォーミングアップとする見方。
俺が点検しました限りでは、どちらの説をとっても、快さと苦しさが何であるか理解できなくなります。前記1の見方をとると、快さや苦しさが、「身体機械」の正常異常を知らせる情報としては役に立たないという結論に至りますし、前記2の見方をとれば、レイプされた女性に「なぜ逃げなかったのか」と詰問することに、おぞましくもなります。
快さや苦しさが何であるか理解するためにはまず、身体を機械と見るのをやめなければなりませんが、身体を機械と見るものこそが科学であって、科学には身体を機械と見ることはやめられないというのが俺の見立てです。ああ、しゃべり過ぎました、申し訳ありません、詳しいことは未来の俺にお聞きになってください。現在の俺は先を急ぐことにします。
次回は3月25日(日)9:00にお目にかかります。
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