(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

現代科学の定義には納得できるところがひとつもない

*科学するほど人間理解から遠ざかる第28回 


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといったように快さや苦しさを理解することは西洋学問にはできないとのことでした。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか


 いろんな誤解の仕方があるのでしょうけれども、ここではそのうちからふたつ見ることにし、ちょうどいまそのふたつ目(現代科学の情動理論)を見ているところです


 その誤解の仕方では、快さ(快情動)、脳が「身体機械」にさせる、好物への接近行動まえのウォーミングアップ苦しさ(不快情動)、脳が「身体機械」にさせる、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップとそれぞれし、快さや苦しさをみなさんに理解できない奇っ怪なものにしてしまう、とのことでした。


 そんなふうに解したのでは快さや苦しさが理解できなくなるのも当然です。このふたつ目の解し方については、すくなくともつぎの難点がすぐに思い浮かびます。

  1. 身体は「身体機械」ではない。
  2. 行動は好物への接近行動と敵からの逃避行動のふたつから成るのではない
  3. 行動は、「身体機械」の位置取りの変化ではない。
  4. 感情は行動まえのウォーミングアップではない
  5. 身体に起こる出来事を一点(いまの場合は脳)によって引き起こされるものと考えることはできない
  6. 「身体の感覚(部分)」は、心のなかにある、「身体機械についての情報」ではない。


 これらについて簡単にひと言ずつ申し述べていきます。


 前記1と6、および3については前述しました。ここではもう触れません。


(1と6については前者、3については後者の記事でそれぞれ触れました。)


 2については、こう申し添えましょう。いったいどういった根拠にもとづいて現代科学は行動をこうしたふたつから成ると考えたのか。友人と別れてひとり淋しく自宅に歩み行く俺は、敵から逃避しているのか。それとも好物に接近しているのか。にっくき相手打者に向かって球を投げこむ投手としての俺は、好物に近よっているのか、それとも敵から逃避しているのか。


 4についても、感情を行動まえのウォーミングアップと解する根拠はどこにあるのか、と疑問を呈さなければなりません。感情をどう説明してよいかわからず、苦し紛れに、行動にからめて定義づけたというのが真相なのではないでしょうか。


 5については正直、何か言うのはもうほとほと疲れました。


 現代科学では、好物への接近行動や敵からの逃避行動を脳という一点のせいにするとのことでしたが、ほんとうに出来事を一点のせいにすることはできるのでしょうか。実績を出すことによって科学を長いあいだ支え導いてきたのは、物理学や化学でしたけれども、それらが、ビーカーのなかで起こる出来事や、テーブルのうえで起こる出来事、水中で起こる出来事、ボイラーのなかで起こる出来事、宇宙空間で起こる出来事等を、何か一点によって引き起こされるものと説明したことはこれまで一度たりともなかったはずです。すくなくとも俺には物理学や化学に  といっても受験勉強や試験勉強をとおしてにすぎませんが  出来事を一点のせいにすることができると教えられた記憶はまったくありません。もし出来事を一点のせいにすることができるのなら、似かよった出来事を複数集めてきて、それらに共通する一点を探し出せば、それでもうその種の出来事は説明できたことになります。


 その一点がそうした出来事を引き起こすと断じればいいわけです。


 テーブルから物が落ちるという出来事についてなら、そうした出来事を複数集めてきて、それらすべてに共通して見つかる一点を探し出し、それこそ、テーブルから物を落とす一点(医学はこうした一点を原因とよびます)なのだとすれば、その出来事を解明できたことになります。今後テーブルのうえにそうした一点を見つけさえすれば、そのテーブルからいまにも物が落ちると自信満々に未来予想できることになります。物理学者や化学者も、出来事は一点によって引き起こされるとだけ考えていれば十分で、わざわざ、教科書に書かれているような法則を見つけ出そうと努力する必要もなかったし、学生も試験会場に、物理学や化学の授業で習った法則を暗記して臨む必要もなかったということになります。


 しかし、そんな一点はいくら探しても見つかりません*1、物理学者や化学者は、いま教科書にのっているような数々の法則を実際、必要としてきました。こうした事実はまさに、出来事は、一点のせいにすることができるほど単純なものではないということを示しているのではないでしょうか。


 俺が思うに、出来事を一点のせいにするというのは、ものごとを過度にわかりやすく見ようとする人間の悪癖であって(俺も含めてひとは隙あらばすぐ、出来事を一点のせいにしようとします)、出来事をつぶさに見ることを惜しみ性急に白黒つけようとするとき、ひとはしばしばこの論理に飛びつきます排外主義の根っこであるとも申し上げられるのではないでしょうか。自分たちの生活が苦しいのを移民のせいにするとか(世界の富の80%が、世界人口のたった1%に集中していると言われるなか、自分たちの生活が苦しいのをすべて移民におっ被せるのはおかしな話です)、社会が自分たちの思ったとおりではないのを、国内の一民族のせいにするとかといった差別のうちにみなさんは、出来事を一点のせいにするこうした論理をお認めになるのではないでしょうか。

健康帝国ナチス (草思社文庫)

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 科学は物理学や化学の分野からいっぽ外に踏み出すと、つまり身体に起こる出来事を扱うだんになると、急に、出来事を一点のせいにするこうした排外主義的論理をもちい出します。科学のなかでも医学という分野だけは、出来事を一点のせいにするこうした悪癖から手が切れていません(物理学的手法が生物の解明にも通用することをはじめて示したと言われる、1950年代に隆盛をきわめた分子生物学は、身体に起こる出来事を遺伝子という一点のせいにするために都合よく作り上げられた物語だったのではないでしょうか)。

生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫)

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 医学は「身体機械」に起こる出来事を正常なものと異常なものとに分け、前者については脳や遺伝子のせいにするいっぽう、後者については、ガンとか、ウィルス、細菌、といった一点のせいにしてきました。ほら、免疫学なんか排外主義まるだしです。昔話に出てくる偏屈な村人よろしく、身体の外から入ってくるものは敵(非自己は敵)だと頭ごなしに決めつけ、身体には、外からやってくるものを敵と認識して排除する機構(免疫機構)があるのだとするその論理は、排外主義以外の何ものでもないではありませんか。みなさんがいままで免疫学的知見とやらを口にされるとき、いつもひどくためらいを覚えておいでだったのは、そうした事情があってのことなのではないでしょうか。

免疫・「自己」と「非自己」の科学 (NHKブックス)

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 みなさんはいまガン治療のことをお考えかもしれません。すべてをガンという一点のせいにし、その一点さえ撲滅できればと言って、手術や抗ガン剤投与で、身体のなかを焼け野原にするのは、排外主義の論理そのものではないか、と。

がん検診の大罪 (新潮選書)

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 先に挙げました1から6までの難点について、ひと言、ふた言、何やらぶつぶつと申しました。大変こころ苦しいかぎりですが、いくら頑張っても、いま点検している現代科学流の快さ苦しさについての解釈(情動理論)には、まともな論理はひとつたりとも見い出せないとしか申し上げられないように思われます。


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12月25日に表現を一部修正しました。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:身体にガンができるという出来事を一点(遺伝子)のせいにできると考え、ガンの完全解明を謳った、アメリカの有名大プロジェクトは、思ったよりうまくいかなかったのではないでしょうか。ワインバーグ教授ははっきり失敗だったと言っているようですが……