(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

身体を機械と考えると、やれ健康だ、やれ病気だと言っているときに、争点にするところが、みなさんのように「苦しくないか、苦しいか」ではなく、「正常か、異常か」になってしまう科学の実例2つ(2/5)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.7】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.53


◆快さ(苦しさ)を、「身体機械」が正常(異常)であることを知らせる、心のなかのサインとする説

 機械ではない身体を機械と見なす科学には、快さや苦しさを説明する仕方が、俺には、つぎの2種類あるように思われます。ただしそのどちらも、快さと苦しさを、心のなかにある何かを知らせるサインと解するものですが。

  1. 快さを、心のなかに発生した、「身体機械が正常であることを知らせるサインとし、苦しさを、心のなかに発生した、「身体機械」が異常であることを知らせるサインとする説
  2. 快さを、心のなかに発生した、好物への接近行動まえに「身体機械」が行っている準備運動(ウォーミングアップ)がいかようかを知らせるサインとし、苦しさを、心のなかに発生した、敵からの逃避行動まえに「身体機械」が行っている準備運動(ウォーミングアップ)がいかようか知らせるサインとする説


 今回はこの1を見ます。この説をとると、前記した深刻な争点のすり替えが起こるということをいまから確認します。


 では、身体は機械ではないということをもう一度確認するところからはじめましょうか。


 いま俺の頭のてっぺんから足の先まで「感覚」がひと連なりになっています。で、その「感覚」が占めているのとほぼおなじ場所を、髪、皮膚、筋肉、骨、内臓等といった「物」もまた占めています。


 これら、ほぼおなじ場所を占めている「感覚を合わせて、みなさんはふだん、身体と呼ぶということでしたよね。

 

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身体について確認した記事はこちら。

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 まえのほうで、その前者「感覚」のほうを「身体の感覚」、いっぽう後者「物」のほうを「身体の物(カラダ・ノ・ブツ)」とそれぞれ呼ぶことにしておきました。


 このように、身体には、機械にはない「感覚」というものが認められます。そのことから、身体は機械ではないと簡単に断じることができました。


 しかし、この機械ではない身体を、事のはじめに「絵の存在否定」「存在の客観化」というふたつの存在改悪作業を為す科学は、機械と見なすということでしたよね。


 言い換えると、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小のもの(元素)の寄せ集めにすぎないものと見るということでしたね。


 そのように科学が機械と見なす身体のことを先に「身体機械」と名づけました。以後その名前を使っていきます。


 そして、そんな科学にとって、頭のてっぺんから下半身の末端までひと連なりになっている「身体の感覚心のなかにある像であることになるということでしたね。心の外に実在している「身体機械についての情報をもとに脳が心のなかに作り出したものなんだ、って。


 以上、科学の身体観をまとめるとこうなります。

  • ①身体とは「身体機械」である。
  • ②「身体の感覚」は、俺の心のなかにある像である。
  • ③その像は、心の外に実在している「身体機械」についての情報をもとに、脳が作り出したものである。


 で、今回点検する説では、このあと、科学はこう続けます。






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*前回の短編(短編NO.52)はこちら。


*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。