*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.18
◆感じているところが錯覚である可能性
ではここで、ふたり目の女性にも登場してもらいますよ。その女性も、先の女性とおなじく、統合失調症と診断され、「理解不可能」と決めつけられてきました。
ある若い女性のケースを例に引こう。彼女は、自分が人気ミュージシャンから愛されているという妄想を抱いていた。彼女にとって、テレビや雑誌を見ることはスリリングで、心騒ぐ楽しみであった。というのも、彼女を愛しているミュージシャンが、番組の最中に、あるいは雑誌の記事の中で、あるいは歌う歌詞に託して、彼女に向けた特別のメッセージを送ってくるからだった。番組の最中にも、彼は大胆不敵にも、彼女に合図を送ってくるのだ。彼女だけを強く見つめてきたり、意味深な言葉を口にする。彼女は、恥ずかしくてドキドキしてしまう。
「私のことを全部知っているんです。そういうことってあり得るんですかね」とか、「番組中なのに、そんなことまで言っていいのかなって、私のほうが心配になって」と気を揉むのだ(岡田尊司「統合失調症」PHP新書、2010年、pp.235-236、ただしゴシック化は引用者による)。
こう書いてありましたね。「彼女にとって、テレビや雑誌を見ることはスリリングで、心騒ぐ楽しみであった。というのも、(略)ミュージシャンが、番組の最中に、あるいは雑誌の記事の中で、あるいは歌う歌詞に託して、彼女に向けた特別のメッセージを送ってくるからだった。番組の最中にも、彼は大胆不敵にも、彼女に合図を送ってくるのだ。彼女だけを強く見つめてきたり、意味深な言葉を口にする。彼女は、恥ずかしくてドキドキしてしまう」んだ、って。
これがいったいどういうことなのか、いまから考察していきますよ。
でもそのまえに、「感じる」ということについて、あらかじめ、ひとつ確認させておいてもらっても構いません?
みなさん、いきなりですけど、何を聞いても下ネタに聞こえるといった経験を思春期頃、したこと、ありませんか。決まり悪がらずに、ようく思い返してみてくださいよ。
どうですか。そうしたときみなさんは、事態がつぎのふたつのうちのいずれに当たるのか、決めかねたこと、ありませんか。
- A.相手がほんとうに下ネタを言ってきている。
- B.相手が下ネタを言ってきているとこちらが勝手に「感じている」だけである(錯覚している)。
いや、何も下ネタを例に出すことはありませんでしたね。ひとに嫌みを言われているように「感じる」場面を例に挙げたほうがよかったといま、気づきましたよ。「嫌み」についての経験なら、みなさんもきっと素直に考察できるはずですしね? ひとに嫌みを言われているように「感じる」とき、みなさんは事態がつぎのどちらに当たるのか、判断に迷うこと、ありませんか。
- A.相手がほんとうに嫌みを言ってきている。
- B.相手が嫌みを言ってきていると自分が勝手に「感じている」だけである(錯覚している)。
相手が「下ネタ」を言ってきていると「感じ」られても、かならずしもほんとうに相手が「下ネタ」を言ってきているとは限らないし、相手が「嫌み」を言ってきていると「感じ」られるときも、それと同様である、ということですよね? 「感じている」ところが錯覚にすぎないことが、ままありますね?
それは、ひとが好意を寄せてきていると「感じ」られるときもおなじではありませんか。
相手から「好意」を寄せられていると「感じる」が、果して真相はつぎのどちらなのだろうと頭を悩ませた経験、みなさんにならきっとあるだろうと、俺、ニラんでます。
- A.相手がほんとうに好意を寄せてきている。
- B.相手が好意を寄せてきていると自分が勝手に「感じている」だけである(錯覚している)。
先の「下ネタ」「嫌み」の場合とおなじく、「感じている」ところが錯覚である可能性があるだけに、みなさん、しばしば判断に迷ったのではありませんか。
*今回の最初の記事(1/7)はこちら。
*前回の短編(短編NO.17)はこちら。
*このシリーズ(全64短編を予定)の記事一覧はこちら。