(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

医学だけが無視するこの世の根本原理について確認しはじめる(1/3)

*医学は喩えると、空気の読めないガサツなおじさん第1回

目次
・医学だけが無視するこの世の根本原理
・大木の姿をつぶさに観察する
・身体とは


◆医学だけが無視するこの世の根本原理

なんぴとも無視することのできないこの世の根本原理は何か」と問われたら、俺なら、照れながらおずおずと、こう答えるでしょうね。「この世の最小単位は状況である」というのがその根本原理なんだ、って。すなわち、状況最小単位説こそ、そうした根本原理の名にふさわしいんだ、って。


 状況・最小単位説って名前は俺が勝手につけましたよ。いつものことです。


 えっ、この世の根本原理がドウのコウのなんてきょうび誰も言わない? そんなこと言う人間は中二病? ねえ、もうやめましょうよ、やれ中二病だなんだと言ってひとを嗤うのは。口先とんがらがして「中二病中二病だw」と誰かを嘲笑っているひとが、ひとまえではアゴを撫でまわしながら「みんな違って、みんなイイ」なんて、感に堪えないような声出すの、聞きたくないですよ、俺。


 なんの話してましたっけ? ああなんぴとも無視することのできないこの世の根本原理について話してましたね。状況・最小単位説こそ、この世の根本原理なんだって俺さっき小さな声で恥ずかしそうに言いました。これからちょっと汚名返上させてもらえません? だって、このままじゃあ、「状況・最小単位説ってナニ? アイツまた変なこと言ってる。笑」で終わりじゃないですか。いま何か変なことを言っているように聞こえるかもしれないけど、超大事なことに触れてるんだってわかってほしいな、と。


 ねえ、ちょっと聞いてみてくださいよ。


 手短にお話ししますし、お願いしますよ。


 俺が思うに、なんぴとも無視できないほど重要であるにもかかわらず、この状況最小単位説にもとづこうとしてこなかった学問がひとつあります


 医学ですよ


 おなじ科学でも、物理学や化学はこの原理にもとづこうと努力してきたのに、医学だけ無視を決め込んできました。その結果医学は現実にうまくついてこれませんでした。そのことを悟られないようこれまでただヘリクツで誤魔化してきただけで。えっ、また悪口かって? ちがいますよ。俺ほど科学を愛しているヤツはいないですよ。ほんとうに愛しているのでなければ、醜悪な面まで直視することはできないはずだし、いやまあそんなことはどうだっていいや、本題に入りますね。


 俺が状況最小単位説と名づけたなんぴとも無視することのできないこの世の根本原理をこれから見ていきます。で、最後に、物理学も化学もこの原理にもとづこうと汗水たらしてきたのに医学だけちっとももとづこうと努力してこなかったってことを簡単に確認して、今回は終わりとしましょうか、ね?


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科学は快さや苦しさをどういったものと誤解するのか、遠い目をしてふり返る(4/4)

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第3回


 説2では、快さを、快さ(快情動)と快さの「感じ」のふたつに分け、また、苦しさのほうも、苦しさ(不快情動)と苦しさの「感じ」のふたつに分けたうえで、快さと苦しさ(快情動と不快情動)行動まえのウォーミングアップと定義づけます


 箇条書きにするとこうなります。


.行動を、脳によって「身体機械」に引き起こされる出来事であることにし、好物への接近行動と、敵からの逃避行動のふたつから成るとする(行動を二分する)。


.情動(快情動+不快情動)を、脳が「身体機械」にさせる、行動まえのウォーミングアップであることにする。

  • 快さ(快情動)、脳が「身体機械」にさせる、好物への接近行動まえのウォーミングアップであることにする。
  • 苦しさ(不快情動)、脳が「身体機械」にさせる、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップであることにする。


.「身体機械がしているウォーミングアップの様子を知らせる情報」が、電気信号のかたちで、「身体機械」各所から発したあと、神経をつたって脳まで行き、そこで、その「情報」が情報Aに当たるときは、快さの「感じ」というマークを脳につけられて分類されるいっぽう、その「情報」が情報Bに当たるときは、苦しさの「感じ」というマークを脳につけられて分類されるということにする。

  • 情報A:「身体機械がしている、好物への接近運動まえのウォーミングアップの様子を知らせる情報」
  • 情報B:「身体機械がしている、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップの様子を知らせる情報」


(この説2は、下記の本に載っているものです)

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

 


 この説2、めちゃくちゃじゃないですか? 何ひとつとしてまともなところがないような気がしません?


 なかでも特に気にかかるのはこんな説をとったんじゃあ恐怖や驚きで身がすくむっていう誰でも知っている当たりまえのことすら捉えられなくなるってことですよ


 イカつい人間に絡まれて、恐怖で身がすくんだ覚え、みなさん、ありません? それとか、いきなりモノカゲから車、自転車、もしくはひとが飛び出てきたのにびっくりして身が固まったってこと、みなさん、ありませんかね?


 恐怖を感じたり、驚いたりすると、身が固まるじゃないですか。緊張しても、ね? けど、この説2を信奉すると、恐怖や驚きや緊張をまったく逆に解することになるじゃないですか、ね?


 この説2では苦しさ(不快情動)を、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップと定義づけるってことでしたよね(前記ⅱのふたつ目)? したがって、暴漢に襲われて恐怖を感じているというのは、この説2にしたがうと、暴漢という敵からの逃避行動まえのウォーミングアップを「身体機械」がしている状態ってことになります、ね? つまり、恐怖を感じていればいるほど、ウォーミングアップがしっかりとれているということになって、その後、暴漢という敵からの逃避行動をよりスムースにとれるってことになるじゃないですか、ね?


 よって、説2の信奉者は、レイプされたひとや、レイプされそうになったひとが、「怖くて逃げられなかった」と打ち明ける*1のを聞いて、こう考えることになるじゃないですか。


「恐怖を感じていたのなら、スムースに逃げられたはずだ。なのに、なぜ逃げなかった!」


 こんな説2なんか、とてもじゃないですけど、とれるわけありませんよ。


 さて、快さと苦しさについて先日、長々と書いた文章の要旨を、ここまで、遠い目をしながらふり返ってきました。


(先日、長々と書いた文章はこちら)


 思い返したのはつぎの3点でした、ね?

  1. 快さとか苦しさというのは何なのか。
  2. 西洋学問では、なぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか。
  3. 西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのか。


 今日、見たのは3でした。説をふたつ見ました。


 その途中で(説1を見ているところで)、快いか苦しいかといった区分はみなさんにとってとても大事なんだって確認したじゃないですか。その区分は、みなさんにとって、健康であるか、病気であるかといった区分に当たるんだ、って。みなさんは医学に、快いか苦しいかといった区分を気にしてほしがっているんだ、って。


 でも、見てきたように、医学には、快いか苦しいかといった区分は目に映らないわけですよ。


 みなさんはこのことをどう思い為しますか、ね?*2


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*1:「怖くて逃げられなかった」という証言について。

*2:2019年3月14日に文章を一部訂正しました。

科学は快さや苦しさをどういったものと誤解するのか、遠い目をしてふり返る(3/4)

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第3回


 快さについてもこれとおなじことになります、よね? 病院で何も異常は見つからないのに、体調が芳しくないってこと、あるじゃないですか。説1にしたがうと、「身体機械」が正常でも、快さを感じているとは限らないということになります、よね? 


 そこから、身体機械が正常であるかどうかを知るのに、快さの感じは当てにならないということになって、結果、身体機械が正常であるかどうかは、身体機械だけを見て決めるべきだってことになりますよ、ね?


 このように、快さや苦しさを「身体機械が正常であるか、もしくは異常であるかを知らせる情報」と定義づけると、快いか苦しいかといった区分と、「身体機械」が正常であるか異常であるかといった区分はまったく別のふたつだってことになり、快いか苦しいかといった前者の区分は無視されることになるってことだったじゃないですか、ね?


 実際、快いか苦しいかといった区分って無視されてません?


 ちょっと考えてみてくださいよ。健康とか病気とかっていったい何ですかね? 


 みなさん、健康であると言うとき、そのひと言で、苦しまずに居られていることを表現しようとするんじゃないですか、ね? いっぽう病気であると言うときは、そのひと言で、苦しんでいることを言い表そうとするんじゃないですか、ね?


 健康であるとか病気であるとか言うことでみなさんが争点にするのは、苦しまずに居られているか、苦しんでいるか(快いか、苦しいか)じゃないですか、ね?


 そんなみなさんにとって、治るっていうのは、当然、苦しまずに居られるようになること、なんじゃないですか、ね?


 みなさんは医学に、苦しまずに居られているか、苦しんでいるか(快いか、苦しいか)といった区分を気にしてほしがっているんじゃないのかなあ。


 けど、西洋学問では、異常なひとも、異常な数値も、異常なかたちも、ほんとうはこの世に存在しないっていうのに、健康とは正常であること、病気とは異常であること、と定義づけてきたじゃないですか。医学が健康であるとか病気であるとかと言ってしきりに気にするのは正常であるか異常であるか、ですよ、ね? そんな医学にとって、治療とはあくまで正常になることを目的とするものであって、その目的実現のためには、治療を受けるとこうむることになる苦しさはどんなにつらいものであっても我慢すべきだってことなんじゃないですか、ね?


 さあ、今度は、訳のわからない説2のほうを見ていきますよ。


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科学は快さや苦しさをどういったものと誤解するのか、遠い目をしてふり返る(2/4)

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第3回


 いまふり返っている先日の文章では、説をふたつ確認したじゃないですか。

  • 説1.快さを、心のなかにある、「身体機械が正常であることを知らせる情報」、苦しさを、心のなかにある、「身体機械が異常であることを知らせる情報」とする説(自覚症状という言葉を使うとき、ひとが採用しているもの)
  • 説2.快さと苦しさを、「身体機械」が行動まえにするウォーミングアップとする説


 説1から順にざっと振り返っていきます、ね?


 説1は、こういうものだと言えるんじゃないですか、ね? 腹痛(苦しさの感じ)なら、心のなかにある、「身体機械の腹部に異常があることを知らせる情報」、かたや身体中にみなぎっている活力(快さの感じ)なら、心のなかにある、「身体機械が正常であることを知らせる情報」と見るものだ、って。


 でも、この世には異常ということはあり得ないじゃないですか。今日は確認しませんけど、まえにそのこと、確認しましたよ、ね? 異常な機械も、異常な気象も、異常なひとも、異常な感情も、この世には存在し得ないんだ、って。言うなればすべては正常なんだ、って。異常なものなんかないというこのことから、快さと苦しさを、「身体機械が正常であるか、もしくは異常であるかを知らせる情報」とするこの説1は成り立たないと言えますよ、ね?


 ほんとうなら他のみんなとおなじく正常と判定されるべき一部のひとたちを不当にも異常と決めつける差別をするつもりなら別ですけど(皮肉で言っていますよ)。


(このシリーズ等で、異常なものなどこの世には存在し得ないことを確認しました)


 しかもこの説をとると、快いか苦しいかといった区分と、「身体機械」が正常であるか異常であるかといった区分は最終的に別のふたつのものとなり、前者の区分は無視されることになるってことだったじゃないですか。


 こういうことでした、よね?


 足首を痛めているとしますよ。この説1でいくと、足首のその痛みは、心のなかにある、「身体機械の足首部分に異常があることを知らせる情報」であることになるじゃないですか。でも、いざ試合になると、足首に痛みを感じなくなるってこと、ありますよね? そういった状態は、説1にしたがうとこういうことになります。足首部分には依然、異常があるのに、心のなかには、「身体機械の足首部分に異常があることを知らせる情報」がやって来ていない状態なんだ、って。


 説1にしたがうと、「身体機械」に異常があっても、苦しさを感じているとは限らないってことになるじゃないですか。


 で、身体機械に異常があるかどうかを知るのに、苦しさの感じは当てにならないってことになるじゃないですか。


 その結果、身体機械に異常があるかどうかは、苦しさの感じに頼ることなく、身体機械だけを見て決めるべきだってことになるじゃないですか、ね?


 肝臓なんか、よく沈黙の臓器って言われますよね? 自覚症状が無いこと、しばしばだ、って。これは、肝臓に異常があるかどうかを、身に覚える苦しさなんか無視して、肝臓だけを見て勝手に決めてるってことを意味するんじゃないのかなあ。


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科学は快さや苦しさをどういったものと誤解するのか、遠い目をしてふり返る(1/4)

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第3回


 先日、俺、長々と、快さと苦しさについて書いたじゃないですか。で、つぎの3つを確認したじゃないですか。

  1. 快さとか苦しさというのは何なのか。
  2. 西洋学問ではなぜ、快さや苦しさが何であるか、理解できないのか。
  3. 西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのか


(先日、長々と書いたその文章はこちら)


 遠い目をしながら、その3つを簡単に思い返している最中ですよ。


 最初に1をふり返りました、ね? 快さを感じているというのは「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや、苦しさを感じているというのは「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということである、ってことでした、ね?


 つぎに2の思い出に浸りましたね。


 そのとき身体とは何か、確認することからはじめました、よね?


 みなさんにとって身体とは何でしたっけ? みなさんにとって身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚」と「身体の物」とを合わせたもののこと、でした、ね? 身体のうちに「身体の感覚」は含まれました、ね?


 でも、西洋学問では、身体をそうしたものとは見ないとのことだったじゃないですか。


 事のはじめに、俺が「絵の存在否定」、「存在の客観化」とそれぞれよぶ、ふたつの不適切な操作を立てつづけに為す西洋学問のもとでは、身体は元素(西洋学問では、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないものと考えられる)が寄り集まったにすぎないものと解される、ってことだったじゃないですか、ね?


 そのように、元素が寄り集まったにすぎないものと解された身体を「身体機械」とよぶことにしました、よね?


 西洋学問ではそうして身体のうちから「身体の感覚」を除外するってことでしたけど、じゃあ、除外したその「身体の感覚、西洋学問では何と解するのか? 


 心のなかにある、「身体機械の様子を知らせる情報と解するとのことだったじゃないですか、ね?


 で、そんなふうに身体を機械と見ると、快いか苦しいかといったことを、見落とすことになるか、もしくは、機械に見られる何かとして説明しなくちゃならなくて行き詰まることになるかする、ってことだったじゃないですか、ね?


 では今日はここから残りの3西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのかいっちょふり返っていきます


         (1/4) (→2/4へ進む

 

 

前回(第2回)の記事はこちら。


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科学にはなぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか、遠い目をしてふり返る〈5/5〉

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第2回


 事のはじめに「絵の存在否定」、「存在の客観化」というふたつの不適切な操作を立てつづけに為す西洋学問の手にかかると、左手はこう解されるとのことでしたね?

  • .左手は「左手機械」である。
  • .「左手の感覚」は、心のなかにある、「左手機械(心の外に実在)の様子を知らせる情報」である。


 こういった見方を西洋学問では身体全体にし、こう解します。

  • α身体は元素がよせ集まったにすぎないものである(身体は「身体機械」である)。
  • β.「身体の感覚心のなかにある、「身体機械(心の外に実在)の様子を知らせる情報である


 でも、身体とはみなさんにとって、おなじ場所を占めている「身体の物」と「身体の感覚」とを合わせたもののことだったじゃないですか。「身体の感覚」は身体のうちに含まれました、ね? ほら、身体は機械なんかじゃありません、ね(αへの批判)? 「身体の感覚心のなかにある像なんかじゃないですよ(βへの批判)? 左手を眼前にかかげてくれているみなさんの「左手の感覚」は、みなさんの眼前数十センチメートルのところにありますし(左手を降ろしてくださいって言うの忘れてました……)、みなさんの「足先の感覚」も、床のちょうど上にありますし、ね?


 以上、西洋学問ではなぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか、再確認しました。西洋学問では事のはじめに「絵の存在否定」、「存在の客観化」とそれぞれ俺がよぶ、ふたつの不適切な操作*1を立てつづけ為し、身体を機械と見なすに至る(上記α)とのことでしたね。そして「身体の感覚」を、心のなかにある、「身体機械の様子を知らせる情報」であるとあやまって定義づける(上記β)とのことでしたよね。


 そのように身体を機械と見なせば、快さや苦しさが何であるかは当然理解できなくなるって、最初に言ったじゃないですか。たしかこういうふうに言いましたよ。機械は快さや苦しさを感じたりはしない。つまり、機械には快いか苦しいかといった区分は見当たらない。したがって、身体を機械と見なせば、快いか苦しいかといった区分を、見落とすることになるか、もしくは、機械に認められる何らかの区分として考えなくちゃならなくて行き詰まることになるか、に決まってる、って。


 次回、その行き詰まりぶりを見ていきます。


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*1:「絵の存在否定」について書いた記事一覧です。


「存在の客観化」について書いた記事一覧です。

科学にはなぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか、遠い目をしてふり返る〈4/5〉

*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第2回


 西洋学問では、身体についてもこれとまったくおなじように解します。


 左手を例にまず見てみます、ね?


 みなさんにさっき、自分の左手を眼前にかかげてもらったじゃないですか? あ、しまった、下げてくださいって言うの忘れてた……しびれてます? ああ、申し訳ないです……でも心苦しいですけど、もうしばらく、そのままで……


 身体っていうのは、おなじ場所を占めている「身体の感覚」と「身体の物」とを合わせたもののことであるって、さっき確認したじゃないですか。なら、みなさんの左手も、おなじ場所を占めている「左手の感覚」と「左手の物」とを合わせたもののことであると言えますよね?


 いま、みなさんが目の当たりにしているみなさんの「左手の物」の姿は、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあります、ね?


 みなさんの「左手の感覚」もそこに、おなじく場所を占めてます、ね? 


 眼前数十センチメートルのその場所をおなじく占めているそれら「左手の物」と「左手の感覚」とをひとつに合わせて、みなさん、左手って言いますよ、ね?


「左手の感覚」は左手のうちに含まれます、よね?


 ここで、ついさっき確認したことを思い出してみてくださいよ。事のはじめに「絵の存在否定」、「存在の客観化」というふたつの不適切な操作を立てつづけに為す西洋学問の手にかかると、みなさんが体験しているもの一切はみなさんの心のなかにある像にすぎないことになる(先のⅠ)ってことだったじゃないですか。で、この世に実在しているのは見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素なるものだけということになる(先のⅡ)んだ、って。


 西洋学問では、いまみなさんが現に目の当たりにしているみなさんの「左手の物」の姿と、現にそれとおんなじ場所を占めているみなさんの「左手の感覚」とを共に、みなさんの心のなかにある像であることにします(先のⅠに相当)。で、この世に実在しているのは元素なるものだけであるとする考え(先のⅡ)にもとづいて、みなさんの眼前数十センチメートルの場所に実在している左手は、元素の集合体にすぎないということにします。


 そうして左手から「左手の感覚」を除外します。


 このように元素のあつまりにすぎないものと解された左手を以後、左手機械とよぶことにしますね?

  • (i)みなさんが現に目の当たりにしている「左手の物」の姿と、現に感じている「左手の感覚」とを共に、みなさんの心のなかにある像であることにする。
  • (ii)みなさんの眼前数十センチメートルのその場所に実在している左手は、元素の集まりにすぎないということにする(左手を左手機械ということにする)。


 西洋学問では、みなさんの眼前数十センチメートルの場所に実在しているその「左手機械」から、「当の左手機械の様子を知らせる情報」が、光にのってみなさんの眼球にやって来て、電気信号にかたちを変えたあと、神経を伝って脳まで行き、そこで映像に様式を変換されて、心のなかに認められるということにします。そうして最後、心のなかに認められた映像こそ、みなさんが現に目の当たりにしている「左手の物」の姿であるということにします。


 また、「左手機械各所の様子を知らせる情報」が、「左手機械」各所から、電気信号のかたちで発したあと、神経を伝って脳に行き、そこで感覚に様式を変換されて、心のなかに認められるという経路も想定し、最後そうして心のなかに認められた感覚こそ、みなさんが現に感じている「左手の感覚」であるということにします。

  • (iii)左手の感覚心のなかにある、「左手機械の様子を知らせる情報であることにする


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