*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.19
◆「カガヤ臭い」という声が聞こえてくる(幻聴)
まず幻聴体験のほうから行きましょうか。ハウス加賀谷さんがはじめて幻聴を聞いたとされるときの記述を見ますね。ちょっと引用が長くなりますけど、じっくり耳を傾けてみてくれますか。
中学2年、7月。うだるような暑さ。
当時の公立中学には、まだエアコンが普及していなかった。
熱せられたコンクリートの中で受ける授業は、すべての気力や根気というものを奪い去った。誰もが、けだるさを隠さなかった。隠さないことが、夏に対する唯一の抵抗だった。
加賀谷はいつも、教室の一番前の席で授業を受けていた。ノートは取らないが、先生の話を聞くのは好きで、いつもニコニコしながら座っていた。
その日も、最前列で授業を聞いていると、先生が、加賀谷の真後ろに座る女子生徒を注意した。
「おい○○子、お前はなんでそんなにふてくされた顔をしているんだ」
いったいどんな顔をしていて叱られたんだ。好奇心から、加賀谷は後ろに座る女子生徒の顔を見てみようと振り返った。
異変が、始まった。
女子生徒は、下敷きをうちわ代わりにし、暑さを飛ばそうと顔の辺りを扇いでいた。薄いプラスック製の下敷きが、クワンクワンと音を立てて揺れていた。
(略)
扇ぐ女子生徒。不快感を前面に押し出すその表情。その姿に、なぜか不安を掻き立てられた。目の前で起こっている事象を、加賀谷の脳は誤って認識してしまった。
『僕が、臭いからだ』
頭の中で、妄想が暴れ出した。
僕が臭いから、○○子さんは下敷きで扇ぎ、においを飛ばしているんだ。僕のにおいで嫌な思いをしているんだ。
一度認識されてしまった思考は、加賀谷の脳に棲み着いた。疑いすら持てず、自分が臭いという意識だけが、どんどん膨張していった。
幻聴が聞こえ出したのは同じ授業中、間もなくのことだった。
教室の後ろのほうから、突如として、いくつも声が聞こえ出した。
「カガヤ、臭いよ」
「なんだよこのにおい、くっせーな」
「カガチン、マジ臭いよ〜」
ボリュームは普通に会話するレベル。スピードも通常。知らない声もあったが、中にはクラスメイトの誰と分かる声も交じっていた。
どれもこれも、加賀谷をなじるものばかりだった。
どうしたんだろう急に。みんなで僕をからかっているのか、いたずらか? トラブルなんてなかったし、いじめなんてするはずがない。やめてほしい。やめてよみんな。
「カガヤはマジで臭いんだよ」
仲のいい友達の声だった。加賀谷は、反射的にその友達の座る席を見た。
「あっ、れっ……」
友達は、普段通りに授業を受けていた。先生が黒板に書いた内容を、ノートに書き写していた。言葉を発した気配はみじんもなかった。間違いなく、友達の声だったというのに。
何が起こっているのかを探ろうとしたが、加賀谷を誹謗する声は、次から次へと耳をつんざいた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
みんな、みんな、僕のことを臭いと言う。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
誰にも届かない声で、加賀谷は一人で謝っていた。
中学生の加賀谷は、情報を持っていなかった。声の正体は幻聴で、本来なら聞こえるはずのない声であるということを知らなかった。
聞こえてくる言葉はすべて本物、現実の声として受けとめられていた。
幻聴は、日増しにひどくなっていった。
毎日、毎日、聞こえ、頻度も増していった。
学校の教室だけでなく、廊下や体育館、通学のバスや電車、エレベーターなど、ある程度密閉された空間では、常に「カガヤ臭い」と、中傷する声が聞こえてきた。
「僕が臭いせいで、みんなが迷惑をしているんだ」
明るかった加賀谷は、しだいに暗くなり、周囲から孤立していった(松本ハウス『相方は、統合失調症』幻冬舎文庫kindle版、2018年、位置No.219-253、2016年、ただしゴシック化は引用者による)。
どうですか、みなさん。いま松本キックさんが語って聞かせてくれたハウス加賀谷さんの、いわゆる幻聴体験は、(精神)医学の見立てに反し、「理解可能」だったのではありませんか。
ゆっくり確かめていきますよ。
*前回の短編(短編NO.18)はこちら。
*このシリーズ(全64短編を予定)の記事一覧はこちら。