(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

医学の言うことがみんな嘘になる理由、「健康・病気・治る」編(2/2)

*医学の言うことはみんな嘘第1回


 びっくりしました? ちょっと確認してみましょうか。


 みなさんにとって、治るとは、苦しまないで居てられるようになること、ですよね。仮にですけど、みなさんが病院に行って視野狭窄を訴えたとしましょうよ。で、勧められた手術を受けた。すると、たしかに視野狭窄は解消したが、以後、頭痛に悩まされることになったとしたら、どうですか。


 視野狭窄が「治った」という言いかたは、抵抗があってなかなかできない、ということになりませんか。


 視野狭窄で苦しむことは無くなったけれど、頭痛という別の「苦しみ」をあらたにこうむることになったとなると、手術によって「苦しさ」を別のものにとり替えた、みたいなことになりますね? で、もし、その頭痛の「苦しさ」のほうが、視野狭窄の「苦しさ」より酷かったら、どうなります(「酷い」という判定は、苦しさの強さ、苦しむ期間と頻度等を総合判断してのものと考えてくださいね)? 手術によって「苦しさ」をより酷いものと交換したということになりません? ますます、 視野狭窄が「治った」という言いかたはしづらくなりませんか。


 視野狭窄が「治った」と違和感なく言えるのはやっぱり、「苦しまないで居てられるようになった」とき、ではありませんか。


 いま、みなさんは、治る、を「苦しまないで居てられるようになること」ととると言いましたね。さあ、では、そんなみなさんがふだん、健康であるとか病気であるとかとしきりに言うことで争点にするのは、いったい何でしょう? みなさん、何だと思います?


 苦しまないで居られているか、苦しんでいるか(快いか、苦しいか)、ではありませんか。


 ところが、医学は健康や病気をそんなふうにはとってきませんでした。医学が、やれ健康だ、やれ病気だ、とさかんに言って争点にしてきたのは、正常であるか、異常であるか、でした。医学は健康を正常であること病気を異常であることと定義づけてやってきましたよね。そんな医学にとって、あくまでも、治るとは、正常になること、でしたね。

正常と病理〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

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 みなさんは病院の診察室で、目が見えにくいとか、息がしにくいとか、気分が鬱々とするとかと言って、「苦しさを訴えるじゃないですか。で、そのとき、目が見えるようになりたいとか、息がしやすくなりたいとか、気分が晴れるようになってほしいとかと言って、「苦しまないで居てられるようになることを要望するじゃないですか。でも、健康を正常であること、病気を異常であることと勝手に定義づけてきた医学は、そうしたみなさんの「訴え」や「要望」を素直には受けとってこなかったわけです。


 医学はそうしたみなさんの「訴え」を、視野、呼吸、精神それぞれの「異常を訴えるものとねじ曲げてとってきました。またみなさんの「要望」については、視野、呼吸、精神それぞれが「正常になるのを要望するものとひとり決めしてきました。


 みなさん不安に思いません? そんなふうに健康や病気を勝手に定義づけ、みなさんの切実な「訴え」と「要望」を歪めて解釈するもの(医学のことですよ)の言っていることは、おのずとみんな嘘になってしまうのではないか、って。


 健康とは何か、病気とは何かといった根本的なところをとり違えているものが、果してどれだけまともなことを言えるのだろう、って?


 さて、先に挙げた番号1(医学は健康と病気の定義に失敗している)についていま簡単に見終わりましたよ。この件については、さっきも言いましたように、次作である短編集でねちっこく見ていくつもりにしています。統合失調症と診断されたひとたちの症例と呼ばれるものをできるだけ挙げて、ね?


(短編集「統合失調症と精神医学と差別」予告編)



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2019年11月7、9日、および2020年4月4日に、一部文章の修正と加筆を行いました。


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