(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

みなさんにとって身体とは何か

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第4回

 いまこの瞬間、僕が前方数十メートルのところにある柿の木を見ているとみなさんはご想像くださっている。


 これから僕はいっぽいっぽ歩みよっていこう。


 何に?


 その柿の木に。柿の木は、僕のほうを向いた面の、上ッ面のみ「見えるありよう」を呈し、それ以外はすべて「見えないありよう」とでも言うべき姿をとっているけど、同様のことは、僕の前方に広がっている、視野とよばれる領域にある物についてなら、何にでも言える(ただし「空いている場所」には、向こう側が透けて見えるというありようを呈していると言わねばならない)。


 この視野という領域が尽きるところから、道や空や建物やはその姿まるまる全部を「見えないありよう」とするようになる。


 僕の身体も、である。


 柿の木の姿の手前、数十メートルのところには、頭のてっぺんちょから足の先までひと連なりになっている、僕の身体感覚がある。身体感覚があるその場所にはさらに、これまた頭のてっぺんちょから足の先までひと連なりになっている、見ることも触れることもできる、身体の物的部分とでもよばれるべきものもある。


 僕のこの「身体の物的部分」は、いま柿の木を遠望している僕自身にたいしては、まるごとひとつがみな「見えないありよう」である姿をとって、僕の「身体の感覚部分」とおなじ場所を占めていると言える。もしこのとき僕が足元にでも視線を落としていれば、僕の「身体の物的部分」は足元の、僕のほうを向いた面の、上ッ面のみ「見えるありよう」を呈し、それ以外はすべて「見えないありよう」をとった姿で、僕の「身体の感覚部分」とおなじ場所を占めていたろうけれど。


 僕の身体感覚と「身体の物的部分」とがこのようにおなじ場所を占めているというのはまったく不思議なことでもなんでもない。身体とは、おなじ場所を占めているこれらふたつを合わせたもののことであると、実にふだんのみなさんは当たりまえのように思いなしておいである。


 以後、「身体の物的部分」という言いかたにあわせて、身体感覚のほうも、身体の感覚部分とよばせていただくことにしよう。


 でも、僕はいま何をお話ししているのだろうか? すぐにも柿の木に向かって敢然といっぽ踏み出させていただくと先刻みなさんに固くお約束申し上げたばかりではなかったか・・・・・・にもかかわらず早速、またもや道草を喰らってしまっているこのテイタラク・・・・・・

つづく


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