*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第3回
じゃあ早速みなさん、僕におなりになったつもりで、つぎのようにご想像いただけるだろうか。
いま僕の前方数十メートルのところに柿の木がいっぽんある。僕は先ほどからその柿の木を見ている。そして、いまからその木にいっぽいっぽ歩みよっていこうと企んでいる。
あ、でも、ちょっとお待ちあれ・・・・・・そもそもこのとき僕に見えているのは、柿の木の何であるか? 柿の木まるまる一本が余すところなく全部、見えているだろうか?
答えは否じゃない?
見えているのは柿の木の、僕のほうを向いた面の、しかもその上ッ面だけなんじゃない?
世間のひとはよく、(メルロ=ポンティの遺稿につけられたタイトルのように)「見えるものと見えないもの」といった対比の表現をする。で、自分が見ている目のまえのブツを、「見えるもの組」のなかにちゅうちょなく入れるけど、実際のところ、いま申し上げたように、そのときひとに見えているのはブツの、自分のほうを向いた面の、しかもその上ッ面だけなんじゃ? 側面もまるっきり見えていなければ、後ろの面も、底も、中身も、まったく見えていないんじゃ?
「見えるもの組」に入れられるものも、実はまるまるひとつが余すところなく全部、見えているんじゃない。
ああ、ここで僕は問いたい。
いまこの瞬間、僕に見えているのは柿の木の、僕のほうを向いた面の、しかもその上ッ面にすぎないと申し上げたが、現に見えているその上ッ面がそのとき存在しているのはだいたいどなたもお認めになるところだろう。
じゃあ、見えていない側面や後面や根や中身はどう? 見えていないことをもって、みなさん、そのとき存在していないとお考えになる? いまこの瞬間、僕の前方数十メートルのところにあると請け合える柿の木は、僕のほうを向いた面の、そのとき唯一見えている上ッ面だけ? そんな、かつらムキされた大根の皮よりも薄いヒラヒラ様のものにすぎない?
みなさん、別の場面もお考えになれ。もし僕がみなさんの真んまえにいるとして、そのとき僕に見ることができるのは、みなさんの顔の、僕のほうを向いた面の、その上ッ面だけであって、その側面も後頭部も中身もまったく見えないし、服にかくれた首から下も同様である。だとすれば、そのとき僕の目のまえにあるのは、みなさんの顔の、僕のほうを向いた面の、現に見えているその上ッ面だけと考えるべきなんだろうか。
みなさんをプフそんなヒラヒラ様の存在であると考えるべき・・・・・・ahaha!
まさかである。
そのとき、僕に見えていないみなさんの顔の側面も後頭部も中身も、服にかくれた首から下も、見えないありようとでも言うべき姿で僕のまえにあると言うほうが、そう、みなさんの顔の、僕のほうを向いた面の、現に見えている上ッ面に連なって、「見えないありよう」とでも言うべき姿で僕のまえにあると言うほうが断然、現実に即しているんじゃないだろうか。
どうだろう、みなさん?
いまこの瞬間、僕が前方数十メートルのところにある柿の木を見ているとご想像いただいている。その柿の木はこのとき、僕のほうを向いた面の、上ッ面のみ「見えるありよう」、それ以外はみな「見えないありよう」とでもいった姿で、僕の前方数十メートルのところに存在していると申し上げても、みなさん、白い目で僕をキッとご覧になったりなさらないんじゃないだろうか。
ちがう?
僕の前方の空いた場所は、向こう側が透けて見えるというありようで、ずっと奥につづいていて、その先に柿の木が、一部は「見えるありよう」、残りはすべて「見えないありよう」といった姿で存在している、とこうして申し上げている、僕の酒くさい口のなかは、いま気づいたが、道草でいっぱいである・・・・・・僕が柿の木にいっぽいっぽ歩みよっている場面を、僕におなりになったつもりでみなさんにご想像いただこうと思っていたのに、いつの間にか・・・・・・
お恥ずかしい。いますぐにも柿の木に向けていっぽ踏み出させていだたきたい・・・・・・*1
後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。
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- 変更後:07:05
ひとつまえの記事(①)はこちら。
前回(第2回)の記事はこちら。
このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。
*1:2018年6月23日と同年10月23日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。