(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

あたらしい知覚論をお土産に帰宅するまでが旅の途中

*あたらしい知覚論をください第8回


 あらたな嗅覚論についてはこう言える。


 他人の部屋に入ると、匂いがすることがあるけれども、しばらく時間が経つと、大抵そうした匂いはしなくなる。これについては匂いが隠れるという言いかたをすることもできるが(何かの拍子にまたその匂いが顔をのぞかせることがある)、このような場合を念頭に置いて、俺がのどから出る手を押しとどめることのできないあらたな嗅覚論について言うと、こうである。


 匂い(現に俺たちが嗅ぐ匂いのことを言っている)、周囲の物体、匂い分子と呼ばれているもの、空いている場所、俺の、鼻、鼻のなかの粘膜の細胞、嗅神経、脳、その他の「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」たちと、「応答し合いながら共に在る」。あたらしい嗅覚論とは、当の匂いが、はっきりした姿、もしくはぼやけた姿を呈したり、または姿を隠したりするのは、当の匂いが、周囲の物体、匂い分子、空いている場所、俺の、鼻、鼻のなかの粘膜の細胞、嗅神経、脳、その他の「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」たちと、「どのように応答し合いながら共に在った結果か、その経緯を把握しようとするものである。匂うとは、鼻、嗅神経を経て、脳にまでやってきた匂い分子についての情報(嗅覚情報)をもとに、脳が俺の心のなかに、匂い分子のコピー像を作ることではない。脳がそうしたコピー像を作る際に、匂いという、ほんとうは匂い分子には属していないものをつけ足すことでは決してない。匂いは脳によって作られる俺の心のなかの像なんかではなく、にぎり飯の匂いは、目の前にあるにぎり飯のある辺りでするものである。実際のところ、匂いと脳は、「応答し合いながら共に在る」もの同士のうちのふたつにすぎない。


 以上、俺たちに必要とされているあらたな知覚論(視覚論、聴覚論、嗅覚論、味覚論、触覚論の総称)をここまで追いかけてきた。あらたな知覚論とは、強引な言い方になるかもしれないのを恐れずにひと言で言ってみると、こうである。太陽や、電灯、壁、空いている場所、匂い分子と呼ばれるもの、口のなかの食べ物や飲み物、俺の「身体の感覚部分」、眼、耳、鼻、舌、皮膚、骨、神経、脳、筋肉、血液、血管、その他の「身体の物的部分」といった存在たちが「応答し合いながら共に在る」なかで、物体匂い味らそれぞれがどのような姿を呈するか把握しようとするものである。


 知覚とは神経を介して脳に至る各種感覚情報の伝達(視覚情報伝達、聴覚情報伝達、嗅覚情報伝達、味覚情報伝達等)のことなんかではない*1

(了)


前回(第7回)の記事はこちら。


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*1:2018年10月13日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。