*治療の苦しみに耐えれば耐えるほど失敗に近づく第1回
先日「科学は存在同士のつながりを切断してから考える*1」と題した文章を書きました。そこで書きましたのは簡単に申しますと、こういうことでした。科学は事のはじめに、存在同士のつながりを切断します。すると存在が実際とは別様に変形します。科学は実際とは別様に変形したその存在同士を、当初のとはまったく別の、あらたに考案し出したつながりでつなぎ直す、いや、つなぎ替えるのだということでした。
こうして実際とは別様に変形する存在の一覧をあげますと、次のようになります。
- 身体。身体のなかに身体感覚が含まれなくなる。
- 世界。世界のなかに身体感覚が含まれなくなる。
- 身体感覚。私の心の中身とされ、世界の外にあるものとされる。
- 見る、聞く、匂う、味わう、触れるといった知覚体験。私の心のなかにあるコピー像(映像、音、匂い、味、感触)を私の心のなかに認めることになる。
- 存在。存在から、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触が、ほんとうは存在には属していないものとして取り除かれる。
このように科学では、身体、世界、身体感覚、知覚体験、存在、がことごとく実際とは異なるものとして考察されます。が、こう申しても、「そんなの瑣事にすぎなくね、大勢に影響なくね?」とおっしゃるかたもおいでかもしれません。
しかし、ほんとうにたいした影響はないのでしょうか。
私が調査をいたしましたところ、存在をこのように実際とは別様に変形させて研究していきますと、私たちのうちのもっとも大事なものが目に入らなくなるという事態におちいることが明らかとなりました。
目に入らなくなるその大事なものとは何でしょう。
みなさんは何だとお思いになりますか*2。
その大事な何かとは、快さや苦しさです。存在を先にあげましたように変形させて考えていきますと、快さや苦しさが何を意味するのか忽然としてわからなくなります(後日くわしく説明させていただきます)。快さや苦しさが何を意味するのかわからなくなるというのは超マジやべぇことです。
違いますでしょうか。
いえ、違わないどころか、そのやばさたるや、ぱねぇです。ジーマーで。
このシリーズは全3回でお送りします。