(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

治療目的はほんとうにそれでいいのか、それで大損することはないか

*治療の苦しみに耐えれば耐えるほど失敗に近づく第2回


 たとえば、みなさん、ご自分の息がしにくくなるものと仮定してみてください。そして、そのときにみなさんが医療処置を受けようとお考えになるなら、何を目的とするものをお求めになるか、ちょっと想像してみてください。


 どうですか。そのときみなさんがお求めになるのは、息がしやすくなることを目的とする医療処置ではないですか。


 では、息がしにくい状態から、息がしやすい状態になることを目的とするというこのことは何を意味するのでしょうか。息がしにくいという苦しい状態から、息がしやすいという苦しくない状態(あるいは快い状態)になるのを目的にするということではないでしょうか。


 ならば、その医療処置を受けて、息がしやすくはなるものの別の苦しみをこうむるようになるのだとすれば、どうでしょう。例えば当の医療処置を受けると、連日、立ち上がれないくらいにだるくなったり、当の処置が完了した後は、ことあるたびに体調が悪くなってひんぱんに寝こむようになる、といったように、息がしにくいという当初の苦しみが無くなる代わりに、別の苦しみをこうむることになるのだとすれば、どうでしょう。


 その場合、当の医療処置を受けるとは、息がしにくいという苦しさを、別の苦しさに交換することだと考えられます。したがって、ごくごくおおざっぱに言いますと、あらたに手に入れる苦しさのほうが、息がしにくいという先の苦しさよりも深刻なものであば、医療処置を受けて損をすることになります。


 それも三重の意味で。


 まず、苦しさが深刻になるということ自体がまぎれもなく損です。


 第二に、苦しさが深刻になるほど、心肺停止が起こる可能性も高くなるように思われます。


 第三に、苦しさが深刻になるほど、苦しさが減じにくくなり、逆に、苦しさがより増しやすくなるようにも思われます


 当の医療処置を受けて、息がしやすくはなるものの、あらたに別の苦しみをこうむり、それが息がしにくいという当初の苦しみより深刻なものであるとなると、このように三重の意味で損をします


 大損です。


 息がしにくいときに受ける医療処置は、息がしやすくなることを目的にしていさえすればいい、というのではないわけです。


 でしょう?*1

つづく


前回(第1回)の記事はこちら。


このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。

 

*1:内容はそのままに表現のみ一部修正しました。2018年8月28日記す。