(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

あたらしい聴覚論も記念にひっつかまえよう

*あたらしい知覚論をください第7回


 俺が追い求めているあらたな、聴覚論と嗅覚論についても以下見ておく。


 楽器を使って出す音(あくまで聞こえる音のことを言っている)は、楽器によってはもちろんのこと、演奏するひとの身体のありよう、場所、聞き手の聞き方によっても異なる。すなわち音は、楽器、演奏者の身体、天井、壁、カーテン、床、部屋のなかの空いている場所、俺の身体(聞き手の身体)たちと、「応答し合いながら共に在る」。そこから、あたらしい聴覚論というのはこういうものだと言える。すなわち、音が、くっきりした姿、もしくはぼけやけた姿、あるいはまろやかな姿、または芯の細い姿などを呈するのは、当の音が、楽器、演奏者の身体、天井、壁、カーテン、床、部屋のなかの空いている場所、俺の身体(聞き手の身体)たちと、「どのように応答し合いながら共に在った結果か、その経緯を把握しようとするものである。


 しかし、やはり俺は神経質だと言わざるを得ない。いま俺の身体(聞き手の身体)と書いたところをもっと細かくしてこう言いたい。音が、くっきりした姿、もしくはぼけやけた姿、あるいはまろやかな姿、または芯の細い姿などを呈するのは、当の音が、楽器、演奏者の身体、天井、壁、カーテン、鉄筋、床、部屋のなかの空いている場所、聞き手である俺の身体の感覚部分」、俺の耳のなかの骨神経筋肉血液血管その他の身体の物的部分」たちと、「どのように応答し合いながら共在った」結果か、その経緯を把握しようとするものこそ、俺たちに必要なあらたな聴覚論である、と。


 音を聞くとは、脳が、俺の外部からやってきた聴覚情報をもとに、空気や液体の振動のコピー像を俺の心のなかに作りだすことではない。脳が空気や液体の振動のコピー像を作りだす際に、ほんとうは空気や液体の振動には属していない音をそのコピー像につけ加えるというのでは決してない。音は脳によって作られる俺の心のなかにある像なんかではなく、たとえば蟬の声は、蟬の身体の辺りでするものである。音と脳は実際のところ、「応答し合いながら共に在る」もの同士のうちのふたつにすぎない*1

つづく


前回(第6回)の記事はこちら。


このシリーズ(全8回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年10月13日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。