(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

関係がすり替えられていた

*身体すり替え事件第3回


 みなさんが歩み寄るときのとびらについて考えてきました。が、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるのは、何もこのとびらだけではありません。同じ例を引きつづき用いて言えば、みなさんの身体も「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるものですし、壁や部屋の明かりもまたそうです。 つまり、とびらは、みなさんの身体、壁、床、部屋の明かりといった他の存在たちと、互いに、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、一瞬ごとに答え合います。


 したがって、とびらを把握するとは、とびらが、みなさんの身体や、壁、床、部屋の明かりといった他の存在たちと、互いに、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、一瞬ごとにどう答え合うかを把握することだと言えます(この把握を状況把握と呼んでも言葉遣いの誤りではないと思いますが、いかがです?)。


 みなさんの身体を把握する場合にも丸っきし同じことが言えます。みなさんの身体を把握することもまた、みなさんの身体が、とびらや、壁、床、部屋の明かりなどと、互いに、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、一瞬ごとにどう答え合うかを把握することです(身体把握とは状況把握をすることです)。


 このように存在は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるものであり、存在同士の関係とは、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問い一瞬ごとに答え合うことです。


 ところが、先にとびらについて触れましたように、科学は存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるものから、「終始、無応答で在るもの」へと読み替えます(これを存在の読み替えと名づけます)。そうして存在同士をいったん無関係であることにします。


 つまり存在の読み替えは、存在同士の関係をあらたに考案し出すきっかけ(関係を別ものにすり替えるきっかけ)となります。


(「関係のすり替え」について詳しいことはこちらで)

つづく


2018年8月17日と2019年9月3日に、文章を一部修正しました。


前回(第2回)の記事はこちら。


このシリーズ(全4回)の記事一覧はこちら。