(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

数量化からわかることは何か

*原因丸々ひとつは見つからない第12回


 ここでは、疫学(数量化)から何を知ることができるのかを理解するのに一見まったく何も関係がなさそうな、見る、ということについて考えてみる。


 みなさん、俺のことを草原にいると思ってください。俺の前方にひらけた草原は、なだらかに坂になっていて、その先の小高くなった丘のうえに一本の樹木が茂っているとします。 俺は、その樹木めがけて歩いています。みなさんは俺になったつもりで、俺が目の当たりにしているその樹木の姿に思いをめぐらせてください。


 歩みよっている俺が目の当たりにすることになるその樹木の姿は、刻一刻と変化する。その姿は一瞬一瞬、大きくなっていく。樹木の実寸が大きくなっていくと言っているのではない。実寸は、俺が樹木にむかって歩いていく間、ずっと一定である。大きくなっていくのはあくまで、樹木の姿である。樹木はそうして姿が大きくなっていくことで、実寸を一定に保つことになる。もし俺が近づいて行っているのに、この樹木の姿が不変であるとすれば、この樹木の実寸は、だんだん小さくなっていることになる。


 かなりこの樹木に俺は近づいてきた。樹木に近づききると今度は、この樹木を見上げながらその回りを一周し始めることにする。すると樹木の姿はここでも、一瞬ごとにその姿を変えることになる。樹木に近づいてくるまで俺は、刻一刻と変化する樹木の姿を目の当たりにしてきた。それはこの樹木の姿を複数、目の当たりにすることだった。樹木の周囲を回っているここでも俺は、樹木の姿を複数、目の当たりにすることになる。それも、ひとつひとつ互いに異なっている姿を。


 ここまでみなさんと一緒に俺は、草原の小高い丘のうえにあるいっぽんの樹木について確認してきました。その樹木はどのようにあったでしょうか。


*1樹木は終始ひとつの問いを突きつけられていたと言える。俺の身体や、日の光や、風やといったものと「共にどのように在るか」という問いを、である。そしてその問いに毎瞬、自らの姿で答えていた。その樹木に近づいていき、そのあとその周囲をまわっている間、この樹木や、俺の身体や、風や、日の光やが、「共にどのように在るか」というこのひとつの問いに、それぞれ自らの姿でどう答えているのかを、俺は終始まざまざと目の当たりにしていたわけである。で、そのとき、俺のまぶたや、目玉や、目玉から脳にむかって電線のように走っている視神経や、視神経が行きつく先の脳ミソやも、この「共にどのように在るか」というひとつの問いに、それぞれどう答えているのか、という身体のなかの細かい事情まで、現代の俺たちは明らかにしようとしている。


*2タバコや細菌についてもこれと同じことが言える。俺たちが知りたいのは、タバコ成分や、細菌や、ウィルスや、俺たちの身体(特に臓器)やが、「共にどのように在るか」というひとつの問いに、それぞれどう答えるかということである。疫学で数字をつかって明らかにしようとしているのは、この「共にどのように在るか」ということである。


 しかしこんなことを言っていると、こういったご指摘をうけることになるかもしれない。お前さんは、要するに、タバコの成分や細菌が入ったら、身体のなかがどうなるのかといったことを俺たちは知りたがっていて、疫学もまた、そうしたことを解明しようとするものであると言っているにすぎない。そんな簡単で単純なことを言うために、お前さんは、わざわざ樹木の例を出し、愚かしくも、もったいぶった言い方をしているにすぎないんだよ、と。


*3まさしくご非難のとおりである。俺が丘のうえの樹木めがけて歩いて行くとき、目の当たりにすることになるその樹木の姿は、俺の身体(まぶたも目玉も視神経も脳ミソも含む)や、光や、風などとの関係のうちで、自ら刻一刻と大きくなる。樹木や、俺の身体や、風や、日の光やは、そのように、「共にどのように在るか」というこのひとつの問いに、それぞれ毎瞬答えることになる。そしてそれは、事故や病気などすべての出来事でも同じである。出来事のなかの登場物体(変な言い方かもしれないが)は、「共にどのように在るか」というひとつの問いに、それぞれ自律的に答える。それこそが出来事のありようである。しかし何を思ったか俺たちは、事故や病気といった出来事を、一箇所(原因部分)のせいにできると思ってきた。一箇所が出来事全体のありようを生じさせたはずだと、事のはじめに決めつけて、その一箇所を特定しようとしてきた。そのように存在しない一箇所(原因)を、何の事前調査をすることもなく、ハナっから存在すると決めつけて。


*4俺たちが知らなければならないのは、原因は何かということじゃない。「共にどのように在るか」というひとつの問いに、登場物体がそれぞれがどう答えるかである。疫学(数量化)は出来事を一箇所のせいにする方法ではない。「共にどのように在るか」というこのひとつの問いに、タバコや、細菌や、ウィルスや、俺の身体のなかの臓器や、細胞や、血管や、神経やが、それぞれどう答えるのかを知ろうとすることにちがいない。そう俺は思うわけである。

つづく


前回(第11回)の記事はこちら。


それ以前の記事はこちら。

第1回


第2回


第3回


第4回


第5回


第6回


第7回


第8回


第9回


第10回


このシリーズ(全13回)の記事一覧はこちら。

 

*1:この段落をこう言い改めようと考えています。2018年8月21日現在。

 樹木は終始ひとつの問いを突きつけられていたと言える。俺の身体や、日の光や、風やといったものと共に在るにあたってどのようにあるかという問いを、である。そしてその問いに毎瞬、自らの姿で答えていた。その樹木に近づいていき、そのあとその周囲をまわっている間、この樹木や、俺の身体や、風や、日の光やが、お互い、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、それぞれ自らの姿でどう答え合っているのかを、俺は終始まざまざと目の当たりにしていたわけである、すなわち、それらがどのように応答し合いながら共に在るのかまざまざと目の当たりにしていたわけである。で、そのとき、俺のまぶたや、目玉や、目玉から脳にむかって電線のように走っている視神経や、視神経が行きつく先の脳ミソやがどのように応答し合いながら共に在るのか、という身体のなかの細かい事情まで、現代の俺たちは明らかにしようとしているといった次第である。

*2:この段落もつぎのように言い改めようと考えています。2018年8月21日現在。

 タバコや細菌についてもこれと同じことが言える。俺たちが知りたいのは、タバコ成分や、細菌や、ウィルスや、俺たちの身体(特に臓器)やが、どのように応答し合いながら共に在るかということである。疫学で数字をつかって明らかにしようとしているのは、どのように応答し合いながら共に在るか、というこのことである

*3:この段落はつぎのように言い改めようと2018年8月21日現在、考えています。

 まさしくご非難のとおりである。俺が丘のうえの樹木めがけて歩いて行くとき、目の当たりにすることになるその樹木の姿は、俺の身体(まぶたも目玉も視神経も脳ミソも含む)や、光や、風などとの関係のうちで、自ら刻一刻と大きくなる。樹木や、俺の身体や、風や、日の光やは、そのように応答し合いながら共に在る。そしてそれは、事故や病気などすべての出来事でも同じである。出来事のなかの登場物体(変な言い方かもしれないが)は、共に在るにあたって応答し合う。それこそが出来事のありようである。しかし何を思ったか俺たちは、事故や病気といった出来事を、一箇所(原因部分)のせいにできると思ってきた。一箇所が出来事全体のありようを生じさせたはずだと、事のはじめに決めつけて、その一箇所を特定しようとしてきた。そのように存在しない一箇所(原因)を、何の事前調査をすることもなく、ハナっから存在すると決めつけて

*4:この段落はこう言い改めようと2018年8月21日現在、考えています。

 俺たちが知らなければならないのは、原因は何かということじゃない。登場物体がどのように応答し合いながら共に在るかということである。タバコや、細菌や、ウィルスや、俺の身体のなかの臓器や、細胞や、血管や、神経やが、どのように応答し合いながら共に在るか知ろうとするものにちがいない。そう俺は思うわけである。