(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(4/7)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.61


◆②医学に不当にも異常と決めつけられ、差別されてきたのは誰か

 それは、以前から何度も確認していますように、いわゆる「標準を下回っているひとたち」です。


 医学は社会通念に無批判に基づき、世間がやるのとおなじように、人間を、標準的なひとたち、標準を上回っているひとたち(優れているひとたち)、標準を下回っているひとたち(劣っているひとたち)、の3グループに分けてきました(人間集団のどこを「標準」とするかに、たった一つの見方しかない、ということは決してないことを、是非とも常に頭の隅に置いておきたいところです)。で、その「標準を下回っているひとたち」を、不当にも異常と決めつけ、差別してきました。


 ここでは、そのひとたちがそうして差別されることになった顛末についてはもう詳しく見ませんよ。先を急ぎます。

 

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その顛末はここで見ました。

①簡単な見方

②すこし込み入った見方

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 ほんとうは他のみんなとおなじく正常であるにもかかわらず、医学に不当にも異常と決めつけられ差別されるのは、「標準を下回っているひとたち」です。よって、医学が勝手におのれの使命としてきた「異常なひとを無くす」を果たすための先述の4手はこう言い換えられることになります。

  1. 標準を下回っているひとを、標準以上にする(治療)。
  2. ひとが、標準を下回らないようにする(予防)。
  3. 標準を下回ったひとが生まれてこないようにする(優生保護)。
  4. 標準を下回っているひとたちを殺す。





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*今回の最初の記事(1/7)はこちら。


*前回の短編(短編NO.60)はこちら。


*このシリーズ(全61短編)の記事一覧はこちら。

 

 

 

医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(3/7)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.61


 そもそも医学が、やれ健康だ、やれ病気だとさかんに言うことによって争点にしてきたのは、「苦しくないか、苦しいか」ではありませんでした。つまり、治る、を医学は「苦しまないで居てられるようになること」とは見てきませんでした。


 医学が、やれ健康だ、やれ病気だとさかんに言うことによって争点にしてきたのは、「正常か、異常か」でした。実に医学は、健康を正常であること、病気を異常であることと勝手に定義づけてやってきました。医学は、病気だったのが健康になる、すなわち治るということを、勝手に、異常だったのが正常になること、と考えてやってきたわけです。

 

 


 医学が実際におのれの使命としてきたのは、異常なひとを無くすことだったわけですよ。ひとが「苦しまないで居てられるようになる」のを手助けすること、ではなくて、ね?


 そしてその「異常なひとを無くす」という使命を果たすために医学はこれまで、つぎの4つの手をとってきました。

  1. 異常なひとを正常にする(医学が言うところの治療)。
  2. 異常にならないようにする(医学が言うところの予防)。
  3. 異常なひとが生まれてこないようにする(優生保護)。
  4. 異常なひとたちを殺す(特に、医学がもっとも発達した時期であると言われる1930年代に、当時の医学界の先頭を走っていたドイツ医学が、特段ナチスに強いられたのでもないのにやったのが有名)。

 

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最近、こんな記事が出ましたね(2023年11月23日にこの記事紹介を追加しました)。


また、番号4の参考図書としてはこれ等が。

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 さて、いま最初に、医学がおのれの使命とするところを確認しました。それは、みなさんが医学に使命とするよう求めるところ(ひとが「苦しまないで居てられるようになる」のを手助けすること)とは異なっていましたね。「異常なひとを無くす」こと、でしたね。だけど、以前に確認しましたとおり、異常なひとはこの世にただのひとりたりとも存在し得ません。言うなればひとはみな正常です(以前に数回やった、そのことの証明は、ここでは省かせてもらいます)。

 

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その証明はこちらでしました。

①簡単な仕方での証明

②すこし込み入った仕方での証明

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 となると、どうなるか。


「異常なひとを無くす」ことをおのれの使命とする医学は、一部のひとたちを不当にも異常と決めつけ無くそうとしてきたということになりますね。そのひとたちも、ほんとうなら他のみんなとおなじく正常と判定されてしかるべきであるにもかかわらず、ね?


 では、そのように不当にも異常と決めつけられ、無くそうとされてきたのは誰だったか。






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*今回の最初の記事(1/7)はこちら。


*前回の短編(短編NO.60)はこちら。


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医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(2/7)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.61


◆①医学を医学たらしめるものは何か

 まず、医学を医学たらしめるものについて考えるところから始めますね。


 医学をまさに医学たらしめるものは何か。


 つまり、医学がおのれの使命とすべきところは何だと、みなさん思いますか?


 そう、ひとを治すこと、ですね?


 そしてその、治す、とは、病気であったのを健康にする、ということですね。


 では、その健康や病気というのがそれぞれ何を意味するか確認することにしましょうか。そうすれば、治る、が何を意味しているか、もっとはっきりしてきますよね。


 ふだんのみなさんにとって、健康という言葉は何を意味するか。


 健康とは「健やかに康らかに」と書きますね。ふだんのみなさんにとって、健康という言葉は「苦しんでいない」ということを意味するものではありませんか。


 いっぽう、病気とは「気を病む」と書きますね。「気を病む」とは苦しむということですね? ふだんのみなさんにとって、病気という言葉は、「苦しんでいる」ということと、その苦しみが「手に負えない」ということを意味するものではありませんか。


 いま、こういったことを確認しました。みなさんがふだん、やれ健康だ、やれ病気だとしきりに言うことによって争点にするのは、「苦しくないか、苦しいか」である、って。


 したがって、みなさんにとって、病気だったのが健康になるというのは、すなわち治るというのは、「苦しまないで居てられるようになること」を意味することになりますよね。


 だとすると、みなさんが、医学におのれの使命とするよう求めるのは何か。


 一言でいえば、それは、ひとが苦しまないで居てられるようになるのを手助けすること、ではありませんか。

 

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その手助けを、もう少し具体的に考察した短編はこちら。


もっと突っ込んで考察した回はこちら。


そもそも「苦しい」とはどういうことか、を突っ込んで,しかし簡単に説明した回はこちら。

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 しかし、医学が実際におのれの使命としてきたのは、そういうことではありませんでした。医学がおのれの使命としてきたのはもっと別のことでした。






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*前回の短編(短編NO.60)はこちら。


*このシリーズ(全61短編)の記事一覧はこちら。

 

 

医学は「みんな違ってみんなイイ」と言って「多様性」を口先では肯定しているが、やっていることは実はそれとは正反対ということはないか(1/7)

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.61

目次
・科学が多様性を肯定する言葉を口にしているときにみなさんが感じること
・①医学を医学たらしめるものは何か
・②医学に不当にも異常と決めつけられ、差別されてきたのは誰か
・③医学とは「多様性の否定」である
・④ほんとうの多様性の肯定とは
・⑤医学とは「優生思想」の実践である


◆科学が多様性を肯定する言葉を口にしているときにみなさんが感じること

「みんな違ってみんなイイ」


 そういった趣旨の言葉が科学の口から聞こえてくるたび、申し訳ないですけど、俺の胸のなかは疑いで一杯になります。


 科学が、多様性を大事にしていると主張しているのに出くわすたび、俺の身体は疑惑で硬直します。


 口先ではそう言っているけど、しているのは実はそれとは正反対、ということはないか、って。


 疑り深すぎでしょうか。


 いや、単に俺の性格が腐っているだけかもしれませんね。


 だけど、性格が悪ければこそ気づくということがないともまた限りません。


 イジワル・オジサンの直感もあながち、当たらないとは限りませんよ?


 ときどきは、ね?


 どうですか、みなさん、いまからちょっと、確かめてみませんか? 


 ほんとうに医学の口から聞こえてくる、多様性を肯定する言葉は、信じるに足るものなのか


 現にしていることはそれとは正反対ということはないか。


 さっそく考察をはじめます。






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*前回の短編(短編NO.60)はこちら。


*このシリーズ(全61短編)の記事一覧はこちら。

 

 

理解不可能(了解不能)な人間がこの世に存在しないことを、別のもっと簡単な仕方で確認する(4/4)【短編NO.5の補足】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.60


 いま言ったことをまとめるとこうです。

  • A.正常=理解可能
  • B.異常=理解不可能


 さて、数回前の短編で、「この世に異常なひとなど、ただのひとりも存在し得ない。言うなればひとはみな、正常である」(番号2)ということを再確認しましたよね。その知に、ちょうどいま獲得した上記AとBの式を代入すると、こうなります。

 

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番号2の再確認とはこれのことです。

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「この世に理解不可能なひとなど、ただのひとりも存在し得ない。言うなればひとはみな、理解可能である」


 現にそのことを、ひとりひとり例を挙げなから、実地に確認するということをこの短編集ではやってきました。(精神)医学は、先にも書きましたように、一部のひとたちのことを統合失調症と診断し、「理解不可能」と決めつけて、やれ「永久に解くことのできぬ謎」だ、「了解不能」だと好き勝手言ってきたが、そのひとたちはほんとうは、他のみんなとおなじく、「理解可能」であるということを、この短編集では、数々の実例を挙げながら確認しましたよね。

 

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その実例での確認は下をクリックすると出てきます。

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 以上、この短編で最初に確認した5つの基本事項を再確認し終わりました。

 

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その5つの基本事項の再確認

①正常、異常の意味

②異常なひとなどこの世に存在し得ないこと

③誰が医学の名のもと、不当にも異常扱いされてきたか

④障害、障碍、障がい、いずれも全て差別用語

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*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


*前回の短編(短編NO.59)はこちら。


*このシリーズ(全61短編)の記事一覧はこちら。

 

理解不可能(了解不能)な人間がこの世に存在しないことを、別のもっと簡単な仕方で確認する(3/4)【短編NO.5の補足】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.60


 いま、みなさん、そのひとがそのように泣いているのを「わかる」と言いましたね? 「理解できる」と言ったわけですね?


 これはつまり、こういうことではありませんか。そのひとの実際のありようが、こちらの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだというイメージに合致しているとき、その合致していることを、ふだんみなさんは、そのひとのそのありようを理解できる」というふうに表現するんだ、って?


 では、今度は反対に、そのひとがそのように泣いているのが、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだというイメージに合致しないと仮定してみてくれますか。


 どうですか。合致しないと感じているこのとき、みなさんがもし何か喋るとしたら、こんなふうなことを口にするのではありませんか。


「プリンが無くなっているくらいのことでふつう泣く? いやあ、泣くだなんてとても理解できないなあ!」って。


 今、みなさん、そのひとがそのように泣いているのを「理解できない」と言いましたね?


 これはつまり、こういうことではありませんか。そのひとの実際のありようが、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだというイメージに合致していないとき、その合致していないことをふだんみなさんは、そのひとのそのありようを理解できない」と表現するんだ、って?


 だとすると、正常とは何か、異常とは何かは、こう言い換えられることになります(最初の箇条書きを参照されたし)。


 ひとを正常と判定するというのは、

  • ①そのひとのありようを「理解可能」と見、
  • ②その理解可能であることをもって、そのひとを問題無しと考えること、


 かたや、ひとを異常と判定するというのは、

  • ①そのひとのありようを「理解不可能」と見、
  • ②その理解不可能であることをもって、そのひとを、問題有りと考えること、


 である、って。


 要するに、ひとを正常と判定するというのは、そのひとのことを「理解可能」と認定することであるいっぽう、ひとを異常と判定するというのは、そのひとのことを「理解不可能」と認定することなんだ、って?






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2023年11月23日に文章を一部修正しました(内容は変わっていません)。


*今回の最初の記事(1/4)はこちら。


*前回の短編(短編NO.59)はこちら。


*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。

 

理解不可能(了解不能)な人間がこの世に存在しないことを、別のもっと簡単な仕方で確認する(2/4)【短編NO.5の補足】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.60


◆「現実」が「イメージ」に合致するとは、しないとは

 数回前の短編で、この世に異常なひとなどただのひとりも存在し得ないということを、イメージというものを使って改めて確認しましたよね。それを踏またうえで、話を進めていきますね。

 

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その数回前の短編。

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 最初に、正常とは何か、異常とは何かということについて簡単にふり返っておきましょうか。


 こういうことでしたね。


 ひとを正常と判定するというのは、

  • ①そのひとの実際のありようを、ひとというものに対してこちらがもっている「ひととはコレコレこういうものだというイメージに合致していると見、
  • ②その合致していることをもって、そのひとを、問題無しと考えること、


 かたや、ひとを異常と判定するというのは、

  • ①そのひとの実際のありようを、こちらの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだというイメージに合致していないと見、
  • ②その合致していないことをもって、そのひとを、問題有りと考えること、


 でしたね。


 では、ひとの実際のありようが、そうしたメージに合致している(正常の場合)とか、合致していない(異常の場合)とかいうそのことを、ふだんみなさんが日常生活で、正常異常とは別の言い方で何と表現しているか、思い返してみましょうか。


 いま、あるひとが泣いていると、みなさん、想像してみてくれますか。お風呂上がりに食べようと冷蔵庫のなかに入れておいたプリンが無くなっていると訴えて。で、そのひとがそのように泣いているのが、みなさんの、ひとというものに対してもっている「ひととはコレコレこういうものだというイメージに合致している、とまず仮定してみてくれますか。


 どうですか。合致していると感じているこのとき、みなさんがもし何か喋るとしたら、こんなふうなことを口にするのではありませんか。


「とてもよくわかる。楽しみにとっておいたプリンが無くなっていたら、そりゃ、誰だって泣きたくなるわ」って。






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2023年11月23日に文章を一部修正しました(内容は変わっていません)。


*前回の短編(短編NO.59)はこちら。


*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。