(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

「科学」には身体が機械にしか見えない(4/5)

*「科学」を定義する第5回


◇「身体のすり替え」を左手を例に

 科学は「存在のすり替え」と「関係のすり替え」とによって、みなさんが体験しているもの一切をみなさんの心のなかにある像にすぎないことにし(前記Ⅰ)、この世にほんとうに実在しているのは元素(見ることも触れるもできず、音もしなければ匂いも味もしない)だけとするとのことでしたよね(前記Ⅱ)。で、みなさんが体験しているもの一切をみなさんの心のなかにある、「元素についての情報」であることにするとのことでしたね(前記Ⅲ)。


 先に挙げた箇条書きを再掲しておきますね。

  • .みなさんが体験しているもの一切を、みなさんの心のなかにある像にすぎないことにする。
  • .みなさんの心の外に実在しているのは、元素だけであることにする。
  • .みなさんが体験しているもの一切を、みなさんの心のなかにある、「元素についての情報」であることにする。


 科学は身体もおなじように解します


 みなさん、自分の左手を、自分の目のまえにかかげているものと引きつづき想定していてくださいよ。身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚」と「身体の物」とを合わせたもののことであるとついさっき言いましたね。それに倣えば、左手は、おなじ場所を占めている「左手の感覚」と「左手の物」とを合わせたもののことであると言えますね?


 まずそのふたつについて考えてみましょうか。


 みなさんが現に見ている(ことになっている)左手の姿は、正確には、「左手の物の姿と言えますね。それはみなさんの眼前数十センチメートルのところにいまありますよね。


 いっぽうそこには、みなさんの「左手の感覚」もありますね。


 みなさんが現に見ている「左手の物」の姿も、「左手の感覚」も、共に、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるということですよね。


 けど科学は「存在のすり替え」と「関係のすり替え」とによって、みなさんが体験しているもの一切を、みなさんの心のなかにある像にすぎないことにするとのことでした(前記Ⅰ)。科学は、みなさんが現に見ている「左手の物」の姿を、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるものでなく、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにします。またみなさんの「左手の感覚」についても、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるものでなく、みなさんの心のなかにある像にすぎないことにします。


 科学にとって、心の外にほんとうに実在しているのは、元素だけと考えられるとのことでしたよね(前記Ⅱ)。科学は、みなさんの眼前数十センチメートルのところに実在しているホンモノの左手は、元素がよせ集まったにすぎないものであると考えます。


 科学が左手と考えるその、元素のよせ集まったにすぎないものを、左手機械と以後呼ぶことにしますね。


 まとめるとこうなります。

  • .みなさんが現に見ている「左手の物」の姿と、「左手の感覚」とを、みなさんの心のなかにある像にすぎないことにする。
  • .みなさんの眼前数十センチメートルのところに実在している左手は、元素のよせ集まったにすぎないもの(「左手機械」)であるということにする。


 で、科学は、みなさんが現に見ている「左手の物」の姿と、「左手の感覚」とを共に、みなさんの心のなかにある(前記ⅰ)、「左手機械についての情報」であることにします。

  • .みなさんが現に見ている「左手の物」の姿と、「左手の感覚」とを、みなさんの心のなかにある、「左手機械についての情報」であることにする。


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「科学」には身体が機械にしか見えない(3/5)

*「科学」を定義する第5回


◆「身体」の定義

 みなさんにとって身体とは何かということを最初に確認しましょうか。


 みなさん、自分の目のまえに、自分の左手をかざしてみてくれますか。どうですか、その、みなさんの目のまえ数十センチのところには、何がありますか。まず皮膚がありますね。その皮膚の下には、皮下脂肪や筋肉や神経や骨や腱等がありますね。でも、そこに在るのはそんなブツ)だけですか。そうした「物」が占めているのとまったくおなじ場所を、別の何かもまた占めていませんか。


 感覚、もまたそこにありませんか。


 みなさんの目のまえ数十センチメートルのそのところで、「感覚とがおなじ場所を占めていませんか


 いや、占めていますよね?


 みなさんにとって左手とは、そうしておなじ場所を占めている、「感覚とを合わせたもののことではないでしょうか。


 その調子で今度は全身を考えてみてくださいよ。いま、みなさんの頭の頂から下半身の末端まで、「感覚」がひと連なりになっていますね。で、「感覚」がそうして占めている場所を、皮膚や皮下脂肪や筋肉や神経や骨や腱や臓器といった「物」もまた同時に占めていますね? みなさんにとって身体とは、そのようにおなじ場所を占めている、「感覚とを合わせたもののことではないでしょうか。


 現にみなさんはその「感覚」のほうを、「身体の感覚とか「身体感覚と呼びますよね。そのように「感覚」という言葉に、「身体の」とか「身体」という接頭語をつけるというのは、みなさんが「感覚」を上記のように身体の一部と受けとっている証拠、すなわち、身体を、おなじ場所を占めている「物」と「感覚」とを合わせたもののことと受けとっている証拠ではありませんか。


 いま「感覚」のほうを、ひとはふだん「身体の感覚とか「身体」感覚と呼ぶと言いました。では、その前者の言い方にならって、もういっぽうの「のほうは以後、「身体の物(カラダ・ノ・ブツ)」と呼ぶことしますね。


 そして、みなさんにとって身体とはおなじ場所を占めている身体の感覚身体の物とを合わせたもののことである、といったふうにこれから表現していきますね。


 みなさんにとって身体とは何か、いま確認しましたよ。でも科学は身体をみなさんのようにこうして素直に受けとったことはかつて一度もありませんでしたね?


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「科学」には身体が機械にしか見えない(2/5)

*「科学」を定義する第5回


◇「存在のすり替え」と「関係のすり替え」を経たあとの、音、匂い、味

 このまえ、「存在のすり替え」と「関係のすり替え」をあんパンをもちいて確認しましたよね。そのふたつのすり替えを経た結果、あんパンは、元素のよせ集まったにすぎないもの(ただし科学にとって元素とは、見ることも触れることもできず音もしなければ匂いも味もしないもの、です)であることになるとのことでしたね。そして、みなさんが現に見ているあんパンの姿は、みなさんの心のなかにある、「ホンモノのあんパン(元素のよせ集まったにすぎないもの)についての情報」と解されるとのことでしたね。


 箇条書きでまとめるとこうですよ。

  1. 科学は、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにする。
  2. みなさんの眼前数十センチメートルのところに実在しているホンモノのあんパンは、元素のよせ集まったにすぎないものということにする。
  3. みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある、「ホンモノのあんパンについての情報」であることにする。


 こうした要領で科学は、みなさんが現に見ているあんパンの姿のみならず、みなさんが体験しているもの一切を、みなさんの心のなかにある像にすぎないことにします(前記1に対応)。みなさんが現に見ている野原の景色も、現に聞いている窓外の物音も、現に嗅いでいるレモンの匂いも、現に味わっている紅茶の味も、現に感じている身体の感覚も、みな、みなさんの心のなかにある像にすぎないことにします。で、みなさんの心の外にホントウに実在しているのは、元素(何度も言いますように科学にとって元素とは、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないものです)だけであることにします(前記2に対応)。

  • .みなさんが体験しているもの一切を、みなさんの心のなかにある像にすぎないことにする。
  • .みなさんの心の外に実在しているのは元素だけであることにする。


 実際、科学は音を、みなさんが現に楽しんだり嫌がったりするあの高かったり低かったりする音ではなく、空気の振動(元素の運動)のことと説明しますよね(前記Ⅱ)。みなさんが現に聞いているあの高かったり低かったりする音については、みなさんの心のなかにある(前記Ⅰ)、「空気の振動についての情報」であることにして、ね?


 匂いなら、キッチンや花の辺りからするあの甘かったり酸っぱかったりする匂いのことでなく、匂い分子のことであるとし(前記Ⅱ)、みなさんが現に嗅いでいるあの甘かったり酸っぱかったりする匂いについては、みなさんの心のなかにある(前記Ⅰ)、「匂い分子についての情報」としますよね。


 味の場合もおなじですね。辛いとか甘いとかといったあの味のことではなく、口のなかに入った食材の味物質のことと科学は説明しますよね(前記Ⅱ)。で、みなさんが現に味わっているあの辛かったり甘かったりする味については、みなさんの心のなかにある(前記Ⅰ)、「味物質について情報」にすぎないとしますね?

  • .みなさんが現に聞いている音、嗅いでいる匂い、味わっている味を、みなさんの心のなかにある、「元素についての情報」であることにする。


 科学はこれとおなじように身体のことも解します。ちょっと詳しくそのことについていまから見ていきますね。ここから、冒頭で予告しましたように、「身体のすり替え」のほうに話を移していきますよ。


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「科学」には身体が機械にしか見えない(1/5)

*「科学」を定義する第5回

目次
・「科学」の定義
・「存在のすり替え」と「関係のすり替え」を経たあとの、音、匂い、味
・「身体」の定義
・「身体のすり替え」を左手を例に
・「身体のすり替え」(結論)


◆「科学」の定義

 やれ、何々は「非科学だ」「ニセ科学だ」と糾弾しているのにしばしばお目にかかりますよね。でも、「科学」と「非科学・ニセ科学」のあいだのはっきりした違いとなると、誰も、ダイヤモンドのような硬さで口を閉じて何も言いませんね? まるで、その違いは勘で見分けろと言わんばかりで、ね?


 みなさんなら科学をどう定義づけます


 俺は、こう定義づけてみてはどうかと思いますよ。いまみなさんが眼前のテーブル上にあるあんパンを見ているとしますね。みなさんが見ているそのあんパンの姿は、みなさんの眼前数十センチメートルのところにありますね。なのに、そのあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするものこそが科学である、って。


 科学はまず、みなさんが現に見ているあんパンの姿をそのように、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにする。で、それをキッカケに、怒濤のすり替えをはじめる。「存在」、「関係」、身体健康病気医学の使命といったありとあらゆるものを実際とは別のものにすり替えていき、科学独自の世界観を形作る、とのことでしたね。


 いま、その疾風怒濤のすり替えをつぶさに確認しているところですよ。


 前々回から前回にかけて、「存在のすり替え」と「関係のすり替え」を見ましたね。今回はその残りを見たあと、「身体のすり替えのほうに移っていきます


 では早速、「存在のすり替え」と「関係のすり替え」の残りを見ていきますね。


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「科学」にあんパンはどう見える(4/4)

*「科学」を定義する第4回


◆「科学」にとってのあんパンは(結論)

 科学は事のはじめに、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるものではなく、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするとのことでしたね。で、その流れにしたがって、「存在」と「関係」をそれぞれ、実際とは別のものにすり替えるとのことでしたよね。するとその結果、あんぱんは元素のよせ集まったにすぎないものであることになるということでしたね(ただし科学にとって元素とは、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないものです)。


 箇条書きにしてみますか

  • .科学は、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにする。
  • .みなさんの眼前数十センチメートルのところに実在しているホンモノのあんパンを、元素のよせ集まったにすぎないものであることにする。


 そのうえで科学は、見るということをこう考えます。みなさんの心の外に実在しているホンモノのあんパン(前記2)から、「そのホンモノのあんパンについての情報」が、光にのってみなさんの眼球まで飛んできて、そこで電気信号に様式を変換される。そして電気信号のかたちで神経を伝い、脳まで運ばれたあと、今度はそこで映像に様式を変換され、心のなかに見出されるに至る。その、心のなかに見出された「ホンモノのあんパンについての情報」(映像)こそ、現にみなさんが見ているあんパンの姿なのだ、って。

  • .みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある、「ホンモノのあんパンについての情報」であることにする。


 だけど、みなさんが現に見ているあんパンの姿はそもそも、心のなかにある映像なんかではありませんでしたね。ほんとうは、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるとのことでしたよね。で、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、逐一答えるとのことでしたね。あんパンは、肉眼で対峙すれば、みなさんが現に見ているそうした「マクロな姿」を呈し、電子顕微鏡で臨めば、原子からなる「ミクロな姿」を呈するが、そのどちらの姿も、ホンモノであって、共に、みなさんの眼前数十センチメートルのところにある、とのことでしたよね。にもかかわらず、科学は、ほんとうはおなじ場所を占めているそれら「マクロな姿」と「ミクロな姿」をそれぞれ、ニセモニとホンモノに分け、ニセモノとした前者の「マクロな姿」のほうを、心のなかにある、「ミクロな姿(後者)についての情報」であることにする、とのことでしたね。


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「科学」にあんパンはどう見える(3/4)

*「科学」を定義する第4回


◆「関係のすり替え」を経たあとのあんパン

 ではつぎに、「関係のすり替え」を考え合わせるとしましょうか。「存在のすり替え」のあとさらに「関係のすり替え」を経ると、あんパンはどういったものであることになるのか。


 みなさん、科学は関係を実際とは別のどういうものにすり替えるのだったか、覚えていますか。


 あんパンはほんとうは、自らのありようを自ら律するという形で、「他のもの」と関係しているのに、科学は関係をそのように素直に受けとりはしないとのことでしたね。あんパンは、自らのありようを「他のものというものをもちいて、律せられるという形で、「他のもの」と関係しているのだと考えるとのことでしたね。


 そんな科学はあんパンを、ちょうどいま見ましたように、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何かであることにしたあと、力が具わっていることにします。そうしてあんパンを、「どの位置を占めているかということと、「どんな力が具わっているかということだけが問題になるもの、であることにします。


 そうすれば、あんパンは、「他のもの」と関係していることになりますよね?


 でも、「どの位置を占めているか」ということと「どんな力が具わっているか」ということだけが問題になるものとは、いったい何でしょうね?


 みなさんは何だと思います?


 元素のよせ集まったもの、ではありませんか。


 ちょっと詳しく見ていきましょうか。


 ひとつのあんパンと言っても、その各部分のあいだには当然違いがありますね。パン生地、あん、空洞、ゴマといろいろあって、互いに違いがありますよね。しかも一概にパン生地と言ったって、ところどころ焼け具合は異なっていますし、ゴマだって、ひとつひとつのゴマのあいだには形や色の違いがありますよね? ひとつのゴマでも各部のあいだに違いが認められますしね? 科学はあんパンを、「どの位置を占めているか」ということと「どんな力が備わっているか」ということだけが問題になるものと解するとのことでしたけど、あんパンひとつを一単位と見て、あんパンのどの部分も、具わっている力はおなじと考えると、そうしたあんパン各部のあいだに認められる違いは当然説明できなくなりますね?


 そこで科学は、あんパン各部のあいだに認められるそうした違いを説明するために、あんパンをできる限り細分化していきそれぞれを別のもの別の力をもったもの)であることにします。


 その細分化された最小単位がいわゆる、元素、ですよ。


 このように、「存在」と「関係」それぞれを実際とは別のものにすり替える科学の手にかかると、みなさんの眼前にあるテーブル上のあんパンは元素のよせ集まったにすぎないものであることになります(ただし科学にとって元素とは、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないもの、です)。


 たしかにあんパンは、肉眼で見れば、こんがり茶色で、頭には黒いツブツブをのせた、言うなればマクロな姿を呈しますけど、電子顕微鏡などで見れば、原子のよせ集まった、言わばミクロな姿を呈しますよね? あんパンは実のところ、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、逐一答えるものだと最初に確認しました。俺が肉眼で対峙するか、それとも電子顕微鏡を通して対峙するかで、そのように、あんパンは姿を変えますね? でも、そのどちらもあんパンの姿ですよね? どちらかがホンモノで、どちらかがニセモノだということは絶対にありませんね? 俺が見ている、ステージ上の矢沢永吉さんの姿だけがホンモノで、そのとき他の観客が見ている永ちゃんの姿はことごとくニセモノだということはないのとおなじですね? あんパンの「マクロな姿ミクロな姿共にホンモノですよね。ところが、「存在」と「関係」をそれぞれ実際とは別のものにすり替える科学は、いまさっき見ましたように、あんパンの「ミクロな姿だけをホンモノ扱いし、「マクロな姿のほうはニセモノ(主観的要素)であることにして、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしてしまいます


 さて、いまわかったことをまとめますね。


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「科学」にあんパンはどう見える(2/4)

*「科学」を定義する第4回


 まずそれらふたつの姿のあいだに認められる違いを確認するところからはじめますね。何が違っていますか。いまさっき確認しましたように、いっぽうの姿は、東京ドームを真上から見たような丸い形をしていて、もうかたほうの姿は、伏せたお椀を横から見たような形をしているとのことでしたね。そのように「容姿とでも言うべきものがふたつの姿のあいだでは異なっていますよね(姿の「大きさ」も異なっていますが、それもこの「容姿」のちがいのなかに入れて考えさせてくださいね)。


 また「も異なっていますね。テーブルの真上から見下ろしたときには、あんパンは、電灯の光を受けたみなさんの頭が落とす陰のなかにあって、薄暗く見えますよね。かたやテーブル表面の高さまで視線を落として遠くから見たときには、あんパンは真上の電灯の光を遮られることなくサンサンと浴び、こんがりした茶色をありありと呈しますね。そのてっぺんをすこし黄色っぽくしたりしてね。


 あんパンのふたつの姿はこのように、「容姿」と「色」が異なっていますよね。


 科学は、あんパンのこれらふたつの姿から、互いの姿のあいだに認められる違いをそれぞれ、主観的要素にすぎない(みなさんの心のなかにある像にすぎない)としてとり除くとのことでした。その違いというのは、いま確認しましたように、「容姿」や「色」でしたね。では、「容姿」と「色」を、それらあんパンの姿ふたつからそれぞれとり除いてみましょうよ。するとそのあと、両者の姿に何が残ると思います?


 両者の姿に残るのは、互いにおなじ位置を占めているということ、だけではありませんか。


 つまり、あんパンの姿ふたつそれぞれから、そうして互いの姿のあいだに認められる違い(「容姿」と「色」)を主観的要素にすぎないことにしてとり除けば、そのあと両者に残るのは、「どの位置を占めているかということしか問題にならない何か(哲学用語で言うところの延長)、になるのではありませんか。


(いま見ている操作を史上初めてやってのけたのは、近代哲学の祖にして近代科学の創始者のひとりであるデカルトですね? 「延長」は彼の言葉ですよね。)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

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 いまこういうことを確認しましたよ。


 科学はまず、みなさんが見ているあんパンの姿を、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるものでなく、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにする。で、つぎに、その流れにしたがって、存在を別ものにすり替える。結果、あんパンは、「どの位置を占めているかということしか問題にならない何かになる、って。


 でも、もしあんパンが、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものにすぎないなら、あんパンはただぽつんと在るだけで、「他のもの」と一切関係していないことになりますね?


 したがって、関係についても考え合わさなければならないということになりますよね?


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