(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

「科学」にあんパンはどう見える(1/4)

*「科学」を定義する第4回

目次
・「存在のすり替え」を経たあとのあんパン
・「関係のすり替え」を経たあとのあんパン
・「科学」にとってのあんパンは(結論)


◆「存在のすり替え」を経たあとのあんパン

 先日の話のつづきをしても構いません?


 科学にとってのあんパンの話ですよ。


 こういうことでしたよね。科学は、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの前方数十センチメートルのところにあるものではなく、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにする。そして、それをキッカケに、疾風怒濤のすり替えをはじめる。存在関係、身体、健康・病気、医学の使命といったありとあらゆるものをことごとく実際とは別のものにすり替えていく、ということでしたね。


 前回はそのうちから、「存在のすり替え」と「関係のすり替え」を見ましたね。結局、そうしたふたつのすり替えを経たあとあんパンはいったいどういったものであることになるのかいまから確認していきますよ。


 まず科学は、あんパンをつぎのように別ものにすり替えるとのことでしたね(存在のすり替え)。「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、逐一答えるものから、「ただただ無応答で在るもの」(客観的なもの)へ、って。


 すると、あんパンはどういうものであることになるのでしょうか。


 みなさんに、眼前のテーブル上にあるあんパンへ近寄っている場面を、先ほど想像してもらいましたよね。その想像してもらった場面では、みなさんが現に見ているあんパンの姿は刻一刻と、大きく、かつ、くっきりしていきましたね。一瞬ごとにあんパンの姿はそのように異なっていきましたよね。ちょっと思い出してみてくれますか。みなさんが、テーブルのそばまで来て見下ろしたあんパンの姿は、東京ドームを真上から見たときのような丸い姿をしていましたね。いっぽう最初しゃがんでいたみなさんが、遠くから、テーブル表面とおなじ高さに視線を置いて見ていたときには、あんパンの姿は、ちょっと雑な言い方になりますけど、伏せたお椀を横から見たような形をしていましたよね。


 いま、あんパンの、まったく異なる、ふたつの姿に言及しましたよ。


 けど、科学にとって、あんパンはあくまで「ただただ無応答で在るもの」です。みなさんがどこにどのように立っていようが、そんなことでは何ら変わることのないものです。科学にはみなさんがテーブルの真上から見ていようがテーブル表面の高さまで視線を下げて遠くから見ていようがあんパンはあくまで「ただただ無応答で在るもの」であって、何ら変わることがないと考えられます。でも、いまさっき確認しましたように、そのふたつの場合にみなさんがそれぞれ見ているあんパンの姿は現に、互いに異なっていますよね。そこで科学は、そのふたつの場合のあんパンの姿のあいだに何ら違いはないということにするために(つまり、あんパンを「ただただ無応答で在るもの」であることにするために)、あんパンのそれらふたつの姿のあいだに認められる違いをほんとうはそのあんパンに属していないということにします。すなわち、みなさんの心のなかにある像(主観的要素)にすぎないことにします。


 それらあんパンのふたつの姿のあいだに認められる違いをそうして、それらふたつの姿それぞれからとり除き、みなさんの心のなかにある像にすぎないことにすれば、そのあとに残ったふたつの姿は互いにまったく違いがないことになりますね?


 そうなれば、あんパンは「ただただ無応答で在るもの」であることになりますね?


 では、いま言いましたように、それらあんパンのふたつの姿それぞれから、それらふたつの姿のあいだに認められる違いをとり除くと、そのあとにはいったい何が残るのかこれから確認してみるとしましょうか。


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「科学」は存在と関係を別ものにすり替える(3/3)

*「科学」を定義する第3回


◆関係のすり替え

 いま確認しましたように、あんパンは実際のところ、「ただただ無応答で在るもの」なんかではありませんね。言ってみれば、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるかという問いに逐一答えるものですよね。したがってこう言えるのではないでしょうか


 科学はまず、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるものでなく、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにする。で、その流れにしたがって、あんパンを実際とは別のものにすり替える。すなわち、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、逐一答えるものから、「ただただ無応答で在るもの」(客観的なもの)にすり替える、って。


 いま、「存在」のすり替え作業(俺はこの作業を「存在の客観化」と呼ぶことにしています)を見ましたね。さて、このように存在をすり替えますと、「関係もまた実際とは別のものにすり替えなければならなくなります。


 ここから「関係」のすり替えのほうを見ていきますよ。


 いまさっき、あんパンに近寄っている場面をみなさんに想像してもらいながら、あんパンが実は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、逐一答えるものであることを確認しましたよね。そのように答えることによってあんパンは、「他のものと関係しているということでしたね。


 だけど科学はあんパンを、そうした問いに逐一答えるものとは認めないとのことでしたね。それはどういうことか。あんパンが「他のもの」とどのように関係しているかを、実際どおりには認めないということですよね。


 科学はあんパンを「ただただ無応答で在るもの」と考えるとのことでした。そう考えると、あんパンは「他のもの」と無関係であることになりますね? でもさすがに、あんパンを「他のもの」と無関係であると考えることはできませんね? そこで科学は、あんパンと「他のもの」とをあらたにつなぎ直すことになります。


 けど、いま確認しましたように科学には、あんパンと「他のもの」との関係を、実際どおりに認めることはできません。


 科学には関係をあらたに作り出すしか手がないわけですよ。


 では、どういった関係を科学はあらたに作り出すのか。


 くどいですが、もう一度整理してみましょうよ。実際の関係とはどのようなものでしたか。あんパンは、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、逐一答えるという形で、「他のもの」と関係しているとのことでしたよね。そのようにあんパンは、自らのありようを自ら律する形で、「他のもの」と関係しているとのことでしたね。


 しかし、くり返し言っていますように科学には、関係を、実際どおり、そのようなものと認めることはできません。したがって、科学にはもう関係をこういったものと考えるしかありませんね。


 あんパンは、自らのありようを「他のものに律せられる形で、「他のもの」と関係しているのだ、って。


 あんパンがそうして自らのありようを「他のものに律せられるさい、その「他のもの」によってもちいられるものとして想定されてきたのがまさに科学の言う、、なのではないでしょうか。


 そして、あんパンが自らのありようを、「他のもの力をもちいて律せられるというこの関係を、科学は、因果関係、と呼んできたのではないでしょうか。


 ここまで、ふたつのことを確認しましたね。はじめに、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしたその流れにしたがって、科学が、「存在を実際とは別のものにすり替える次第を確認しましたね。ついで、科学が「関係、自律的なものから他律的なものにすり替える顛末をちょうどいま確認したところですね。


 でも、話がまだ漠然としているような気がしません? 結局それであんパンは、そんなすり替えをする科学にとって、いったいどういったものであることになるのか、イマイチ判然としませんね?


 なら、この機会にもっと突きつめて見ておきますか、せっかくですしね。


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「科学」は存在と関係を別ものにすり替える(2/3)

*「科学」を定義する第3回


◆存在のすり替え

 みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるものではなく、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするのが、そうしたすり替えのキッカケであると、さっきから何度も言っていますよね。科学にはそのように、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしなくてはならない事情があるとのことでしたね(そのことを前回確認しましたね)。


 科学は事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為す。その結果、科学には、現にみなさんが見ているあんパンの姿が、みなさんから離れたところにあると認められなくなる。みなさんの心のなかにある映像であるとしか考えられなくなる。そして、みなさんから離れたところにあるあんパンそれ自体はみなさんには見えないものであることになる、ということでしたね。


 そのように科学にとって、みなさんから離れたところにあるあんパンそれ自体は、見ることのできないもの、です。みなさんがまぶたを閉じようが、開けようが、その方に視線を向けようが、あるいはそっぽを向こうが、そんなことには無応答で、見えないままだし、みなさんが度の合ったメガネをかけて見つめようが、メガネを外して裸眼で視線を送ろうが、はたまたサングラスをかけて眺めようが、そんなことにも無応答で、見えないままのものです。


 そこで科学はあんパン(それ自体)を、ただただ無応答で在るもの、にちがいないと決めつけます。


 つまり、こういうことですよ。


 科学にとってあんパン(それ自体)は、みなさんがまぶたを閉じようが、開けようが、メガネをかけようが外そうが、そんなことには無応答で、見えないまま、といま言いましたね。だけど、それだけにとどまらずみなさんが近づいて行っても終始、無応答で、何ら変化しないし、逆にみなさんが遠ざかって行っても終始、無応答で、何の変化もしない、またみなさんが部屋の明かりをつけたり消してたりしても終始、無応答で、何ら変化しないと考えるということですよ。


 科学はそうしてあんパンを「ただただ無応答で在るもの」(客観的なもの)と決めつけます。


 でも実際あんパンはただただ無応答で在るものなんかではありませんね。確認してみましょうか。みなさんには前回からずっと、眼前のテーブル上にあるあんパンを見ているものと仮定してもらっていますけど、みなさん、今度は、そのあんパンにゆっくり近づいて行く場面をいまから想像してみてくれますか。


 みなさんが見ているあんパンの姿は当初、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるとのことでしたね。どうですか、その姿は、みなさんが近寄っていくにつれ、刻一刻と大きくなっていきませんか。


 いや、あんパンはそのように姿を刻一刻と大きくしていくことで、実寸を終始一定に保ちますよね。もしその姿がずっとおなじ大きさなら、みなさんは、刻一刻とあんパンの実寸が縮んでいっているのを見ていることになりますね?


 さらに、みなさんが近寄っていけば、あんパンは刻一刻とその姿をくっきりとさせてもいきますね?


 近寄っている途中でみなさんがメガネを外せば、あんパンの姿は一気にぼやけたものに変わりますし(みなさんの視力が悪いものと仮定させておいてくださいね)、再びみなさんがメガネをかければ、くっきりした姿に戻りますね? みなさんが度付きサングラスをかければ、どうですか。一転、薄暗い姿をとるようになるのではありませんか。部屋の明かりをつければどうでしょう。あんパンの姿は明るいものになり、反対に部屋の明かりを消せば、薄暗いものに変わるのではありませんか。


 実際あんパンはこのように、「ただただ無応答で在るものなんかではありませんね。むしろ、みなさんの身体や、部屋の明かりや、といった「他のものと共に在るにあたってどのようにあるかという問いに、逐一答えますね?


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「科学」は存在と関係を別ものにすり替える(1/3)

*「科学」を定義する第3回

目次
・科学の原点
・存在のすり替え
・関係のすり替え


◆科学の原点

「科学的であれ」と他人を鼓舞したり、「××は非科学的だ」と非難したりするとき、ひとは何を指して「科学」と言っているのでしょうね。


 イマイチはっきりしないと思いません? 皮肉なことに、そう言っているひとたちが、「科学」と「非科学」の区別を、勘に頼って付けているような気すらしませんか。


 みなさんなら科学をどう定義します


 俺はこう定義してみてはどうかと思いますよ。みなさんがいま眼前のテーブル上にあるあんパンを見ているとしますね。みなさんが見ているそのあんパンの姿は、みなさんの眼前数十センチメートルのところにありますね? にもかかわらず、そのあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするものこそが科学である、って。


 科学は実際そう説明しますよね? 脳科学の本でも開ければ、当たりまえのようにそう説いているのに出くわしますよね?


「見るとは外界のイメージを脳(心)のなかに形作ることだ」みたいに書いてありますね?


 みなさんが現に見ているあんパンの姿をそのように、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしたあと、科学はその流れにしたがって、存在、関係、身体、健康・病気、医学の使命、といったありとあらゆるものを実際とは別の何かにすり替えていきます


 みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしたのをキッキケに科学はそうして科学独自の世界観を作り上げていきます


 なら、科学独自の世界観が形作られることなるそのキッカケに着目して先ほどのように、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするものこそが科学であると、科学を定義づけるのは極めて有効ということになるのではないでしょうか。


 さあでは、いまからちょっと見てみることにしましょうか。科学が、存在、関係、身体、健康・病気、医学の使命、をことごとく、実際とは別のものにすり替えていく、その流れるような顛末を、いま言いましたキッカケから、ね?


 まずは、科学が「存在関係をそれぞれ実際とは別のものにすり替える次第を確認していきますよ。


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漢字、絵、あんパンをもちいて「科学」の原点を探る(4/4)

*「科学」を定義する第2回


◆本題:あんパン

 みなさんの目のまえのテーブル上にあんパンがひとつのっていて、いまみなさんはそのあんパンを見ていると今度は想像してみてくださいよ。


 そのあんパンの姿は、みなさんの眼前xセンチメートルのところにありますね?


 でも科学にはこうとしか思われません。


 あんパンがいまわたしに見えている。ということは、そのあんパンの姿は、わたしの心のなかにあるのだ、って。


 どういうことでしょうか。犬という漢字と、ヨットの絵とをもちいて先に準備しておいたところをいまから活かしながら考察していきますね。


 みなさんにはいま、眼前xセンチメートルのところにあるあんパンを見てもらっていますね。みなさんが見ているそのあんパンの姿は、みなさんの眼前xセンチメートルのところにありますね。互いにxセンチメートル離れたところにある、その「あんパンの姿」と「みなさんの身体」のふたつは、すこし変な言い方になりますけど、いまみなさんがしている体験(目のまえのあんパンを見ているという体験)に共に参加している、と言えますね。


 つまり、互いにxセンチメートル離れたところにあるその「あんパンの姿」と、「みなさんの身体」とは、いまみなさんがしている体験の部分ですよね。


 だけど科学は、互いに離れたところにある、それらふたつを、いまみなさんのしている体験の「部分」であるとは認めません。


 いや、さすがに、あんパンと、みなさんの身体とが、いま現に在る場所にそれぞれ位置を占めているのは科学も認めますよ。だけど、互いに離れたところにある、あんパンとみなさんの身体のふたつを、「みなさんのしている体験に共に参加している」ことの無いもの同士と考えるわけですよ。要するに、犬という漢字と、ヨットの絵とをもちいて見た例のふたつの操作をするわけですよ。

  1. あんぱんとみなさんの身体とが、現に在る場所にそれぞれ位置を占めているのは認める(位置の承認)
  2. しかし、互いに離れたところにある、それらあんパンとみなさんの身体のふたつを、「みなさんのしている体験に共に参加している」ことの無いもの同士と考える(部分であることの否認)


 すると、どうなります? 


 xセンチメートル離れたところにあるあんパンの姿を見ているというみなさんの体験(全体)忽然と、存在していないことになりますよね。


 つまり、あんパンとみなさんの身体とは、互いに離れたところにただバラバラに在るだけであって、みなさんには離れたところにあるそのあんパンは見えていないということになりますね?


 したがって、みなさんが現に見ているあんパンの姿は、みなさんから離れたところにあるのではなくなりますね?


 結局、みなさんの心のなかにある映像であるとしか考えられなくなりますね?


 確認してきてきたことを、ここで最後にまとめます。


 覚えてくれていますか。最初に、俺なら科学をこう定義づけると言いましたよ。みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるものでなく、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするものこそが科学である、って。で、そう言ったあと、科学には、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、そんなふうにみなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしなければならない事情があるんだと付け加えましたね? その事情をここまで、ふたつの例を活用しながら見てきました。「絵の存在否定という不適切な操作(部分を部分であると認めることを拒否することによって全体の存在を認められなくなること)を為す科学には、みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんから離れたところにあるものと現実どおりに認めることができず、みなさんの心のなかにある映像であるとしか考えられない、とのことでしたね。


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漢字、絵、あんパンをもちいて「科学」の原点を探る(3/4)

*「科学」を定義する第2回


◆ふたつ目の例:絵

 みなさん、今度は、壁にかかった一枚の絵を想像してみてくれますか。見わたすかぎりの青い空、その下には一面にひろがる青い海、そしてその大海原に浮かぶ真っ白な一隻のヨット。みなさんはいま、一面の青のなかにポツリと白い点が浮かぶその絵を、真ん前に立って見ているとします。


 そのヨットの「白」と、空と海の「青」のふたつについて今度は考えてみましょうよ。


 当たりまえのことをここでもちょっと変わったふうに表現することになりますが、いまみなさんが見ていることになっているその「白」と「青」のふたつは、ひとつの絵に共に参加していると言えますよね。


 では、さっそく先ほど見たふたつの操作をこの絵にもやってみましょうか。まず、その「白」と「青」のふたつが、カンバス上の現に塗られた場所にそれぞれ位置を占めているのを認めてみましょうか。これがひとつ目の操作ですね。ついで、ふたつ目の操作を矢継ぎ早にしてみましょうか。それら「白」と「青」のふたつを、「ひとつの絵に共に参加している」ことの無いもの同士であると考えてみましょうか。

  1. 「白」と「青」が、カンバス上の現に塗られた場所にそれぞれ位置を占めているのを認める(位置の承認)。
  2. それら「白」と「青」のふたつを、「ひとつの絵に共に参加している」ことの無いもの同士と考える(部分であることの否認)。


 するとどうなるとみなさん思います? 目のまえには、「白」と「青」のふたつがただバラバラに在るだけであって、一面の青のなかにポツリと白い点が浮かんでいるという絵は存在していないということになりませんか。


 そして、「ひとつの絵に共に参加している」ことの無いもの同士であると考えられることになったその「白」と「青」のふたつをどう足し合わせてみても、一面の青のなかにポツリと白い点が浮かんでいるという絵は出てこないということになりませんか。


 つまり、さっきの犬という漢字の場合とおなじことになりませんか。


 いや、なりますよね。


 いま、例のふたつの操作を絵にしてもらいましたよ。「白」と「青」が、カンバス上の現に塗られた場所にそれぞれ位置を占めているのは認める(ひとつ目の操作)。しかし、それら「白」と「青」のふたつを、「ひとつの絵に共に参加している」ことの無いもの同士と考える(ふたつ目の操作)。果してこれは何をしたことになるのでしょうね。この場合もまた、「白」と「青」のふたつを絵の部分であると認めることを拒否したことになるのではないでしょうか。そのように「部分」であると認めることを拒否することによって、青一面のなかに白い点がポツリと浮かんでいるという絵(全体の存在を認められなくなったということなのではないでしょうか。


 犬という漢字と、ヨットの絵のふたつにいま、おなじ操作をしてもらいましたね。すると、どちらの場合でもおなじことが起きました。犬という漢字のほうでは、その各部分(「大」と「右上の点」)がそれぞれ存在しているのは認められるものの、犬という漢字(全体)は忽然として存在していないことになりましたね。いっぽう絵のほうでは、各部分(「白」と「青」)がそれぞれ存在しているのは認められるものの、「全体」の絵は存在していないことになりましたね。ここまで見てきたこうした操作を以後、「絵が存在していないことになる」というその帰結から(漢字も絵と見ることができますね)、絵の存在否定、と呼ぶことにでもしておきましょうか。


 さて、最初に、あんパンをもちいて科学をこう定義づけましたよね。みなさんが現に見ているあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするものこそが科学である、って。で、そのとき、こう言いましたね? 科学には、みなさんが現に見ているあんパンの姿をみなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしなくてはならない事情があるのだ、って。


 その事情とは、この「絵の存在否定」のことを指しますよ。


 どういうことか、いまから詳しく見ていきますね。


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漢字、絵、あんパンをもちいて「科学」の原点を探る(2/4)

*「科学」を定義する第2回


◆ひとつ目の例:漢字

 早速、いまみなさんの目のまえに、犬という漢字がひとつ書かれた白い紙があると想像してみてくださいよ。その漢字を「大」という部分と「右上の点」のふたつに分けて考えてみますね。以下、俺の文章を読んでいるあいだもみなさんはその犬という字を見ているものと仮定して、読み進めていってくれますか。


 さあ、ようく想像してみてくださいよ。いまみなさんは、犬という漢字を目の当たりにしています。みなさんがそうして見ている「大」と「右上の点」のふたつはいま、ひとつの漢字(犬)に共に参加していると言えますよね。


 いまちょっと変な言い方をしましたけど、別にたいしたことは言ってませんよ。当たりまえのことを拙くもわざわざ言葉にしただけですよ。


 では、ここでつぎのふたつの操作をしてみましょうか。


 まず、その「大」と「右上の点」のふたつが、現に書かれた場所にそれぞれ位置を占めているのを認めてみましょうか。それがひとつ目の操作です。


 つぎに、その「大」と「右上の点」のふたつを、「ひとつの漢字に共に参加している」ことの無いもの同士と考えてみましょうか。これがふたつ目の操作です。

  1. 「大」と「右上の点」とが、現に書かれた場所にそれぞれ位置を占めているのは認める(位置の承認)。
  2. それらふたつを、「ひとつの漢字に共に参加している」ことの無いもの同士であると考える(○○であることの否認→○○には何が入るでしょう。答えはあとで)。


 すると、どうなると思います? みなさん、想像してみてくれますか。


 みなさんの目のまえに「大」と「点」とがそれぞれ在るのは見えるが、犬という漢字が存在しているのは認められなくなる、のではありませんか。「大」と「点」とがただバラバラに在るだけで、犬という漢字は存在していないということになりませんか。


 そして、「ひとつの漢字に共に参加している」ことの無いもの同士であると考えられることになった「大」と「点」とをどう足し合わせても、犬という漢字は出てこないということになりませんか。


 いま、犬という漢字をもちいてみなさんに、あるふたつの操作をしてもらいましたね。すると、「大」と「点」とがただバラバラに在るだけで、犬という漢字は存在していないということになりましたね。


 でも、いったいそのふたつの操作は何を意味するのでしょうね? もう一度、そのふたつの操作についてようく考えてみましょうか。


「大」と「右上の点」とが、現に書かれた場所にそれぞれ位置を占めているのは認める(操作1)。しかし、その「大」と「右上の点」とを、「ひとつの漢字に共に参加している」ことの無いもの同士と考える(操作2)。どうでしょう。これは、「大」と「右上の点」とを犬という漢字の部分であると認めることを拒否することなのではないでしょうか。


 そのように「部分」であると認めることを拒否することによって、犬という漢字(全体が存在しているのを認められなくなること、なのではないでしょうか(先のクイズの答え:○○のなかに入るのは「部分」でした)。


 つぎはそのふたつの操作を、絵にやってみますね。


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