(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

現代科学の定義には納得できるところがひとつもない

*科学するほど人間理解から遠ざかる第28回 


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといったように快さや苦しさを理解することは西洋学問にはできないとのことでした。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか


 いろんな誤解の仕方があるのでしょうけれども、ここではそのうちからふたつ見ることにし、ちょうどいまそのふたつ目(現代科学の情動理論)を見ているところです


 その誤解の仕方では、快さ(快情動)、脳が「身体機械」にさせる、好物への接近行動まえのウォーミングアップ苦しさ(不快情動)、脳が「身体機械」にさせる、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップとそれぞれし、快さや苦しさをみなさんに理解できない奇っ怪なものにしてしまう、とのことでした。


 そんなふうに解したのでは快さや苦しさが理解できなくなるのも当然です。このふたつ目の解し方については、すくなくともつぎの難点がすぐに思い浮かびます。

  1. 身体は「身体機械」ではない。
  2. 行動は好物への接近行動と敵からの逃避行動のふたつから成るのではない
  3. 行動は、「身体機械」の位置取りの変化ではない。
  4. 感情は行動まえのウォーミングアップではない
  5. 身体に起こる出来事を一点(いまの場合は脳)によって引き起こされるものと考えることはできない
  6. 「身体の感覚(部分)」は、心のなかにある、「身体機械についての情報」ではない。


 これらについて簡単にひと言ずつ申し述べていきます。


 前記1と6、および3については前述しました。ここではもう触れません。


(1と6については前者、3については後者の記事でそれぞれ触れました。)


 2については、こう申し添えましょう。いったいどういった根拠にもとづいて現代科学は行動をこうしたふたつから成ると考えたのか。友人と別れてひとり淋しく自宅に歩み行く俺は、敵から逃避しているのか。それとも好物に接近しているのか。にっくき相手打者に向かって球を投げこむ投手としての俺は、好物に近よっているのか、それとも敵から逃避しているのか。


 4についても、感情を行動まえのウォーミングアップと解する根拠はどこにあるのか、と疑問を呈さなければなりません。感情をどう説明してよいかわからず、苦し紛れに、行動にからめて定義づけたというのが真相なのではないでしょうか。


 5については正直、何か言うのはもうほとほと疲れました。


 現代科学では、好物への接近行動や敵からの逃避行動を脳という一点のせいにするとのことでしたが、ほんとうに出来事を一点のせいにすることはできるのでしょうか。実績を出すことによって科学を長いあいだ支え導いてきたのは、物理学や化学でしたけれども、それらが、ビーカーのなかで起こる出来事や、テーブルのうえで起こる出来事、水中で起こる出来事、ボイラーのなかで起こる出来事、宇宙空間で起こる出来事等を、何か一点によって引き起こされるものと説明したことはこれまで一度たりともなかったはずです。すくなくとも俺には物理学や化学に  といっても受験勉強や試験勉強をとおしてにすぎませんが  出来事を一点のせいにすることができると教えられた記憶はまったくありません。もし出来事を一点のせいにすることができるのなら、似かよった出来事を複数集めてきて、それらに共通する一点を探し出せば、それでもうその種の出来事は説明できたことになります。


 その一点がそうした出来事を引き起こすと断じればいいわけです。


 テーブルから物が落ちるという出来事についてなら、そうした出来事を複数集めてきて、それらすべてに共通して見つかる一点を探し出し、それこそ、テーブルから物を落とす一点(医学はこうした一点を原因とよびます)なのだとすれば、その出来事を解明できたことになります。今後テーブルのうえにそうした一点を見つけさえすれば、そのテーブルからいまにも物が落ちると自信満々に未来予想できることになります。物理学者や化学者も、出来事は一点によって引き起こされるとだけ考えていれば十分で、わざわざ、教科書に書かれているような法則を見つけ出そうと努力する必要もなかったし、学生も試験会場に、物理学や化学の授業で習った法則を暗記して臨む必要もなかったということになります。


 しかし、そんな一点はいくら探しても見つかりません*1、物理学者や化学者は、いま教科書にのっているような数々の法則を実際、必要としてきました。こうした事実はまさに、出来事は、一点のせいにすることができるほど単純なものではないということを示しているのではないでしょうか。


 俺が思うに、出来事を一点のせいにするというのは、ものごとを過度にわかりやすく見ようとする人間の悪癖であって(俺も含めてひとは隙あらばすぐ、出来事を一点のせいにしようとします)、出来事をつぶさに見ることを惜しみ性急に白黒つけようとするとき、ひとはしばしばこの論理に飛びつきます排外主義の根っこであるとも申し上げられるのではないでしょうか。自分たちの生活が苦しいのを移民のせいにするとか(世界の富の80%が、世界人口のたった1%に集中していると言われるなか、自分たちの生活が苦しいのをすべて移民におっ被せるのはおかしな話です)、社会が自分たちの思ったとおりではないのを、国内の一民族のせいにするとかといった差別のうちにみなさんは、出来事を一点のせいにするこうした論理をお認めになるのではないでしょうか。

健康帝国ナチス (草思社文庫)

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 科学は物理学や化学の分野からいっぽ外に踏み出すと、つまり身体に起こる出来事を扱うだんになると、急に、出来事を一点のせいにするこうした排外主義的論理をもちい出します。科学のなかでも医学という分野だけは、出来事を一点のせいにするこうした悪癖から手が切れていません(物理学的手法が生物の解明にも通用することをはじめて示したと言われる、1950年代に隆盛をきわめた分子生物学は、身体に起こる出来事を遺伝子という一点のせいにするために都合よく作り上げられた物語だったのではないでしょうか)。

生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫)

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 医学は「身体機械」に起こる出来事を正常なものと異常なものとに分け、前者については脳や遺伝子のせいにするいっぽう、後者については、ガンとか、ウィルス、細菌、といった一点のせいにしてきました。ほら、免疫学なんか排外主義まるだしです。昔話に出てくる偏屈な村人よろしく、身体の外から入ってくるものは敵(非自己は敵)だと頭ごなしに決めつけ、身体には、外からやってくるものを敵と認識して排除する機構(免疫機構)があるのだとするその論理は、排外主義以外の何ものでもないではありませんか。みなさんがいままで免疫学的知見とやらを口にされるとき、いつもひどくためらいを覚えておいでだったのは、そうした事情があってのことなのではないでしょうか。

免疫・「自己」と「非自己」の科学 (NHKブックス)

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 みなさんはいまガン治療のことをお考えかもしれません。すべてをガンという一点のせいにし、その一点さえ撲滅できればと言って、手術や抗ガン剤投与で、身体のなかを焼け野原にするのは、排外主義の論理そのものではないか、と。

がん検診の大罪 (新潮選書)

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 先に挙げました1から6までの難点について、ひと言、ふた言、何やらぶつぶつと申しました。大変こころ苦しいかぎりですが、いくら頑張っても、いま点検している現代科学流の快さ苦しさについての解釈(情動理論)には、まともな論理はひとつたりとも見い出せないとしか申し上げられないように思われます。


第27回←) (第28回) (→第29回

 

 

12月25日に表現を一部修正しました。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:身体にガンができるという出来事を一点(遺伝子)のせいにできると考え、ガンの完全解明を謳った、アメリカの有名大プロジェクトは、思ったよりうまくいかなかったのではないでしょうか。ワインバーグ教授ははっきり失敗だったと言っているようですが……

ゴテゴテした、現代科学流の、快さ苦しさの定義

*科学するほど人間理解から遠ざかる第27回 


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといったふうに快さや苦しさを理解することは、事のはじめにふたつの不適切な操作*1を立てつづけになす西洋学問にはできないとのことでした。


 では快さや苦しさをどういったものと西洋学問では誤解するのか


 いろんな誤解の仕方があるのでしょうけれども、ここではそのうちからふたつ見ることにし、ちょうど先ほど、そのふたつ目を見はじめたところです


 それは、快さと苦しさを行動にからめて定義づけるアカデミックな解釈でした。


 みなさんにとって身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物部分」とを合わせたもののことであって、「身体の感覚部分」は身体のうちに含まれます。ところが西洋学問では身体を元素(西洋学問では、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないものとします)の集まりでしかないと考え機械と見なし、「身体機械」という名でよんだりします*2


 そんな西洋学問にとって「身体の感覚(部分)」、心のなかにある、「身体機械についての情報」にすぎません*3


 先刻、並木道を大木に向かって歩いているとか、ジャガイモの皮をむいているといった行動を、西洋学問では、そうした「身体機械」の位置取りの変化(「身体機械」に起こる物的出来事)と解すると申しましたが、現代科学は快さと苦しさをそれぞれ、快情動、不快情動とよび、そういった行動まえのウォーミングアップであると考えます。


 こんなふうに、です(理化学研究所脳科学総合研究センターが『脳科学の教科書(こころ編)』で紹介してくれている説を以下、見ます)。

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

 


 まず行動を好物に接近するものと、敵から逃避するもののふたつに分けます。


 ついで、それに合わせて、情動(科学は感情を情動とよびます)のほうを快情動(快さに相当します)と不快情動(苦しさに相当します)のふたつに分け快情動を好物に接近するという行動まえのウォーミングアップ不快情動を敵から逃避するという行動まえのウォーミングアップとするといった次第です。

  1. 行動を、好物に接近するものと、敵から逃避するもののふたつに分ける。
  2. それに合わせて情動を、快情動と不快情動に二分する。
  3. 快情動を、好物に接近するという行動まえのウォーミングアップ、不快情動を、敵から逃避するという行動まえのウォーミングアップとする。


 もうすこし詳しくこの解釈を見てみます。


 西洋学問では、行動を、「身体機械」に起こる位置取りの変化とすると先に申しました。現代科学はこの物的出来事を、脳という一点によって身体機械に引き起これされるものとします。脳が、好物に接近する、もしくは敵から逃避するといった行動計画をたて、その計画を実現すべく、電気信号のかたちをした運動指令を、「身体機械」各所に神経をかいして送りそうした行動をとらせるとします。


 そして、脳はそうした行動をとらせるまえに「身体機械、それら行動がスムースに起こるよう、あらかじめウォーミングアップさせておくのだとします。


 で、そうしたウォーミングアップには2種類あるということにし、ひとつは、脳が、「身体機械」に、好物への接近行動をとらせるまえにさせるウォーミングアップ、もうひとつは、脳が、「身体機械」に、敵からの逃避行動をとらせるまえにさせるウォーミングアップ、とします。現代科学は、前者、好物への接近行動まえのウォーミングアップのほうを快情動(快さ)、後者、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップを、不快情動(苦しさ)とするというわけです。

  • .脳が「身体機械」に、好物への接近行動、もしくは敵からの逃避行動をとらせるとする。
  • .ただし脳はそうするまえに、あらかじめ「身体機械」にウォーミングアップをさせるということにする。
  • .好物への接近行動まえのウォーミングアップを快情動、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップを不快情動とする。


 先にこう申し上げておきました。西洋学問には「身体の感覚(部分)」、心のなかにある、「身体機械についての情報」と解される、と。ではここで、そのところを、みなさんに考え合わせていただきましょう。


 するとこうなります。


脳が身体機械に、好物への接近行動をとらせるまえにさせているウォーミングアップがどのようなものであるかを知らせる情報」が、「身体機械」各所から発し、電気信号のかたちで、神経をへて脳に伝達され、そこで「身体の感覚(部分)」に変換されて、快さの「感じ」という分類のなかに入れられるいっぽう、「脳が身体機械に、敵からの逃避行動をとらせるまえにさせているウォーミングアップがどのようなものであるかを知らせる情報」が、「身体機械」各所から発し、電気信号のかたちで、神経をへて脳に伝達され、そこで「身体の感覚(部分)」に変換されて、苦しさの「感じ」という分類のなかに入れられる、といったことに、です。


 しかし、快さや苦しさをこんなふうに解したのでは、何が何だかわからなくなると言うべきではないでしょうか。


第26回←) (第27回) (→第28回

 

 

2018年12月25日に表現を一部修正しました。


以前の記事はこちら。

第1回(まえがき)


第2回(まえがき+このシリーズの目次)


第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)


第4回


第5回


第6回


第7回


第8回(西洋学問では快さや苦しさが何であるかをなぜ理解できないのか確認します。19回③まで)


第9回


第10回


第11回


第12回


第13回


第14回


第15回


第16回


第17回


第18回


第19回


第20回(最後に、西洋学問では快さや苦しさを何と誤解するのか確認します。)


第21回


第22回


第23回


第24回


第25回


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:「絵の存在否定」と「存在の客観化」がそのふたつの不適切な操作に当たります。

絵の存在否定(科学の奇っ怪な出発点)


存在の客観化(科学は存在を別ものにすり替える)

*2:何をもって身体とするかは、当シリーズ第10回で確認しました。

*3:西洋学問のもとで、身体感覚が、「身体機械についての情報」と解される旨と経緯は、当シリーズ第21,22回で確認しました。

現代科学は快さや苦しさを行動にからめて定義する

*科学するほど人間理解から遠ざかる第26回 


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると理解することは、事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」という不適切なふたつの操作をなす西洋学問にはできないとのことでした。


 では、快さや苦しさをどういったものと西洋学問では誤解するのか


 いろんな誤解の仕方があるのでしょうけれども、ここではそのうちから、ふたつだけをみなさんと一緒に見ることにしました。ちょうど先刻、自覚症状が有るとか無いとか言うときにひとが採用している解し方を最初に見終わったところです。


 その解し方では、快さの感じを、心のなかにある、「身体機械が正常であることを知らせる情報」、いっぽう苦しさの感じを、心のなかにある、「身体機械が異常であることを知らせる情報」とそれぞれするとのことでした。ところがそう解すると、快さを感じていることをもって「身体機械」を正常と判定することも、にわかにはできないし、苦しさを感じていることをもって「身体機械」を異常と判定することもまた、にわかにはできないということになって、身体機械が「正常であるか異常であるか」の区分と、「快いか苦しいか」の区分はまったく別のふたつであることになるとのことでした。そして、後者の区分は無視されるに至るとのことでした。


 そもそも、先にすこし触れておきましたように、ひとには異常ということは絶対にありません。そのことからも、快さや苦しさの感じを、「身体機械が正常であるか、もしくは異常であるかを知らせる情報」と定義づけるのは不適切であると断言できる旨、先に進むまえにそっと申し添えておきます。


 さて、西洋学問のうちに俺が見つけることのできた、快さ苦しさについての解釈の残りひとつのほうに話を移します。まえのほうでちらっと、アカデミックな解釈であるとご紹介しました。快さを快情動、苦しさを不快情動とそれぞれ解して定義づけるものです(科学は感情を情動とよびます)。ここでは、理化学研究所脳科学総合研究センターが『脳科学の教科書(こころ編)』(岩波ジュニア新書、2013年)で紹介している説を見ていきます。

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

脳科学の教科書 こころ編 (岩波ジュニア新書)

 


 その説では、快さと苦しさが行動にからめて定義づけられます


 では、最初に行動について考えてみましょう。


 行動については確認済みです。みなさん覚えておいででしょうか(つぎの6つのパラグラフは読み飛ばしていただいてまったく問題ありません)。


 みなさんは生きておられるあいだどの瞬間でも、「今・どう・しようとするか」という問いに身をもってお答えになります。身をもって「今・しようとなさっている」ことが行動に当たるとのことでした。


 いやいや、もっと簡単にこう申し上げるとしましょう。


 みなさんは生きておられるあいだどの瞬間でも、「今を・どういった・出来事の最中とするか」という問いに身をもってお答えになります。行動とは身をもってを出来事の最中とすることであって、身をもって「今」をどういった出来事の最中としているかを言えば、どんな行動をとっているか表現していることになります、と*1


 俺が並木道を大木に向かって歩いている場面をふたたびご想像ください。


 その場面で、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、風、音、俺の「過去体験記憶」、俺の「未来体験予想」等が合わさって、「今」を逐一、大木に歩みゆくという出来事の最中としているのを先に確認しました。まさに「今」を、大木に歩みゆくという出来事の最中とするという行動は、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、風、音、俺の「過去体験記憶」、俺の「未来体験予想」らが合わさってなすものだということでした。


 行動は決して身体だけがなすものではなく、いまご想像いただいている大木に歩みゆくという行動なら、そこに、景色が移り変わっていくことすら含まれるというわけでした。


 しかし西洋学問では行動をそのようなものとは考えません。身体を「身体機械」とする西洋学問では行動を、「身体機械が位置取りを変えること、すなわち「身体機械に起こる物的出来事と考えます。大木に歩みよっているという行動なら、「身体機械」の、道路上に占める位置取りの変化のことと解します。


 で、その瞬間その瞬間、「身体機械がどのような状態にあるかを知らせる情報」が、「身体機械」各所から発し、電気信号のかたちで神経をへて脳に送られ、そこで「身体の感覚(部分)」に変換されて心のなかに認められると考えます。


 現代科学は、このようなものと行動を見ておいてから、この行動もどきにからめて、快さと苦しさを定義づけます


第25回←) (第26回) (→第27回

 

 

このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:行動とは何か、第6回①②で確認しました。

「正常か異常か」と「快いか苦しいか」はまったく別の区分

*科学するほど人間理解から遠ざかる第25回 


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといったように快さや苦しさを理解すること*1は、事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」というふたつの不適切な操作をなす西洋学問にはできないとのことでした。


 では快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか。いろんな誤解の仕方があるのかもしれませんが、ここではそのうちからふたつだけを見ることにしいまそのひとつ目を見ているところです


 それは、自覚症状があるとか無いとか言うときにひとがとる、ひろく世間で採用された解し方であると先に申しました。


 身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物部分」とを合わせたもののことであって、身体のうちに「身体の感覚部分」は含まれますけれども、西洋学問では身体を元素の寄せ集めにすぎないもの(西洋学問では、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないと解します)と考えて機械と見なし(この身体をここでは「身体機械」とよんでいます)、「身体の感覚部分、心のなかにある、「身体機械についての情報とします


 そして、快さの感じを、心のなかにある、「身体機械が正常であることを知らせる情報」、いっぽう苦しさの感じを、心のなかにある、「身体機械が異常であることを知らせる情報」とするというわけでした。


「身体機械」が正常であれば、「身体機械が正常であることを知らせる情報」が、「身体機械」各所から電気信号のかたちで発したあと、神経をつたって脳まで行き、そこで快さの感じに変換されて心のなかに認められるいっぽう、「身体機械」のどこかに異常があれば、「身体機械が異常であることを知らせる情報」が、当の箇所から電気信号のかたちで発したあと、神経をつたい脳まで行って、そこで苦しさの感じに変換されて心のなかに認められるとのことでした。


 ところがこのように解しますと快さや苦しさを一転無視するしか手はなくなります


 どういうことか。例をふたつもちいて考えていきます。


 紙でサクッと切った指が痛むとしましょう。この痛みを、すこし大げさになるかもしれませんが、苦しさとお考えください。みなさんにとって指というのは、言ってみれば、おなじ場所を占めている「指の感覚部分」と「指の物部分」とを合わせたもののことですけれども、西洋学問では、指を元素がただ寄せ集まったにすぎないものと考えます(この指を指機械とよぶことにします)。で、「指の感覚(部分)」を、心のなかにある、「指機械についての情報」と解します。さて、いま見ている快さ苦しさについての解釈でいけば、この指に感じる痛みは、心のなかにある、「指機械が異常であることを知らせる情報」であることになります。その情報は、指機械から発したあと、神経をつたって脳まで伝達され、そこでこうした痛み(苦しみ)に様式を変換されているということになります。


 しかしこうした痛みはものごとに集中していたりすると感じられなくなることしばしばです。集中が切れるとやおら、指がふたたび痛み出すといった具合です。


 いま見ている快さ苦しさについての解釈でいくと、この場合、何かに集中していて指に痛みを感じていないというのは、指機械に、切れているという異常がたしかにあるにもかかわらず、「指機械が異常であることを知らせる情報」が心のなかに認められなくなってしまっているという状態であることになります。


 したがって、現に苦しさ(この例では痛み)を感じていないことをもって、「身体機械に異常がないと断定することはにわかにはできないということになります。


 いっぽう、苦しみを感じているのに病院で検査しても、「身体機械」になんら異常が見つからないとされる場合も多々あります。ほんとうに苦しんでいるのに、不当にも仮病と言われ、つらい思いをしたことがあるひとはすくなくないのではないでしょうか。


 いま見ている快さ苦しさについての解釈でいけば、この場合、苦しみを感じているというのは、「身体機械に異常など実際は実在していないにもかかわらず、心のうちに、「身体機械が異常であることを知らせる情報」が認められてしまっているという状態であることになります。


 したがって、現に苦しさを感じていることをもって、「身体機械に異常があると断定することもまたにわかにはできないということになります。


 快さと苦しさの感じを、心のなかにある、「身体機械が正常であること、もしくは異常であることを知らせる情報」と解しますと、いまごらんいただいたように、快さを感じている(苦しさを感じていない)ことをもって、「身体機械」を正常と判定することもにわかにはできなくなるし、苦しさを感じていることをもって、「身体機械」を異常と判定することもまた、にわかにはできなくなります。結局、「身体機械」が正常であるか異常であるかを判定するのに快さや苦しさの感じは役に立たず、「身体機械そのものだけを見て判定すべきだということになります。結果、「身体機械」が正常であるか異常であるかの区分は、快いか苦しいかの区分とはまったく別のものとして仕上がるに至り、快いか苦しいかの区分は無視されたまま、うち捨てられることになります

第24回←) (第25回) (→第26回

 

 

何が正常とされ、何が異常とされるかについては、下の記事で書きました。「劣っているひとたちの、まさにひとより劣っている点」と医学に見えるものが、異常であることにされるのではないでしょうか。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:このシリーズ第3回から第7回②までで確認しました。

第3回


第4回


第5回


第6回


第7回

伝統的な快さ苦しさの定義

*科学するほど人間理解から遠ざかる第24回 


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであるといったように快さや苦しさを理解することは、事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」というふたつの不適切な操作をなす西洋学問にはできないとのことでした。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか。いろんな誤解の仕方がきっと西洋学問にはあるのでしょうけれども、それらすべてを調査するのは、実力をおもちのみなさんにお任せすることとして、ここではふたつの解し方だけを見ようとしています。


 いまから最初に見るのは、自覚症状という医学用語が口にされるとき採用されている、みなさんにお馴染みのものです。


 伝統的で、広く世間に流布している見方と言えるのではないでしょうか。


 先に、身体について確認を済ませておきました。みなさんにとって身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物部分」とを合わせたもののことです。身体のうちに身体の感覚部分は含まれます


 けれども西洋学問では、身体は元素の集まりでしかないことにされ(西洋学問では「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない」と考えられます)、機械と見なされます(身体機械)。そして「身体の感覚部分、心のなかにある、「身体機械についての情報」と解されるとのことでした。


(身体については下の記事で確認しました)


 いまから見ていくひとつ目の解し方では、「身体の感覚部分」を、心のなかにある、「身体機械についての情報」とするその見方にもとづいて、つぎのように快さと苦しさがそれぞれ定義づけられます。


 西洋学問ではひとを正常なものと異常なものとに二分します。話のいちばんはじめに申しましたように、前者、正常なものを健康とか健常と、後者、異常なものを病気とか障害者とよぶとのことでした。


 ここでは論の展開上、結論だけ申し上げることにしますが、実際のところ、異常なものはこの世に存在し得ません。異常な機械も、異常な気象も、異常なひとも、これまでこの世に存在したこともなければ、これから存在することも絶対にありません。機械も、気象も、ひとも、たったひとつの例外もなくみな正常であると言うよりほかありません。


(異常なひとは存在し得ないということを確認したのは下のシリーズ)


 しかし西洋学問では、医学の名のもと、一部のひとたちを異常と判定してきましたし、これからもそうしつづけるだろうと、どなたも強い確信をもって予測なさるのではないでしょうか。実に西洋学問ではこのように、どのひとのことも正常としか判定できないにもかかわらず、一部のひとたちを、権威の名のもと、不当にも異常と決めつけ差別します。それが差別であるとはおそらく気づかずに、でしょうけれども。


 さて、医学は「身体機械」の状態をこうして正常と異常に二分するのにあわせて、「身体の感覚(部分)」のほうも、快さの感じと苦しさの感じのふたつに分けます。で、「身体の感覚部分」を、心のなかにある、「身体機械についての情報」とする見方にもとづいて、快さの感じを、心のなかにある、「身体機械が正常であることを知らせる情報」と、かたや苦しさの感じを、心のなかにある、「身体機械が異常であることを知らせる情報」とそれぞれします。


身体機械についての情報」が、「身体機械」各所から発したあと、電気信号のかたちで神経をつたって脳まで行き、そこで「身体の感覚(部分)」に変換され、心のなかに認められるといった情報伝達なるものを西洋学問では考えると何度も申し上げてきましたが、「身体機械についての情報」には「身体機械が正常であることを知らせる情報」と「身体機械が異常であることを知らせる情報」のふたつがあって、「身体機械」の状態が正常であれば、前者の「身体機械が正常であることを知らせる情報」が電気信号のかたちで「身体機械」各所から出たあと、神経をつたって脳に行き、そこで、快さとよばれる「身体の感覚(部分)」に変換されて心のなかに認められるいっぽう、「身体機械」のどこかが異常であれば、当の箇所から出た「身体機械が異常であることを知らせる情報」が、電気信号のかたちで神経をつたって脳に行き、そこで苦しさとよばれる「身体の感覚(部分)」に変換されて心のなかに認められる、と解するといった次第です。


 どうでしょう。自覚症状という医学用語を自家薬籠中の物としているひとには、いま俺が言っていることがビシビシ響くのではないかとみなさん、お感じになりませんか。


 自覚症状があるとひとが言うとき、そのひと言で、「身体機械某所が異常であることを知らせる情報(心のなかに)認めているといった意味合いのことを言おうとし、自覚症状がないと言うときには、「身体機械」某所が異常であるにもかかわらず、「身体機械某所が異常であることを知らせる情報(心のなかに)認められていないといったようなことを言おうとしているのではないでしょうか。


 以上、快さの感じを、心のなかにある、「身体機械が正常であることを知らせる情報」、苦しさの感じを、心のなかにある、「身体機械が異常であることを知らせる情報」とそれぞれする、西洋学問の解し方を最初に確認しました。


第23回←) (第24回) (→第25回

 

 

以前の記事はこちら。

第1回(まえがき)


第2回(まえがき+このシリーズの目次)


第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)


第4回


第5回


第6回


第7回


第8回(西洋学問では快さや苦しさが何であるかをなぜ理解できないのか確認します。19回③まで)


第9回


第10回


第11回


第12回


第13回


第14回


第15回


第16回


第17回


第18回


第19回


第20回(最後に、西洋学問では快さや苦しさを何と誤解するのか確認します。)


第21回


第22回


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

西洋学問に見られる、快さ苦しさについての定義3つ

*科学するほど人間理解から遠ざかる第23回 


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということですけれども、西洋学問では、事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」というふたつの不適切な操作を立てつづけになすことによって、快さと苦しさをそうしたものと理解する道をみずから閉ざしてしまうとのことでした。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではいったいどういったものと誤解するのか。それを最後に見ようとしているところです。


 ちょうど先刻、西洋学問では「身体の感覚部分」を、心のなかにある、「身体機械についての情報」と解する旨、確認しました。


 みなさんにとって身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物部分」とを合わせたもののことであって、「身体の感覚部分」は身体のうちに含まれますけれども、西洋学問では身体は元素(見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないと西洋学問では考えらます)の集まりでしかないもの身体機械)と考えられ、「身体の感覚部分、心のなかにある、「身体機械についての情報と解されるというわけでした。


 現代科学では、「身体機械について情報、「身体機械」各所から、電気信号のかたちで、神経をへて脳に送られ、そこで感覚に様式を変換されたのが、痛いとか熱いとか冷たいとかカユイといった「身体の感覚(部分)」であるといったふうに説明されます。参考程度に脳科学者のつぎの文章をご一読ください。

「触れている」、「痛い」、「熱い」、「冷たい」、「かゆい」など、ふだん私たちが皮膚で感じているすべての感覚をまとめて、「体性感覚」と言います。アリストテレスは「触覚」と言っていましたが、将来、脳科学者を目指すみなさんは「体性感覚」という用語を使いましょう。


 皮膚の下の真皮には「マイスナー小体」や「パチーニ小体」と呼ばれる感覚器があります。圧力や振動などの機械的な刺激(いわゆる触覚刺激)はそこで受容され、感覚神経に伝えられます。皮膚の下には、そのほかにも「自由神経終末」が存在し、「熱い」「冷たい」を感じる「温度センサー」や「痛い」「かゆい」などを感じるための「化学センサー」として働く、イオンチャンネルや受容体などの分子装置が存在しています。


 また、私たちが普段はあまり意識をせずに使っている体性感覚として、深部知覚(あるいは固有感覚)があります。それは関節・筋・腱に存在する特殊な受容器が機械的刺激を受け取り、手や足など身体の各部分の位置や運動の状態、加わる抵抗や重量などを知覚する働きを担っています。(略)違ったモダリティ〔引用者注:視覚、聴覚、嗅覚、味覚はモダリティが違っていると表現されるものと思われます〕の刺激情報は、基本的に異なった神経繊維を通って、「脊髄」、「視床」を経て、大脳皮質の体性感覚野へと伝えられていきます(理化学研究所脳科学総合研究センター編『脳科学の教科書(神経編)』岩波ジュニア新書、pp.114-115、2011年、ゴシックは引用者による)。

脳科学の教科書 神経編 (岩波ジュニア新書)

脳科学の教科書 神経編 (岩波ジュニア新書)

 


 西洋学問では、現実に反して身体を「身体機械」とし、「身体の感覚部分」を、心のなかにある、「身体機械についての情報」とするこうした見方にもとづいて、快さや苦しさを定義づけます


 俺が西洋学問のうちに見かけた、快さ苦しさについての定義は計3つで、ひとつはプラトンによるもの、ひとつは広く世間に流布されたデカルト流のもの、もうひとつは現代脳科者のものですけれども、寡聞な俺のことです、定義はもっと他にもたんまりあるのに、それら3つにしか気づいていないというところではないでしょうか。ですが、みなさん、そうした定義すべてを網羅することは、俺なんかにはお求めにならず、豊富な知識と、調査を着実に遂行しきる能力とをお持ちのみなさんご自身にご依頼ください。きっと、みなさんのご期待を裏切らないご回答を手になさることがおできになるはずです。


 モチはモチ屋、俺はただのド素人。背伸びすることなく、自分にできるおおざっぱなおしゃべりに今後も邁進してゆく所存です。


 以後、順につぎのふたつの定義を見ていきます。

  1. 広く世間に流布している、デカルト流の快さ苦しさについての定義
  2. 現代科学者による、アカデミックな快さ苦しさについての定義


 前記、プラトンによる定義は各位、『ピレボス』にてお楽しみください。

ピレボス (西洋古典叢書)

ピレボス (西洋古典叢書)

 


 前記1は、自覚症状が有るとか無いとか言われるときに採用されている定義で、前記2は、快さを快情動、苦しさを不快情動と見てなす定義です。


 順に見ていきます。


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西洋学問が身体感覚を「身体機械についての情報」とする理由

*科学するほど人間理解から遠ざかる第22回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しんでいるというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということですけれども、西洋学問では、事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」というふたつの不適切な操作を立てつづけになすことによって、快さや苦しさが何であるか理解する道をみずから閉ざしてしまうとのことでした。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか。それをいま、この文章を閉じるまえに見ようとしているところです。


 西洋学問では、「絵の存在否定」と「存在の客観化」という不適切な操作をなし、

  • Ⅰ.俺が現に目の当たりにする物の姿、現に聞く音、現に嗅ぐ匂い、現に味わう味、現に感じる「身体の感覚(部分)」など、俺が体験するもの一切を俺の心のなかにある像であることにし
  • Ⅱ.俺の心の外には、ただ「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素だけが実在する


 ということにします。


 そうして身体をただの元素の集まりにすぎないものと解して機械(身体機械)と見、「身体の感覚(部分)」、心のなかにある、「身体機械についての情報」とするとのことでした。


 こうした「身体の感覚(部分)」の解し方をもうすこし詳しく見てみます。


 俺が自分の目のまえに左手をかざしているある一瞬をお考えください。身体とはみなさんにとって、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分身体の物部分」とを合わせたもののことであるとずっとまえのほう*1で確認しました。みなさんにとって左手とは、言ってみれば、おなじ場所を占めている「左手の感覚部分左手の物部分」とを合わせたもののことと申せます。


 この例の瞬間に俺が目の当たりにしている自分の「左手の物部分」の姿は、俺の眼前数十センチメートルのところにあります。また、そのとき俺の「左手の感覚部分」もそれとおなじ場所を占めています。


 ところが、ちょうど先ほど見ましたように、西洋学問では、

  • Ⅰ.俺が体験するもの一切を、俺の心のなかにある像であることにし、
  • Ⅱ.俺の心の外には、ただ元素しか実在しない


 ということにします。そんな西洋学問の手にかかると、俺がこのときに目の当たりにしている自分の「左手の物部分の姿と、そのときの俺の「左手の感覚部分とは共に、俺の眼前数十センチメトールのところにあるものではなく、俺の心のなかにある映像と感覚であることになります。そして、俺の眼前数十センチメートルのその場所には、単なる元素*2の集まりでしかない左手が実在していることになります。


 左手には「左手の感覚部分」が含まれないことになります。


 科学が左手と考えるこの元素の集まりでしかないものを、左手機械とよぶことにしましょう。


「この左手機械についての情報」が、「左手機械」の各所から、電気信号のかたちで神経を伝って脳にいき、そこで映像と感覚に変換されて心のなかに認められたのが、その瞬間に俺が現に目の当たりにしている「左手の物部分」の姿と、その瞬間の俺の「左手の感覚部分」であると西洋学問では考えるわけです。このように西洋学問では、「左手の感覚部分、心のなかにある「左手機械についての情報」であることにします。


 西洋学問では、左手を「左手機械」、いっぽう「左手の感覚部分」を心のなかにある、「左手機械についての情報」とするこの要領で、

  • A.身体を「身体機械」とし、
  • B.「身体の感覚部分、心のなかにある、「身体機械についての情報」であることにする


 といった次第です。


 西洋学問では、こうした身体の見方にもとづいて、快さや苦しさを定義づけます。


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*1:第10回のことです。

*2:見ることも触れることもできず、音も匂いも味もしないものと西洋学問では考えられます。