(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

西洋学問では身体感覚は「身体機械についての情報」とされる

*科学するほど人間理解から遠ざかる第21回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しんでいるというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということですけれども、「絵の存在否定という不適切な操作をなす西洋学問では、存在を事実に反して、無反応で在るもの(客観的なもの)と定義づけることによって、快さや苦しさが何であるか理解する道をみずから閉ざしてしまうとのことでした。


 では、快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか。それをいま、この文章を閉じるまえに見ようとしています。


 そのために、並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を俺が見ているある一瞬をふたたびみなさんにご想像いただき、復習するところからはじめました。


 西洋学問では、「絵の存在否定」と「存在の客観化」という不適切な操作を立てつづけになし、

  • Ⅰ.俺が現に目の当たりにしている大木の姿を、俺の前方数十メートルのところにあるものではなく、俺の心のなかにある映像であることにし
  • Ⅱ.その代わりに、俺の前方数十メトールのその場所には、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まりでしかないホンモノの大木が実在している


 ということにします。


 そうして、俺が現に目の当たりにしている大木の姿を、俺の心のなかにある、「ホンモノの大木についての情報」であるとするとのことでした。


 西洋学問ではこの要領で、

  • Ⅰ.俺が現に目の当たりにする物の姿をはじめ、俺が聞く音、嗅ぐ匂い、味わう味、感じる「身体の感覚(部分)」など、俺が体験するもの一切を、俺の心のなかにある像にすぎないことにし、
  • Ⅱ.その代わりに俺の心の外には元素だけが実在する


 ということにします。


 で、音なら、現にみなさんが耳になさるあの音ではなく、空気の震動(元素の運動)のことであるとし、匂いなら、ふだんみなさんがお嗅ぎになるあの臭かったり香しかったりするあの匂いではなく、匂い分子(元素の組み合わさったもの)のことと、また味なら、みなさんが舌ヅツミをお打ちになるあの味ではなく、味物質(同上)のこととしたうえで、現にみなさんがお聞きになる音のほうを、みなさんの心のなかにある、「空気の振動についての情報」、現にみなさんがお嗅ぎになる匂いを、みなさんの心のなかにある、「匂い分子についての情報」、現にみなさんが味わわれる味を、みなさんの心のなかにある、「味物質についての情報」、であることにそれぞれします。


 同様にして俺の身体についても、元素がよせ集まったにすぎないものと解して機械と見なし(身体がそうしてしばしば「身体機械」とよばれると申し上げるのはこれがはじめてでしょうか)、俺が現に感じている「身体の感覚(部分)」、俺の心のなかにある、「俺の身体機械についての情報」であることにします*1

脳科学の教科書 神経編 (岩波ジュニア新書)

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 こうした「身体の感覚(部分)」についての解し方をこれから詳しく見ていきます。


第20回←) (第21回) (→第22回

 

 

以前の記事はこちら。

第1回(まえがき)


第2回(まえがき+このシリーズの目次)


第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)


第4回


第5回


第6回


第7回


第8回(西洋学問では快さや苦しさが何であるかをなぜ理解できないのか確認します。19回③まで)


第9回


第10回


第11回


第12回


第13回


第14回


第15回


第16回


第17回


第18回


第19回


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:みなさんが何をもって身体とするか、下の回で確認しました。

西洋学問では快さや苦しさをどう誤解するか

*科学するほど人間理解から遠ざかる第20回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しんでいるというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると最初にいきなり申し上げたあと、つぎのような流れでここまでおしゃべりしてきました。

第1部.快さと苦しさがそうしたものであることを補足解説する*1

第2部.西洋学問では、なぜ快さ苦しさが何であるか理解されてこなかったのか確認する*2


 最後に、西洋学問では、快さや苦しさがどういったものと誤解されるのかを見て、この文章を閉じることにします。


 みなさん、並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を俺が見ているある一瞬をふたたびご想像くださいますか。


 何度も申しますように、その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿は、俺の前方数十メートルのところにあります。大木がその瞬間、俺に見えているというのはすなわち、たがいに数十メートル離れたところにある大木の姿と、俺の身体とがそのとき、「俺のしている体験(大木を見ているという体験)に共に参加している」ということだと言えます。


 ところが西洋学問ではここで「絵の存在否定」という不適切な操作*3をなすというわけでした。その操作はこの場合、つぎのふたつからはじまると先に申しました。

  1. そのとき大木と俺の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。
  2. しかし大木と俺の身体とを、「俺のしている体験に共に参加している」ことのないもの同士であると考える(部分であることの否認)。


 するとどうなったか、覚えていらっしゃいますか。


「大木を見ているという俺の体験」は存在していないことになって、俺にはそのとき大木が見えていないことになり、見えていない大木と俺の身体とがたがいに離れた場所にただバラバラにあるだけ、ということになりました。


 けれども実際、その瞬間、俺には大木が見えています。


 そこで西洋学問では、そのとき俺に大木が見えていないということにするため、意識とか心とかコギトとかとよばれるケッタイなものをもちだしてきます。そしてその瞬間に俺が現に目の当たりしている大木の姿(ほんとうは俺の前方数十メートルのところにある)俺の心のなかにある映像にすぎないことにします、とは、先にも申しましたとおりです。


 で、俺の前方数十メートルの場所にはその代わりに、見ることの叶わないホンモノの大木が実在していることにし、それを、ただ無応答で在るだけのもの(客観的なもの)と決めつけるとのことでした(この存在のすり替え作業を「存在の客観化」と名づけたのを覚えてくださっているでしょうか*4)。


 このようにただ無応答で在るだけのものと想定されたホンモノの大木とはどのようなものか、ここでは簡単に結論だけを申しますと、それは元素(西洋学問では、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないものと考えられます)の集まりでしかないもの、です。


 事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」という不適切な操作を立てつづけになす西洋学問ではこのように、

  • Ⅰ.俺が現に目の当たりしている大木の姿を、俺の心のなかにある映像であることにし
  • Ⅱ.俺の前方数十メートルの場所にはその代わりに、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素」の集まりでしかないホンモノの大木が実在していることに


 します。そのホンモノの大木についての情報が、当の大木から、光にのって眼にやってきて電気信号にかたちを換え、以後、神経をつたい脳まで行って、そこで映像に変換され心のなかに認められたのが、そのとき現に俺が目の当たりにしている大木の姿である。そう説くのが西洋学問の知覚論です。

脳科学の教科書 神経編 (岩波ジュニア新書)

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 いま、西洋学問では、俺が現に目の当たりにしている大木の姿が、俺の心のなかにある、「ホンモノの大木*5についての情報」と解される旨、確認しました。以上を踏まえて、快さや苦しさが西洋学問では何と誤解されるのか、見ていきます。


第19回①←) (第20回) (→第21回

 

 

このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:第3回から第7回②まで。

第3回


第4回


第5回


第6回


第7回

*2:第8回から第19回③まで。

第8回


第9回


第10回


第11回


第12回


第13回


第14回


第15回


第16回


第17回


第18回


第19回

*3:これまでしつッこく何度も何度もくり返し「絵の存在否定」という科学の奇っ怪な出発点について書いてきました。

*4:科学が「絵の存在否定」という不適切な操作にひきづづいて為す「存在の客観化」という作業についても、繰り返し書いてきました。

*5:心の外に実在していると考えられる、元素の集まりにすぎないもの。

西洋学問に人間が理解できなくなった瞬間③

*科学するほど人間理解から遠ざかる第19回


 以上、物を見るということについて確認しなおす、いわゆる〈出発点〉で、西洋学問が「絵の存在否定」という不適切な操作をどのようになすか、例をもちいて見てきました。


 結果、こういうことにするとのことでした。

  • 俺が現に目の当たりにしている物の姿(もちいた例では、大木の姿)を、俺の心のなかにある映像であることにする。
  • .その代わりに、俺の前方にある物を、ただ無応答で在るだけの、見えることのないものであることにする。


 西洋学問ではこの要領で、俺が現に聞いているスタジアムの歓声(音)も、俺が現に嗅いでいるコーヒーの匂いも、俺が現に味わっているチョコレートの味も、何もかも、俺が体験しているものはみな俺の心のなかにある像にすぎないということにします。物も、音も、匂いも、味も、存在するものはすべてただただ無応答に在るだけで、見ることも触れることも聞くことも嗅ぐことも味わうこともできない、ということにします。


 先に、快さ苦しさが何であるかを俺が理解するに至った道筋をみなさんと一緒にたどっているさい*1いわゆる〈第2地点〉で、存在同士が、応答し合いながら共に在ることを確認しましたけれども、「絵の存在否定」という不適切な操作をなす西洋学問のもとでは、いま確認しましたように、存在同士は一転お互いに無応答であることにされます*2


 西洋学問ではいわゆる〈第2地点〉を通過できないことがいま、確認されました。


 これでは、〈第3地点〉以後には進めず、快さ苦しさが何であるかを理解する〈第5地点〉にはたどり着けないと言うべきではないでしょうか。


 西洋学問ではこれまで、快さ苦しさが何であるかは理解されてきませんでした。これからも理解されることはないものと思われます。


第19回②←) (第19回③) (→第20回

 

 

後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

  • 変更前:07:00
  • 変更後:07:10


ひとつまえの記事(②)はこちら。


今回の最初の記事(①)はこちら。


前回(第18回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

whatisgoing-on.hateblo.jp

 

*1:その道筋は箇条書きで書けばこういったものになるとのことでした。

出発点.物を見るとはどういうことか確認しなおす。

第2地点.存在同士が、応答し合いながら共に在ることを確認する。

第3地点.存在同士が、応答し合いながら共に在るというのは、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるということであると確認する(問いの読み替え1)。

第4地点.さらにそれが、「今どうしようとするか」という問いに俺が身をもって答えることであるのを確認する(問いの読み替え2)。

第5地点.「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」のを快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」のを苦しさを感じていると言うのだと理解する。

*2:存在をこうした別ものにすり替える作業を、「存在の客観化」と俺はよんでいます。近代哲学の祖で、科学が歩みゆく道を切り開き、整備したデカルトが、この「存在の客観化」を著書でくわしく披瀝しています。

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

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ちなみに、その模様については以下のシリーズで書きました。

西洋学問に人間が理解できなくなった瞬間②

*科学するほど人間理解から遠ざかる第19回


 さて、「絵の存在否定」という不適切な操作をなした結果、大木が俺に見えていないことになるのをいま確認しました。俺がその瞬間に目を閉じていようが、開けていようが、はたまたサングラスをかけていようが、大木に背を向けていようが、あるいは大木のほうを向いていようが、大木は見えないままで、何ら変わらない、ということになりました。


 西洋学問ではここで一気に大木を、ただ無応答で在るだけのもの(客観的なもの)と決めつけます。


 すなわち、大木を、そのとき俺が目を閉じていようが、開けていようが、サングラスをかけていようが、大木に背を向けていようが、大木のほうを向いていようが、「何ら変わることのないもの」と考えるにとどまらず、そのとき俺が遠く離れたところから眺めていようとも、至近距離から見ていようとも、太陽が雲間にかくれていようとも、雲間から太陽が顔を覗かせていようとも、「何ら変わることはないもの」とまで決めつけるというわけです。


 しかし先ほどからみなさん、つぎのようにおっしゃりたくてウズウズしておられたのではないでしょうか。


「でも、その瞬間、お前さんに大木が見えていないことになると言ったって、現にお前さん、そのとき大木の姿を目の当たりにしているじゃないか」と。


 西洋学問はそうしたまっとうな指摘にこう対処します。


 まず、その瞬間、俺に大木が見えていないということにするために、意識とか精神とか心とかコギトとかとよばれるもの(ほんとうはこの世にそんなものは存在しませんが)を説明にもちだしてきます。そして、その瞬間に俺が現に目の当たりにしている大木の姿(ほんとうは俺の前方数十メートルのところにあります)俺の心のなかにある映像にすぎないことにし、俺の前方数十メートルの場所には代わりに、ちょうどいま申し上げました、見ることのできない、ただ無応答で在るだけの大木が実在しているということにします。

省察 (ちくま学芸文庫)

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哲学 原典資料集

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第19回①←) (第19回②) (→第19回③

 

 

後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

  • 変更前:07:00
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ひとつまえの記事(①)はこちら。


前回(第18回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

西洋学問に人間が理解できなくなった瞬間①

*科学するほど人間理解から遠ざかる第19回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところ(いわゆる〈出発点〉から、長い時間をかけてたどってきました*1


 西洋学問では、そのいわゆる〈出発点〉でつまずいたばっかりに、以後、快さや苦しさが何であるかが理解できなくなったということを、これから確認します。


 いわゆるその〈出発点〉で、物を見るということについて俺がどう確認しなおしたか、みなさん、いますぐご想起になれますか。並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を俺が見ているある一瞬をみなさんにご想像いただきながら、その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿と、その瞬間の俺の身体について、それぞれどのようにあるかをまず確認しました。で、そのあと、たがいに数十メートル離れたところにある、それら大木の姿と、俺の身体とがそのとき、俺のしている体験(大木を見ているという体験)に共に参加しているのを確認しました。すなわち、それらふたつは、そのとき共に、俺のしている体験の部分であるということでした。


 そのさい、みなさん、そんなごくごく当たりまえのことをわざわざ確認してどうなるのか、と怪訝にお思いになったのではなかったでしょうか*2


 どうでしょう、思い出してごらんになれましたか。


 ところが西洋学問では、その〈出発点〉で、ある不適切な操作をしでかします。その操作を、かつて俺が勝手につけた、絵の存在否定という名で以後呼ぶことをお許しください。


 その「絵の存在否定」という不適切な操作はいまの場合、つぎのふたつをするところからはじまります。俺が大木を目の当たりにしているその瞬間、

  • .大木と俺の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。
  • .しかし、たがいに数十メートル離れたところにある、それら大木と俺の身体とを、「俺のしている体験に共に参加している」ことはないもの同士と考える。すなわち、大木を、俺のしている体験の部分であるとは認めない(部分であることを否認)。


 するとどうなるか。


 その瞬間、「大木を見ているという俺の体験は存在していないことになります。俺にはそのとき大木は見えていないことになります。見えていない大木と俺の身体とが、たがいに離れた場所にただバラバラにあるだけということになります(3.絵が存在していないことになる)。


「俺のしている体験に共に参加している」ことのないもの同士であると解された、大木と俺の身体なんかをどう足し合わせても、「大木を見ているという俺の体験」は出てきません。


第18回←) (第19回①) (→第19回②

 

 

このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:その道筋は、箇条書きで書けばこういったものでした。参考程度に挙げておきます。

  • 出発点.物を見るとはどういうことか確認しなおす。
  • 第2地点.存在同士が、応答し合いながら共に在ることを確認する。
  • 第3地点.存在同士が、応答し合いながら共に在るというのは、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるということであると確認する(問いの読み替え1)。
  • 第4地点.さらにそれが、「今どうしようとするか」という問いに俺が身をもって答えることであるのを確認する(問いの読み替え2)。
  • 第5地点.「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」のを快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」のを苦しさを感じていると言うのだと理解する。

    *2:第11回 

西洋学問では、快さや苦しさが何であるか理解できない

*科学するほど人間理解から遠ざかる第18回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点からたどってきました。


 その道筋を簡単にふり返ってみます。

  • 出発点.物を見るとはどういうことか確認しなおす。
  • 第2地点.存在同士が、応答し合いながら共に在るのを確認する。
  • 第3地点.存在同士が、「応答し合いながら共に在る」というのは、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるということであると確認する(問いの読み替え1)。
  • 第4地点.さらにそれが、「今どうしようとするか」という問いに俺が身をもって答えることであるのを確認する(問いの読み替え2)。
  • 第5地点.「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」のを快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」のを苦しさを感じていると言うのだと理解する。


 快さと苦しさをこのように俺が理解するに至った昔話に、みなさん、ここまで長らくつきあわされてこられました。


 なぜそんな酷い目につきあわされてこられたのか。


 これまで西洋学問では快さや苦しさが何であるか理解されてこなかったその理由を明らかにするためでした。


 いまやみなさんはきっとこうお考えのことでしょう。


 もし筆者(俺のこと)のこうした昔話がそれなりに信頼するに足りるものなら、西洋学問では前記の〈出発点〉、もしくは〈第2地点〉のどちらかの確認でヘマをしでかし、その結果、〈第5地点〉にたどりつけなくなった、ということになるんじゃないか、と。


〈第2地点〉から〈第5地点〉まではエスカレーター式で、〈第2地点〉の確認を済ませば、あとは自動的に〈第5地点〉まで行けます。だとすれば、〈出発点〉か〈第2地点〉の確認で躓いたことになります。


 どうでしょう、みなさん、図星でしょうか。


 もしそうご推測なら、俺はみなさんと考えがおなじだと胸を張れますが、いかがでしょう。


 西洋学問では、物を見るということについて確認する最初の段階でいきなり躓き、快さや苦しさが何であるか理解するところまで以後たどり着けなくなったというのが、俺の見立てです。


 これから、その躓きを見ていきます。


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以前の記事はこちら。

第1回(まえがき)


第2回(まえがき+このシリーズの目次)


第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)


第4回


第5回


第6回


第7回


第8回(西洋学問で快さと苦しさが何であるか理解できてこなかった理由を確認します。第19回③まで)


第9回


第10回


第11回


第12回


第13回


第14回


第15回


第16回


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快さや苦しさが何であるか理解できたとき

*科学するほど人間理解から遠ざかる第17回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋をその道の出発点からたどっています


 俺が並木道を大木めざし歩いているといった場面をここまでみなさんにご想像いただいてきました。そうして歩いているあいだ(だけには限られませんが)、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、音、俺の「過去体験記憶」、俺の「未来体験予想」等が、「応答し合いながら共に在る」のをご確認いただきました。


 では最後に、それら大木等が「応答し合いながら共に在る」というこのことが何を意味しているのか、見ていきます。


 みなさん、覚えていらっしゃるでしょうか。快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると冒頭で補足確認するとき、いきなりみなさんにこうお尋ねしました。


 ご自身のいまこの瞬間もくしは過去の任意の一瞬の状態をご教示くださいと俺がお願いしますと、みなさんどうお答えくださいますか、と*1


 おそらくみなさんどなたもそのぶしつけなお願いに、会話中であるとか食事中だったといったように、「〜いった言い方をもちいてお答えくださるか、さもなくば、会話をしているとか食事をしていたといったように、「〜している/していたいった文末表現をもちいてお答えくださるのではないか、とのことでした。


 このように「〜中」とか「〜している/していた」といった表現をもちいてお答えくださるというのは、生きておられるうちのどの瞬間をとってもみなさんは出来事の最中におられるということであって、言ってみれば、みなさんは生きておられるあいだ、どの瞬間でも、「今をどういった出来事の最中とするかという問いに身をもってお答えであるということだ(言い換えれば、身をもってを出来事の最中としておいでであるということだ)とそのさい申し上げました(「今」というひと言で「今という一瞬」を表現しています)。


 過去をふり返ることによっていま重要なことがひとつ明らかになりました。


 大木めざして俺が並木道を歩いているあいだ(だけには限られませんが)、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、音、俺の「過去体験記憶」、俺の「未来体験予想」等が、「応答し合いながら共に在るというのはそれら大木等にとってはまさに、一丸となって、「今をどういった出来事の最中とするかという問いに答えるということである(一丸となって、「今」を出来事の最中とすることである)、といま明らかになりました。


「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに大木等が一丸となって答えるというこのことは、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えることと言い換えられます。


 さて、ずっとまえのところで確認しておきました。「今を・どういった・出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるというこのことは、「今・どう・しようとするか」という問いに俺が身をもって答えることとさらに言い換えられます。


 したがって、大木等が、「応答し合いながら共に在る」というのは、「今を・どういった・出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるということであり、ひいては、「今・どう・しようとするか」という問いに俺が身をもって答えることであると申せます。


 さあ、ここでつぎのことを再確認します。

1.みなさんは、生きておられるあいだどの瞬間でも、「今・どう・しようとするか」という問いに身をもってお答えになる。

2.「今・しようとしている」ことが、行動とか行為とか運動とかとよばれるものである(「今・なにを・しようとしているか」を言えば、どういった行動をとっているか表現していることになる)。

3.そのように答えているときに、「今どうしようとするか、かなりはっきりしてい」れば、快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていな」ければ、苦しさを感じていると表現する*2


 以上、俺が、物を見るということについて確認しなおすところからはじめ、快さ苦しさが何であるかを理解するに至った道筋をご確認いただきました。


 西洋学問では、この道のどこで足を踏みはずし、その結果、快さや苦しさが何であるかを理解できなくなったのか、つぎに見ていきます。


第16回①←) (第17回) (→第18回

 

 

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*1:第4回

*2:「今どうしようとするか」という問いがかなり解決していれば、快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか」という問いがあまり解決していなければ、苦しさを感じていると表現するといった言い方もまえのほうでしました。