(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学の奇っ怪な出発点は「部分」の否認にあり①

 2018年に入ってから、「2018年一斉書き直しシリーズ」と銘打って、第1弾と第2弾をお送りしてきた。


 シリーズ第1弾は「科学の出発点をナミダナミダで語り直す*1」と題して、またシリーズ第2弾は「科学が存在を別ものにすり替えるのをモノカゲから見なおす*2」と題して。


 それらで語り直したのは、科学が事のはじめに立てつづけになす、俺がつぎのように名づけた不適切な操作だった。

  1. 絵の存在否定
  2. 存在の客観化


 今回はこのふたつの操作を素描してみようと思う*3


 まず、このふたつをそれぞれ簡単にみなさんにご紹介するなら、こうなるか*4


 いまみなさんは目のまえに何をごらんだろう。パソコンもしくはスマホの画面ではないだろうか。その画面の姿はいまこの瞬間、みなさんの目のまえ数十センチメートルのところにあるけれども、画面のその姿を、みなさんの心(頭)のなかにある映像にすぎないことにするのが、前記1「絵の存在否定」という不適切な操作である。


 この操作の結果、みなさんがごらんになるもの、お聞きになるもの、お嗅ぎになるもの、味わわれるもの、お感じになるもの一切は、みなさんの心のなかにある像にすぎないことになる


 いっぽう、そのパソコンもしくはスマホの画面の姿は、みなさんがお顔を遠ざけられるにつれ、刻一刻と小さく、かつ、ぼんやりしていく。みなさんがサングラスをおかけになれば黒っぽくなるし、目をおつむりになれば、「見えないありよう」とでも言うべき姿に変わる。このように画面はみなさんの身体がどこにどのようにあるかによって、ありようを変えるが、そうした事実に反して、その画面を、みなさんがどこにいらっしゃってどこをお向きになり、どのようになさっていようとも、何ら変わることのないもの(客観的なもの)であることにするのが、前記2「存在の客観化」という操作である。


 この操作の結果、この世に実在するのは、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素だけということになる

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

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省察 (ちくま学芸文庫)

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方法序説 (岩波文庫)

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このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年第1作

*2:2018年第3作

*3:2019年11月8日にこの一文を追加しました。

*4:2019年11月8日にこの文章を一部修正しました。

科学の身体説明からぬけおちる、金銭より大事なもの

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第18回


 さて、みなさんにお別れ申し上げる頃合いとなった。


 僕は酒臭い息をはきながら、実に長々とおしゃべりしてきた。みなさん、僕の拙い表現を適宜、ご自分流に補ったりなさりながら、ここまでガマン強くお話をお聞きくださってきて、もう疲労困憊でいらっしゃることだろう。


 かく申す僕も、もはやワンカップ大関のことしか考えられないようになっている。「長いあいだお付き合いくださり、感謝の念でいっぱいである、ぜひまたどこかでお目にかかりたい」との言葉がいまにも口からポロリとこぼれ落ちそうなのを、かなりまえからグッとこらえてきた。


 ああしみじみと思い返される。


 事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学は、それに引きつづいて、「存在の客観化をやるとのことだった。それは、柿の木を、音を、匂いを、味を、身体を、別ものにすり替える作業だった。すなわち存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものから、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)にすり替える作業だった。


 で、そのすり替え作業の果て、この世には、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素しか実在しないことになる、ということだった。


 そうそう、最後には、この無神経きわまりない僕がみなさんの胸中を推し量るようにすらなっていたものである。存在(と関係)をこうした別ものにすり替えてから研究する科学の方法にはもともと限界があって、物理学や化学の範囲では有効でも、身体(生き物)には通用しないということがあるんじゃないかとの暗い懸念が、みなさんの胸のなかいっぱいに広がっているんじゃないだろうかって。


 さあ、そろそろ僕もここいらでつぎのひと言を、みなさんへのお暇乞いの言葉とすり替えさせていただくこととしよう。


 科学は「存在の客観化」という作業をやって、身体をも、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とを合わせたものから、「身体機械」にすり替える。だけど身体をそんなふうに「身体機械」にすり替えてしまうと、快さや苦しさがいったい何であるか理解できなくなるのではないかと思われる。快さや苦しさについて不適切な理論を説いて、快さや苦しさの理解に失敗しつづけることになるんじゃないだろうか、と(行動や感情も理解できなくなるだろうが)。


 しかもこの快さや苦しさというのが、理解できなくてもかまわないようなツマラナイものでは決してないと来ている。実際、みなさんは、大金を積んででも、快さを手に入れようとか苦しさを避けようとかなさるほど、快さをいっつも大事にしておいでである。


 そうじゃない?


 みなさんが初詣でおサイセン箱に札束をお投げ入れになりながら、改まった気持ちで「健康でいられますように」とか「健康になりますように」と祈念なさるというのは、いったい何を願っておられるということ?


 それはおおざっぱに言えば、「苦しまないでいられますように」とか「苦しまないでいられるようになりますように」とそれぞれお望みであるということなんじゃない?


 みなさんにとってご健康とは、苦しくない状態がつづくこと、ご病気とは苦しい状態が引きつづくことなんじゃない?


 みなさんは医療に、苦しまないでいられるようになる手助けをすることをお求めになるんじゃないだろうか?


 じゃあ、快さや苦しさが何であるか科学が理解できないとすれば、そんなのは大したことじゃないなどとおっしゃってお済ませになることはちょっとおできにならないんじゃないか、と僕なんかはご推測するが・・・・・・


 2018年後半は、快さや苦しさが何であるか確認しようと考えている*1*2

(了)


前回(第17回)の記事はこちら。


それ以前の記事はこちら。

第1回


第2回


第3回


第4回


第5回


第6回


第7回


第8回


第9回


第10回


第11回


第12回


第13回


第14回


第15回


第16回


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。

*2:2018年第5作

続・科学は万能か?②

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第17回


 ながらく心は、非物質と考えられてきたけど、現代科学はもはや心とは脳(の物質的活動)のことだと考える。それに合わせて「身体の感覚部分」のことも非物質ではなく、物質的活動であるとする。「身体機械」各所についての情報が、当の場所から電気信号のかたちで神経をつたい、脳にやってくるという物質的活動のことであると、「身体の感覚部分」を考える。で、身体(身体機械)に起こるいろんな物質的出来事を、そうした電気信号の伝達に関連づけて説明すれば、その物質的出来事が「身体の感覚部分の関与のもとどのように起こっているか明らかにしたことになる、とするというわけである。


 しかも、「身体の感覚部分」はやっぱり感覚であって、そうした電気的興奮の連鎖のことではないと僕が抗議しても、現代科学はつぎのように主張する。


 仮に「身体の感覚部分」が電気的興奮の連鎖のことではないとしても、「身体の感覚部分」がどんな感じかということと、そうした電気信号の伝達のありかたとは内容的に一対一の対応を示していて、電気信号の伝達がどんなものかわかりさえすれば、「身体の感覚部分」がどんな感じのものかもすぐわかる。結局、その電気信号の伝達さえ説明のなかに入れておけば、自動的に身体の感覚部分を考慮に入れていることになるのである、と。


 けど、ほんとうに「身体の感覚部分」とその電気的興奮の連鎖とはそんな一対一の対応をしている?

行動の構造

行動の構造

 


 僕が柿の木に歩みよっている場面をご想像くださったみなさんは、僕の「身体の感覚部分」が、僕の脳、神経、臓器、血液、骨、その他の「身体の物的部分」、太陽、雲、道、他人の身体、音らと、「応答し合いながら共に在る」のをご存知である。僕の「身体の感覚部分」を把握するには実に「状況把握が必要である。「身体の感覚部分」しか見ないとか、電気的興奮の連鎖しか見ないというのでは、当の「身体の感覚部分」は把握できない。


 僕の「身体の感覚部分」を捉えるのに、神経をつたって脳に連鎖する電気的興奮の連鎖だけを見ていれば十分であるという保証などまったくもってどこにもない。


 身体に起こる物質的出来事を、神経に伝わる電気的興奮の連鎖にからめて説明しても、身体に当の物質的出来事が、「身体の感覚部分の関与のもとどのように起こっているか、明らかにしたことにはならないと思われる。


 事のはじめに「絵の存在否定」、それにつづいて「存在の客観化」をやり、この世に実在するのは元素だけであるということにする科学の手法には実はハナっから限界があって、物体や音やについて研究する物理学や化学の範囲内では有効でも、身体については、つまり、生き物についてはそもそも通用しないということだったんじゃないかと、やっぱりみなさん頭を悩まさずにはいらっしゃれないんじゃないだろうか*1

つづく


後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

  • 変更前:07:00
  • 変更後:07:05


ひとつまえの記事(①)はこちら。


前回(第16回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。

続・科学は万能か?①

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第17回


 先刻こう申し上げた。


 事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学は、それに引きつづいて「存在の客観化という存在と関係のすり替え作業をやりこの世に実在するのは、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素だけということにする。


 身体はみなさんにとって、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とを合わせたもののことだけど、科学はこの存在の客観化作業をやって、身体をも元素の集まりにすぎないことにし、時計や掃除機とおなじく機械であると見て、「身体機械」とよんだりする(「身体の感覚部分」を心のなかにある像であることにする)。


 そして、身体(身体機械)に出来事は、「身体の感覚部分の関与無しに起こるとする。


 しかし、僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて先に確認しておいたように、僕の「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とは、「応答し合いながら共に在る」(それらふたつと「応答し合いながら共に在る」ものは他にも挙げられるが)*1


 まさに身体に出来事は「身体の感覚部分の関与のもと起こる


 科学のように、身体(身体機械)に出来事は、「身体の感覚部分」の関与無しに起こると考えるのにみなさん、とてつもない無理をお感じにならずにはいらっしゃれないだろう、と。


 でも、そんなふうに申し上げていると、つぎのような反論がどこからともなくあがってくるんじゃない? いやいや、現代科学も、身体に出来事が身体の感覚部分の関与のもと起こると考えている、って。


 こういうことである*2


前回(第16回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:第8回

*2:2018年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。

科学は万能か?②

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第16回


 そもそもみなさんにとって身体とは何か


 まえのほうで確認しておいたように、おなじ場所を占めている身体の感覚部分身体の物的部分とを合わせたもののことである。身体のうちに「身体の感覚部分は含まれる*1


 でも、科学は「存在の客観化」という作業によって、この世に実在するのは、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素」だけであるとする。


 身体もこの科学の手にかかると、そうした元素の集まりにすぎないことになる。身体には「身体の感覚部分が一転、含まれないことになる(科学は「身体の感覚部分」を心のなかにある像と考える)。


 科学はこのように身体を、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とを合わせたもの、から、元素の集まりにすぎないものにすり替え、柿の木や石ころなどとまったくおなじ単なる物体であると考える。


 さらには、時計や掃除機とおなじく機械であると見て、ときに「身体機械」と呼んだりする。


 そして、身体(身体機械)に出来事は、「身体の感覚部分の関与無しに起こるとするわけである。


 だけどみなさん、テニスボールを追いかけておられるときや、卓上にある赤カブにお箸を延ばしておられるとき、お身体が「身体の感覚部分」の関与無しに動いているとお考えになる? 


 みなさんが羽生結弦選手について夢中でおしゃべりになっているときや、つり革をもちながらゆっくりと舟をこいでおられるとき、みなさんの身体が「身体の感覚部分」の関与無しに動いているとおっしゃれる?


 みなさん、ご想起いただけるだろうか。僕が柿の木に歩みよっているときにその右足がどんなふうに、離陸、前方移動、着陸、をくり返しているかご確認くださったときのことを*2


 僕の「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とは、「応答し合いながら共に在った」んじゃなかったか(もちろん、「応答し合いながら共に在る」のは、それらふたつだけじゃなく、柿の木や太陽や雲や道や他人の身体や音やもだということだったけど)。


 身体に出来事は、「身体の感覚部分の関与のもと起こっていたんじゃなかったか。


存在の客観化という作業で、この世に実在するものを元素だけであることにする科学の方法にはもともと、身体にもちいることはできないという限界があったんじゃないかとみなさん、お考えにならずにはいらっしゃれないように思われる*3

つづく


後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

  • 変更前:09:00
  • 変更後:09:05


ひとつまえの記事(①)はこちら。


前回(第15回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:第4回

*2:第8回

*3:2018年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。

科学は万能か?①

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第16回


 事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学が、それにひきつづいて「存在の客観化という存在と関係のすり替え作業をやりこの世に実在するのは「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないところの元素だけであるとするに至る経緯を確認した。物体は元素の集まり、音は空気の振動、匂いは匂い分子、味は味物質のことにそれぞれなるとのことだった。


 2018年書き直しシリーズ第2弾はここで一応のところ、終了である。


 どうだろう、いまやみなさんの胸のうちで、つぎのような疑念がでっかい頭をもたげているんじゃないだろうか。


「存在の客観化」という作業によってこんなふうに存在と関係を別のものにすり替えてしまっても、存在を把握することの妨げにはならないんだろうか


 おそらくみなさんはその問いへの答えを早速、物理学や化学の実績のもとに読みとろうとしておいでだろう。物理学や化学の実績はその問いにどう答えている? 存在と関係をこうして別ものにすり替えたって支障はないと示唆している? いやそれともむしろ、こう教えてくれている?


「たしかにこんなすり替えをやると、世界観や存在観はどうしようもないまでに破壊されるけど、だいたい世界観とか存在観なんか、社会の体勢や労働やペナントレースやデートや結婚生活には関係のないことだし、そもそもそんなふうにすり替えたればこそ、物理学や化学は逆に、輝かしい成果を出すことが可能になったのである」と?


 が、そうお考えになっても、みなさんの表情はどこか晴れないとお見受けする。


 仮にそうした存在と関係のすり替えをやるのが有効有益だとしても、果して身体にもそうだと言えるのか、という疑念がみなさんの胸のうちで強烈にモヤモヤするんじゃないのか。


 こうしてこの書き直し第2弾では、最後に身体について少し見てから、みなさんにお別れ申し上げることになる。


前回(第15回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

科学は音から音、匂いから匂い、味から味をとり除く②

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第15回


 これまで、僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて(本人にはそんなつもりは毛頭ないが)ダラダラとおしゃべりしてきた。その場面をみなさんには、遅刻しそうになった僕が上空からパラシュートで柿の木のもとに舞い降りるところからお話ししはじめた。


 時間をもうすこし過去にさかのぼる。


 僕が**空港の滑走路へそのパラシュートを抱えてコロがるように走り出たとき、ヘリコプターははるか遠方に見えた。準備は整っているようで、すでにプロペラは回っていた。そして、あわてた僕がツマずいたりヨロケたりしながら駆けよっていくと、そのプロペラの音は、刻一刻と大きくなっていった。


 しかしいま、プロペラの、音量、が大きくなっていったと申し上げたのではない。


 プロペラ音の音量は僕がヘリコプターに駆けよっているあいだほぼ一定だったと考えられる。柿の木に歩みよっている場面でもおなじようなことを申し上げたけど、あくまで刻一刻と大きくなっていったのはプロペラ音の姿、とでも言うべきものである。


 プロペラ音は途中、僕が手で耳をふさぐと、コモった姿になり、耳から手を離せば、触るものみな傷つける鋭さをとり戻した。もしこれがビルに囲まれた場所だったら音はもっと反響してたろうと考えていてコケそうになったのを覚えている。ヘリコプターのなかに入って、ドアを閉めると音は少しマシになった。


 このように音は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるものである。


 だけど、科学は事のはじめにつぎのふたつをもって「絵の存在否定という不適切な操作を開始する。

  1. このとき、プロペラ音と僕の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。
  2. しかし、それらのどちらをも「音を聞いているという僕の体験」の部分とは認めない(部分であることを否認)。


 すると、どうなるか。


 そのとき、「音を聞いているという僕の体験」は存在していないことになって、僕にはプロペラ音が聞こえていないことになる(3.絵が存在していないことになる)。聞こえていないプロペラ音と僕の身体とが、たがいに離れた場所にただバラバラにあるだけということになる。


 そこで科学はこう考える。


 プロペラ音は、離れた場所で僕が手足を動かそうが、耳をふさごうが、何をしようが、聞こえないままで、何ら変わることはない。プロペラ音は、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)である、と。


 このように、プロペラ音を事実に反して、無応答で在るものと決めつけるところから、「存在の客観化」作業ははじまる。


 ついで科学は、ヘリコプター音をこのようなものであることにするため、ヘリコプターに駆けよっている間に僕が聞くプロペラ音の一瞬ごとの姿同士のあいだに認められるちがい(すなわち音)を、それぞれの姿から、主観的要素(ニセモノ)にすぎないと因縁をつけてとり除き、ポ〜イと僕の心のなかにうち捨てる。


 そうすれば、どの姿もみな、たがいにまったくひとつとしてちがいをもたないことになり、僕が駆けよっているあいだ、プロペラ音は終始不変だったことになる。


 こうしてヘリコプター音は、「どの位置を占めているかということしか問題にならないもの延長)であることになる。


 科学は、たがいに無関係である、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもの同士を、因果関係なる発明品でつなぎ直す。結果、ヘリコプター音は、「どの位置を占めているか」ということと「どんな力をもっているか」ということしか問題にならないものに成りあがる。


 結局、ヘリコプター音は空気の振動であることになるというわけである*1

つづく


後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

  • 変更前:07:00
  • 変更後:07:05


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*1:2018年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。