(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学は音から音、匂いから匂い、味から味をとり除く①

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第15回


 科学は事のはじめに「絵の存在否定という不適切な操作をなし、僕が現に目の当たりにしている柿の木の姿を、僕の前方数十メートルのところにあるものではなく、僕の心のなかにある映像であることにする。で、それに引きつづき「存在の客観化という作業をやって、僕の心の外に実在しているホントウの柿の木は、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まり」にすぎないということにすると確認した。


 その元素というのは、実際に電子顕微鏡で認められる原子等とはちがって、無応答で在ると想定されたもの(客観的なもの・絶対的なもの)のことだった。


 科学の手にかかると、物体のみならず、音、匂い、味、身体、もこれとおなじ運命をたどる。


 僕が現に聞いているヴ〜ンという冷蔵庫の音も、「絵の存在否定」という不適切な操作によって、僕の心のなかで響いている像であることにされる。で、カンパツ入れず、「存在の客観化」という作業によって、僕の心の外に実在しているホントウの冷蔵庫の音は、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の運動」(空気の振動にすぎないとされる。


 僕がうっとりと嗅いでいるワンカップ大関の匂いも、まず「絵の存在否定」によって、僕の心のなかにただよう像であることにされる。そして、カンパツ入れず今度も「存在の客観化」という作業によって、僕の心の外に実在しているホントウのワンカップ大関の匂いは、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まり」(匂い分子にすぎないとされる。


 同様に、僕が味わっているアタリメの味も、最初に「絵の存在否定」によって、僕の心のなかに広がる像であることにされ、そのあと、「存在の客観化」という作業によって、僕の心の外に実在しているホントウのアタリメの味は、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まり」(味物質にすぎないことにされる。

脳科学の教科書 神経編 (岩波ジュニア新書)

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 これら、音、匂い、味、のすり替えのうちから、音についてだけちょっと見ておきたい*1


前回(第14回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年7月18日と同年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。

科学がやる「存在の客観化」というのはどんな作業か、中間報告

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第14回


 科学の「存在の客観化」という存在と関係のすり替え作業を、なぜか柿の木をもちいてここまで見てきた。


 先に進むまえにここで、その作業過程をいったん箇条書きでもって復習しておこうとする、僕の神経質で息苦しくなるワガママをみなさん、お許しくださるだろうか。


 ならば、当初、前方数十メートルのところにあった柿の木に僕が歩みよっている場面を、みなさん、ご自分ごとのようにご想定になりながら、お聞きあれ。

  • 1.存在を絶対的なものと決めつける

 柿の木は、僕が歩みよれば刻一刻と姿を大きくし、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりすればその姿を黒くもしくは黄色っぽくするといったように、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものである。だけど、事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学は、柿の木を、僕が歩みよろうが、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりしようが、何ら変わることはないもの、すなわち無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)と決めつける。

  • 2.みずからの思い込みを死守するために存在から邪魔ものをとり除く

 科学は柿の木を無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)であることにするために、現実を修正する。僕が歩みよっている間に目の当たりにする柿の木の一瞬ごとの姿同士のあいだに認められるちがい(色や容姿)を、主観的要素(ジョン・ロックの言葉では第二性質。要するにニセモノ)にすぎないと因縁をつけ、それぞれの姿からとり除き、心のなかにうち捨てる。

  • 3.存在を骨と皮だけにする

 すると、それぞれの姿は、まったくちがいひとつすらないもの同士であることになる(歩みよっているあいだ、柿の木は終始不変であることになる)。それこそ、「どの位置を占めているかということしか問題にならないもの延長)、である。

  • 4.発明品でつなぎ直す

 たがいに無関係である「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもの同士を、因果関係(力なるものをもちいて別存在のありようを変える)という発明品でつなぎ直す。こうして柿の木は「どの位置を占めているか」ということと「どんな力をもっているか」ということしか問題にならないものであることになる。

  • 5.最小単位の集まりにする

 柿の木の部分間のちがいを説明できるようになるため、柿の木を部分ごとに分けて、別もの(別の力をもったもの)として見ていく。その結果、柿の木は、「どの位置を占めているか」ということと「どんな力をもっているか」ということしか問題にならないものの最小単位である元素の集まりにすぎないということになる。


 科学はこの要領で、その他のすべての物体、音、匂い、味、身体、など、この世にあるものすべてを、「元素の集まり」にすぎないことにする。


 この世に実在するのは元素だけだとするこうした見解こそ唯物論であると申し上げることができるんじゃないかと思うが、果してどうだろうか*1

つづく


前回(第13回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。

とうとう小さなアイツがやって来る

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第13回


 科学がやる「存在の客観化」という存在と関係をすり替える作業について確認中である。僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて、柿の木がその作業の末、とうとう、「どの位置を占めているかということとどんな力をもっているかということしか問題にならないものであることになるところまで、見た。


 でも、「どの位置を占めているか」ということと「どんな力をもっているか」ということしか問題にならないものとはいったい何?


 それこそ、科学が追い求めてきた元素のことなんじゃない?


 順をおってお話ししよう。


 事のはじめに「絵の存在否定」、ついで矢継ぎ早に「存在の客観化」をなす科学にとって、僕の前方数十メートルのところにある柿の木は、「どの位置を占めているか」ということと「どんな力をもっているか」ということしか問題にならないものである。


 ところが、いっぽんの柿の木でも、部分によって、根であったり、幹であったり、枝であったり、葉であったり、実であったりする。根、幹、枝、葉、実、といった各部分のあいだにはちがいが認められる。また根は根でも、その先端とつけ根(冗談を申し上げているのではない)とではだいぶちがう。


 こうした部分同士のあいだにあるちがいを科学は説明できるようにならなければならない


 そこで科学は、いっぽんの柿の木を部分ごとに分け、それぞれ別のもの(別の力をもったもの)と考えていくことにする。結果、柿の木は最小単位まで細分化されることになる。その最小単位こそ科学が、元素、と考えるものなんじゃないだろうか。


 以上、「存在の客観化」という存在と関係をすり替える作業を経て、柿の木は、心の外に実在している、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まり」にすぎなくなるということが、明らかになった。


 実際、電子顕微鏡で見れば、原子の存在はたしかめられる(寡聞な僕は詳しいことは知らないが)。柿の木は何度も申し上げているとおり、歩みよれば刻一刻と姿を大きくし、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりすれば姿を黒くもしくは黄色っぽくする、いわば「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものであって、僕が肉眼で臨めば、いわばマクロな姿を呈するし、電子顕微鏡ごしに見れば、原子同士からなるミクロなとでも言うべき姿をとる。僕が遠くから目の当たりにする柿の木の姿も、近くで目のあたりにする姿も、サングラスをかけて目の当たりにする姿も、電子顕微鏡ごしに目の当たりにする姿も、どれもこれもぜ〜んぶその柿の木の姿である。どれかがニセモノで、どれかのみホンモノだということはない。全部モノホンである。


 だけど科学は、「存在の客観化」によって、肉眼で目の当たりにする柿の木のマクロな姿をすべて、ニセモノ(主観的要素)にすぎないと因縁をつけ、心のなかにうち捨てるわけである。柿の木を、僕が歩みよろうが、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりしようが、何ら変わることのないもの、すなわち、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)であることにするために。


 事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなしたばっかりに引っ込みがつかなくなって。


 またつぎのことも再確認しておきたい。科学が心の外に実在するものとして想定する元素はあくまで、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)であるが、実際に目の当たりにされる原子は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものであるということを*1

つづく


前回(第12回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました

fakeなあの世界的大発明品、あらわる

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第12回


 僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて「存在の客観化」という存在のすり替え作業を見ている。


 柿の木は、僕が歩みよれば、その姿を刻一刻と大きくし、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりすれば、その姿を黒くもしくは黄色っぽくするといったように、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものである。しかし科学は「存在の客観化」という作業によって柿の木を、僕が歩みよろうが、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりしようが、何ら変わることのないもの、すなわち、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)へすり替えるとのことだった。


 ここまで確認してきた「存在の客観化」の作業過程を箇条書きでふり返るとこうである。

  1. 事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学は、柿の木を、無応答で在るものと考える。
  2. 科学は柿の木を、そうしたものであることにするのに邪魔になるものを、当の柿の木の姿から、主観的要素にすぎないと因縁をつけてとり除き、心のなかにうち捨てる。
  3. その結果、柿の木は「どの位置を占めているかということしか問題にならないもの延長)であることになる。


 柿の木はこのように無応答で在るものにすり替えられ、「との関係を失う(科学にとって存在同士は、たがいに無応答で在るものである)。


 いま、「存在の客観化」作業の過程で、柿の木が「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもの(延長)であることにされるところまで見たが、実に、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもの(延長)は、「他」とまったく無関係である。


「存在の客観化」は、存在を別ものにすり替える作業であると同時に、存在同士の関係を否認するものであるとも言える。


 科学は「存在の客観化」によって、存在同士をこうしていったん無関係にしておいてから、再度つなぎ直すわけである。


 でも、ほんものの関係でつなぎなおすことはもはや科学にはできない。だって、ほんものの関係でつなぎ直すというのは、存在を「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答えるものと考え直すこと、要するに、いったんやりかけた「存在の客観化」をとりやめることに他ならないじゃない?


 科学がこのとき存在同士をつなぎ直すのにもちいるのは、因果関係、という発明品(fake関係)である。


 因果関係とは言ってみれば、存在が力なるものを用いて、別存在のありようを変えるといった関係である。「存在の客観化」によって科学は存在を「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものにするとのことだった。となれば、存在が力なるものを用いて変える、別の存在のありようとは、その位置取りのこととしか考えられないだろう。


 したがって因果関係はこう言い改められる。


 力なるものを用いて、別存在の位置取りを変えることである、と。


 存在は、こうして因果関係なる発明品で他とつなぎ直された結果、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものから、「どの位置を占めているかということとどんな力を持っているかということしか問題にならないもの、に成りあがるに至る*1

つづく


前回(第11回)の記事はこちら。


それ以前の記事はこちら。

第1回


第2回


第3回


第4回


第5回


第6回


第7回


第8回


第9回


第10回


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。

存在が、魅惑の、変身②

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第11回


 そう、僕は上空から、ほんの豆ツブみたいな柿の木が急速に大きくなっていくのを、パラシュートを開く時機をいまかいまかとはかりながら、目の当たりにしていた(急速に大きくなっていったのは柿の木の、実寸、ではなく、あくまで、姿、であるとここでもつけ足さなければならないだろうか)。


 そのとき僕が目の当たりにしていた柿の木の姿のなかから、みなさん、お好きな一瞬のものをひとつお選びになって、ご想像くださる?


 お選びになったその瞬間に僕が目の当たりにしていた柿の木の姿はどんなだったか。


 すくなくともつぎのことだけは自信満々で請け合える。


 地面に降りたったあと、腕時計にちらっと目をやった僕はあわてて柿の木に向けて歩み出したが、そうして歩みよっているあいだのどの瞬間に僕が目の当たりにしていた柿の木の姿とも、みなさんが先にお選びくださった瞬間の柿の木の姿は、ああもうまるっきりちがっていたはずである、と。


 着陸後の僕が柿の木に歩みよっているあいだに目の当たりにしていた柿の木の姿からも、みなさん、お好きな瞬間のものをひとつお選びになれ。


 お選びくださったふたつの瞬間のどちらでも、柿の木はおなじ位置にあって、まったく動いていなかったと仮定する。さあ、みなさん思い描かれよ、みなさんが最初にお選びになった、空から落ちている最中のある一瞬に僕が目の当たりにしていたその木の姿と、みなさんがふたつ目にお選びになった、歩みよっているあいだの一瞬に僕が目の当たりにしていたその木の姿とを。


 それらがいかにまるっきりちがっているかを、マジマジと。


 そのふたつの姿はたがいに何がちがっているか


 まず色がちがっている。上空から落ちている瞬間のほうでは、ダイダイ色を見せている柿の木の部分は、僕が柿の木に歩みよっている瞬間のほうでは、「見えないありよう」を呈している。後者の瞬間にくっきりしたコゲ茶色を見せている柿の木の幹は逆に、上空から落ちている瞬間のほうでは、「見えないありよう」をとっている。


 それにふたつの姿は、容姿とでも言うべきものも決定的にちがっている。上空から落ちている瞬間のほうでは、剣山を上から見たような丸まっちい姿をしているが、歩みよっている瞬間のほうでは、痩せた長身の姿を呈している。


 科学はそのどちらの瞬間でも、柿の木はたがいにちがいひとつすらないと考え、それらふたつの瞬間の柿の木の姿のあいだに認められるちがいをすべて、主観的要素にすぎないと因縁をつけ、それぞれの姿からとり除く。


 こうして、色や容姿が柿の木からとり除かれ、僕の心のなかにポ〜イとうち捨てられるに至る。


 じゃあそのあと、それらふたつの姿にそれぞれ残る、たがいにたったひとつのちがいすらないものとは何か。


 それは、おなじ位置を占めているということ、なんじゃない?


 このように、とり除き作業の結果、柿の木は、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないもの、であることになる。それこそが、僕の心の外に実在しているホントウの柿の木ちゅうもんであるということになる。


 この「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものを、いちはやく「存在の客観化」をやってのけたデカルトは、延長、とよんだ。


 科学がいまばく進している道は、デカルトが汗水たらして準備したものであると言えるように僕には思われるけど、デカルトは最初にその道を切りひらくにあって、「絵の存在否定」という不適切な操作をなすところからはじめた。で、そのあと「存在の客観化」という存在のすり替え作業をやり、いま僕がやってご覧にいれたように存在を、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものと結論づけて、延長となづけた(デカルト『哲学原理』第2部4*1、または『省察』での有名な蜜蝋についての考察を参照されたし)。

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

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省察 (ちくま学芸文庫)

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 しかしそれにしてもなぜ延長となづけた?


「いまこの瞬間に僕が体験している世界のありよう全体」の隅々にまで、架空の三次元座標を引きのばしていけば、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないものというのは、その座標上で、x軸、y軸、z軸の方向それぞれにどれだけ延びているか表現すれば、あますことなく言い尽くせるようになると考えられ、延長となづけられたというところである。

つづく


後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

  • 変更前:07:00
  • 変更後:07:05


ひとつまえの記事(①)はこちら。


前回(第10回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:デカルト『哲学原理』桂寿一訳、岩波文庫、1964年、p.97、1644年

 第2部4(物体の本性は重さ・堅さ・色等のうちにではなく、ただ延長のうちに成り立つ。)

 そうすること〔知性だけを使用すること〕によって、我々は物質即ち一般的意味の物体の本性が、それが堅さや重さや色あるもの、或いはその他何らかの仕方で、感覚を刺激するものであるという点にではなく、ただ単に、長さと幅と深さとに拡がっているものである点に、存することを知るであろう。何となれば堅さについて言えば、これについて感覚が我々に知らせるのは、我々の手が当るときその手の運動に、堅い物体の部分が抵抗するということ以外に、何もないからである。もしも我々の手が或る方向に向って動くとき、そこにあるすべての物体が、手の進むのと同じ速さでいつでも退くとしたらならば、我々は少しも堅さを感覚しないであろう。そしてかように後退するとした物体が、その故に、物体の本性を失うであろうとは、何としても理解できないことであって、従ってその本性は堅さのうちには存しないのである。同じ仕方で、重さも色もその他、物体的物質のうちに感覚される一切の同様の性質も、〔物体〕本性をそのままに残して、そこから除き得ることを示すことができる。ここから物体の本性は、それらの性質のいずれにも依存しないことが出てくる(太字は引用者による)。

存在が、魅惑の、変身①

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第11回


 僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて考察している。


「存在の客観化」で、柿の木は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものから、無応答で在るもの(客観的なもの絶対的なもの)にすり替えられるとのことだった。


 最初に確認したように、柿の木は、僕の身体が近づくにつれ、刻一刻とその姿を大きくし、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりすれば、姿を黒っぽくしたり黄色っぽくしたりするといったように、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものである。


 しかし事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学は逆に、柿の木を、僕の身体が、行ったり来たりしようが、逆立ちしようが、太陽が雲間にかくれたり雲間から顔を覗かせたりしようが、何ら変わることがないもの、すなわち、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)と考える。


 そして科学は柿の木をそうした無応答で在るものであることにするために、僕が歩みよっている間に目の当たりにする柿の木の一瞬ごとの姿同士のあいだに認められるちがいを、主観的要素にすぎないと因縁をつけて、それぞれの姿からとり除き、僕の心のなかにポ〜イとうち捨てる。で、そのあと、それぞれの姿に共通して残る、たがいにちがいがひとつすらないものをこそ、ホントウの柿の木(柿の木の本性)であることにする。実にそうすれば、柿の木は僕が歩みよっているあいだ終始不変であって、無応答で在るものだと言えるようになるというわけだった。


 でも、そのホントウの柿の木っちゅうのは、いったいどんなものなのか


 僕が柿の木に歩みよっているあいだ、柿の木が刻一刻と姿を変えるのを、みなさんに当事者になったつもりで何度もご想像いただいてきたけど、みなさんにお知らせしようとするとついモジモジしてしまってずっと言い出せなかったことがある。それは、柿の木に向かって歩み出す約束の時刻におくれそうになった僕が  時間にダラシがないことをみなさんには是非ともかくしておきたかった  パラシュートを背負って空からその木のもとに降り落ちてきたということである*1


前回(第10回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年7月5日と同年10月28日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。

科学はいつだって、自分の思い込みに合うよう現実を修正する

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第10回


 科学は事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなし、「存在の客観化」という存在すり替え作業をやるハメに陥るとのことだった。


 どういうことだったか。


 僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて、みなさんに最初にご確認いただいた。柿の木は僕が歩みよるにつれ、刻一刻と姿を大きくし、太陽が雲間にかくれればその姿を黒っぽく、また太陽が雲間から顔を出せば姿を黄色っぽくする。そのように柿の木は「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものである、と。


 ところが事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学は、柿の木を、僕が歩みよろうが、サングラスをかけようが、太陽が雲間に隠れたり雲間から顔を出したりしようが、僕とのあいだを中学生の一団が通りすぎようが、終始不変であるもの、すなわち、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)と考える、とのことだった。


 さあ、しかし、あくまで柿の木は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものである。そこで科学は柿の木を、無応答で在るものであることにするために、現実を修正することにする。


 こんなふうにである。


 まず科学は、僕が歩みよっているあいだ実際に目の当たりにする柿の木の一瞬ごとの姿ひとつひとつを点検していってこう決めつける。それら一瞬ごとの姿同士のあいだにはちがいが認められるが、そのちがいはきっと柿の木のニセ要素(主観的要素)にすぎず、それぞれの姿からとり除いて、僕の心のなかにポ〜イと捨てやることができるにちがいない。実にそうすれば、柿の木の姿はどの一瞬のものもみな、たがいにちがいひとつすらないもの同士であることになる。柿の木は、僕が歩みよっているあいだ終始不変であって、無応答で在るものであることになる、と。


 で、そのとり除き作業のあと、柿の木の一瞬ごとの姿のどれにも残るものをこそ、柿の木のホントウの姿(柿の木の本性と呼ばれたりする)であると科学はし、僕がある瞬間に目の当たりにする柿の木の姿を、「ホントウの柿の木(柿の木の本性)+主観的要素(ニセ要素)」であることにするわけである。


 いまご確認申し上げたように、「存在の客観化」では、柿の木を「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものから、無応答で在るもの(客観的なもの)にすり替えるために、実際に僕が目の当たりにする柿の木の一瞬ごとの姿同士のあいだに認められるちがいを、主観的要素にすぎないと因縁をつけ、それぞれの姿からとり除くといった現実修正をする。


 じゃあ、その主観的要素をとり除いたあと、それぞれの姿に共通して残る、たがいにちがいひとつすらないものとは、何なのか。


 その何かこそ、ホンモノの柿の木であると科学は言うが、それはいったい・・・・・*1

つづく


僕が「存在の客観化」とよぶ、この存在のすり替え作業は以下の著書で見られます。

省察 (ちくま学芸文庫)

省察 (ちくま学芸文庫)

 
哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

 
哲学入門 (ちくま学芸文庫)

哲学入門 (ちくま学芸文庫)

 


前回(第9回)の記事はこちら。


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年7月5日と同年10月28日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。