(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

ひとを出来損ない扱いする差別

*2017差別の核心を追っかける第1回


 差別の核心は何か。そうみずから問うておきながらも、そんなむつかしいこと私にわかるはずがないと、いきなりではあるが、音をあげざるを得ない。


 が、ひとつ気になっていることがある。


 ひとを出来損ない扱いするという差別が、大手をふって世間にまかりとおっているような気がするのである。


 ひとを出来損ない扱いする差別とは何か?


 みなさんにはご迷惑をおかけすることになるけれども、みなさんご自身が誰かを出来損ない扱いなさる場面を、いまからひとつ、ご想像いただけないものであろうか。そして、ひとを出来損ない扱いするとはいったいどういったものの見方をすることなのか、まずご確認いただけないだろうか。


 おそらくこうお願い申し上げると、心優しいみなさんのことである、すぐさま、こころを鬼にして、架空の誰かを想像のなかで出来損ない扱いなさるだろう。で、そのあと、想像のなかでひとを出来損ない扱いしたときの心境を、後味の悪さを我慢なさりながらお振り返りになって、私にこうご教示くださるにちがいない。


  
想像のなかであるひとを出来損ない扱いしていたとき、私の胸のうちには、ひとはみんな一緒であるはずだという勝手な思い込みがありました  


 みなさんがおっしゃるところはこうである。


 ひとは「みんな一緒であるはずだ」という思い込みを想像のなかのみなさんは、われ知らずお持ちだった。そんなところで、あるひとに出くわされた。そのひとは、みんなと一緒ではなかった。そこでみなさんは、こうお感じになった。


 ひとは「みんな一緒になる」よう定められている。にもかかわらず、目の前にいるこのひとは、「みんなと一緒ではない」。このように「みんなと一緒になる」よう定められているにもかかわらず、「みんなと一緒ではない」ということは、定められたとおりにはなり損なっている(出来損ない)ということである。そして、〈定められたとおりにはなり損なっている〉というのは、問題が有るということである。〈定められたとおりにはなり損なっている〉機械は、そのままにはしておけない。修理するか、場合によっては廃棄するかしなければならない。人間も同じである。〈定められたとおりにはなり損なっている〉というのは、人間の場合も同じく、問題が有るということである、と。


 いまみなさんにご教示いただいたように、ひとを出来損ない扱いするのは、れっきとした差別である。「みんなと一緒ではないひと」を出来損ない扱いする根底には、ひとは「みんな一緒になる」よう定められているはずだとする勝手な思い込みがあった。 ひとは「みんな一緒になる」よう定められているのだと勝手に思い込んでいればこそ「みんなと一緒ではないひと」の「みんなと一緒ではないこと」が、〈定められたとおりにはなり損なっていること〉と見え、ひいては問題が有ることと受け取られるというわけだった。

つづく


このシリーズは全2回でお送りします。