*障害という言葉のどこに差別があるか考える第15回
先の第1部ではつぎのことを確認しました。
- 正常異常の区別は実は機械に対してつけられないこと、
- 当然、正常異常の区別はひとに対してもつけられないこと(そもそも異常なひとはこの世に存在しない)、
- にもかかわらず科学はひとを正常と異常に振り分け、両者のひとたちのあいだに不当な差をつける差別をすること。
これらのことから、気象に対しても正常異常の区別はつけられず、そもそも異常気象はこの世に存在しないと考えるのが至当ですけれども、第2部冒頭でいきなり俺は、この街、昨年10月の雨つづきの気象をうかつにも異常と決めつけてしまいました。そこでその経緯をふり返ってみたところ、つぎのふたつのことがわかりました。
- ⅰ.昨年10月の雨降りの日々を「異常気象」と見たときの俺には、「気象は作り手によって、例年同じになるよう定められている」とする偏見があった。
- ⅱ.その偏見があればこそ俺には、昨年10月の気象の「例年どおりではない」ことが異常と見えた。
ここ第2部では、誰が科学によって不当にも異常と決めつけられるのか、明らかにしようとしています。「異常気象」について考察し終えたいま、いよいよ事の次第が明らかになろうとしています。
お聞きください。
科学は医学の名のもと、不当にもたくさんのひとたちを異常と決めつけてきましたし、いまも決めつけています。決めつけるのをやめる気配すら見せません。異常なひとなどこの世にひとりたりとも存在しないのに、科学はなぜこんなふうに誰かを不当にも異常と決めつけることができるのか。
科学にも偏見があるのではないでしょうか。ひとは作り手によって、みんな同じになるよう定められているとする偏見が。そんな偏見を持っていればこそ、科学には、劣っていると思われるひとが、不当にも異常と見えるのではではないでしょうか。「例年どおりではない」雨降りの日々が異常気象と見えた先ほどの俺のように。
詳しく申し上げます。
ひとに正常異常を言うとは、ひとが《作り手の定めたとおりになっていない》のを問題とし、ひとが〈作り手の定めたとおりになっている〉のを正常、ひとが《作り手の定めたとおりになっていない》のを異常と呼ぶことでした。
科学は勝手な基準を設定して、ひとを三つに分けます。
- A.標準なひと
- B.標準より優れているひと
- C.標準より劣っているひと
たくさんいるひとのうちの誰を標準(A)と見るべきかに決まりなどないことは、言うまでもありません。
さて、「ひとは作り手によって、みんな同じになるよう定められている」とする偏見を持っている科学には、これら三つのうちのいずれかが、《作り手の定めたとおりになっていない》ものと見え、その《作り手の定めたとおりになっていない》ことが問題と思われるのではないでしょうか。
では、そのように見られて異常と呼ばれるのは前者三つのうちのどれでしょう。
C(標準より劣っているひと)ではないでしょうか。
科学はA(標準なひと)を、〈作り手の定めたとおりになっている〉ものと見て、正常と呼び、B(標準より優れているひと)については柔軟にも、〈作り手の(特別に)定めたとおりになっている〉ものと見て、バンザイしながら、天才(正常)呼ばわりするのではないでしょうか。
第2部の回答が出ました。科学に不当にも異常と決めつけられるのは、科学に〈標準より劣っているとされるひとたち〉ではないかと思われます。
また先にも申しましたように、そうした不当な決めつけができるのもひとえに、「ひとは作り手によって、みんな同じになるよう定められている」とする偏見が科学にあればこそだと考えられます。
次回は2月28日(水)7:00にお目にかかります。
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