(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

医療が真に問題とすべきは何なのか

*身体をキカイ扱いする者の正体は第9回


 科学は、機械に用いられる正常異常という区分けを、機械ではない身体に用い、その正常を健康とか健常と呼ぶいっぽうで、異常を病気と呼び、治療とは異常状態から正常状態になることを目的とするものとします。これは、世界によって定められたありようを呈しているものばかりであると科学には考えられるはずの身体を、「みんなと同じかどうか」といった勝手な基準をもってして、世界によって定められたありようを呈しているもの(問題無し、すなわち正常)と、世界によって定められたありようを呈していないもの(問題有り、すなわち異常)とに分けるということ、もっと簡単に言えば、世界によって身体はみんな同じになるよう定められているのだと勝手に決めつけ、「みんなと同じではない」ものを、「みんなと同じではないことをもって問題有りとし、「みんなと同じにならなければいけないと不当に差別することでした。


 機械にしか用いることのできない正常異常という区分けを、機械ではない身体に用いることはできません。真の問題は「みんなと同じではない」ことではありませんし、問題解決もまた「みんなと同じになる」ことではありません。


 この文章では、心と呼ばれるもの(現代科学の最先端にとっては、心はもはや非物質ではなく、脳の物質的活動です)については考察しないと先に申しましたけれども、ここでひと言だけ触れさせてください。


 科学は心についても、機械にしか用いることのできないこの正常異常という区分けを不適切にも用い、精神医学などの分野で異常を病気とし、治療を異常状態から正常状態になることを目的とするものとしています。これはいま申しましたように、「みんなと同じではない」ひとを、「みんなと同じではない」ことをもって問題有りとし、「みんなと同じ」にならなければいけないとすることですけれども、こうした見方を、かつて精神医学は改めようとしたと言います(そうした動きが下記の本のなかでは反精神医学と呼ばれていたように思います)。ところが、今後代わりに何を問題としていけばいいのか(どんなときにひとに手をさし伸べていけばいいのか)が提示できず、結局、正常異常という区分けにもとづいた従来の見方を改めることはなかったと聞きます。

異常の構造 (講談社現代新書)

異常の構造 (講談社現代新書)

 


 このように科学は、「みんなと同じではない」ひとの「みんなと同じではない」ことを問題とし、「みんなと同じになる」ことを問題解決とする見方に替わるものを持ち合わせてはいないように思われます。


 しかしみなさんには、医療が真に何を問題とすべきか、お考えになってこられたところがおありなのではないでしょうか。


 みなさんが胸の底から、かけ値無しに医療にお求めになるのは何でしょう。


 みなさんが医療にたいし切望なさる処置(予防と美容整形は一応除いておきます)は、異常状態から正常状態になること、すなわち「みんなと同じではない」状態から「みんなと同じ」状態になることを目的とするものではなく、あくまで、苦しさが減り、あわよくば快くなることを目的とするものではないでしょうか(この文章では以後、「苦しい」という言葉の反対を「快い」と表現していきます)。


 実際にみなさんがふだん健康とお考えになるのは「みんなと同じである」ことではなく、苦しくない状態がつづくことであり、みなさんにとって病気とは、「みんなと同じではない」ことなんかではなく、苦しい状態(困っている状態を含む)が引きつづくことではないでしょうか。


 みなさんは長らく、首をおひねりになりながらずっと胸のうちでひとり感じていらっしゃったのではありませんか? 医療がほんとうに問題とすべきは、苦しいことではないのか、わたしたちにまっさきに提供しようとすべきは、苦しさが減じ、あわよくば快くなることを目的とする処置ではないのか、と(その思いを口にお出しにならなかったのは  みなさんと俺を一緒と考えてはいけないのかもしれませんが  「ど素人が」と笑われたり叱責されたりするのを恐れてのことではないでしょうか)。


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このあたりのことについては、悔い改めて後日、書き直しました。


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