(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

差別はいつだって善意からなされる

*2017差別の核心を追っかける第2回

 けれども、ひとが「みんな一緒になる」よう定められていると考えるだけの根拠はこの世にはどこにもない。 現に、ひとは「みんな一緒になる」よう定められているとする勝手な思い込みをみなさんはお持ちではない。そんなみなさんは、「みんなと一緒ではないひと」の「みんなと一緒ではないこと」を、〈定められたとおりにはなり損なっていること〉(出来損ない)とお取りになって、問題有りとされるようなことはまったくない。みなさんにとって、「みんなと一緒ではないひと」の「みんなと一緒ではないこと」は、「みんなと一緒ではないこと」以外の何ものでもなく、みなさんが、「みんなと一緒ではないひと」の「みんなと一緒ではないこと」に何かお感じになるとしても、それはせいぜい、めずらしいということくらいである。


 このように、ひとを出来損ない扱いするとは、「みんな一緒になる」ようひとは定められているとする勝手な思い込みにもとづいて、「みんなと一緒ではないひと」を差別することにほかならない。


 ひとつここで、わかりやすい例をあげたい。同性愛はかつてこうした差別を不当に受けていたように思われる。


 同性愛者は最近しきりに性的少数者といった言いかたで報道されている。同性愛者は、性的に「みんな(多数派のこと)と一緒ではないひと」と見られているということであるが、先にも申し上げたように、「みんなと一緒ではないこと」自体は単に、「みんなと一緒ではない」ことを意味するだけであって、ほかに何か言えることがあるとしてもそれはせいぜい、めずらしい、ということくらいである。そして、そのめずらしいということにも良い悪いの区別はない。が、みなさんよくご存じのように、同性愛はつい最近まで医学的に問題視されていたし(精神病のひとつに数え入れられていた)、カトリック法王が同性愛をお認めになったというニュースをご覧になったかたもおられるだろう。まさに、「みんな一緒になる」ようひとは定められているとする勝手な思い込みにもとづいて、同性愛者の性的に「みんなと一緒ではないこと」を、〈定められたとおりにはなり損なっていること〉と取り、問題有りとしてきたということである。カトリックなら、性的に「みんなと一緒ではないこと」を、〈神に定められたとおりにはなり損なっていること〉と見て問題有りとし、医学なら、性的に「みんなと一緒ではないこと」を、〈世界(もくしは遺伝子)に定められたとおりにはなり損なっていること〉と見て問題有りとしていたと言えるだろう。


 さすがに両者とも同性愛者を、出来損ない、という露骨な言葉では呼ばなかっただろう(呼んでいたのかもしれないが)けれども、異常という言葉を代わりに使っていたのではなかったか。


 そうまさしく、医学などによく用いられる異常という言葉こそ、出来損ない、という差別用語の謂いである。ひとは「みんな一緒になる」よう定められているとする勝手な思い込みにもとづいてひとを出来損ない扱いするこうした差別が、依然として、世間で大手を振ってまかりとおっているように私には思われてならないのである。


 本年、「科学の身体研究からすっぽりぬけ落ちている大事なもの」のchapter3*1で、この差別について見ていくつもりにしている。

(了)


前回(第1回)の記事はこちら。


このシリーズ(全2回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年8月8日付記。タイトルを「身体をキカイ扱いする者の正体は」に変更しています。