(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

医学は差別の体系である

*身体をキカイ扱いする者の正体は第22回


 このchapterでは、機械に用いられる正常異常という振り分けかたを、科学が身体に用いることの非について見てきました。


 最後に、確認してきたことを箇条書きで簡単にふり返ってから、このchapterを閉じることにします。


 では、みなさんお元気で。またお目にかかりたく存じます。


.機械に用いられる正常異常という振り分けかたを、ほんとうは機械ではない身体に用いることはできない。身体はたったひとつの例外もなくみな正常と判定されるほかあり得ない(理由は最後で)。


.にもかかわらず科学は、一部の身体を不当にも異常であることにし、差別する。


.科学によってこのように不当にも異常と見なされ差別されるのは、「みんなと同じではない身体」(ただし科学が劣っていると見るものに限る。以下略)である。


.科学は、世界によって身体はみな同じになるよう定められているとする偏見(差別の根っこ)にもとづいて、「みんなと同じではない身体」をこのように不当にも異常と判定し、差別する。


.こうした科学にとって、健康(健常)とは身体が正常であること、病気とは身体が異常であることであり、治療とは異常状態から正常状態になるのを目的とするものである(科学は医学を身体という機械の修理業とする)。


.しかしみなさんにとって、健康とは苦しくない状態がつづくこと、病気とは苦しい状態が引きつづくことであり、みなさんが胸の底から切望なさる医療処置は、苦しさが減り、あわよくば快くなるのを目的とするものである。


.そのように苦しさを問題とされるみなさんは、治療に副作用とか毒性といった苦しみが伴うか、伴うのであればそれはどういったものか、当然気にされる(副作用とか毒性といった苦しみをこうむればこうむるほど、医療処置の目的を達成するのは困難になる)。


.ところが、身体を機械と考える科学には、快さや苦しさが何を意味するのかがわからない。科学はこれまで長きに渡って、治療にともなう副作用や毒性についてまともに考慮するのを怠ってきた。


.精神医学は患者を精神に異常のあるものとして理解しようとするが、異常な人間などほんとうはこの世に存在しない。患者を精神に異常のあるものとして理解しようとすることは、そのひとのことを理解するのをはなっから拒むことである。


10.精神に異常があるものと精神医学が判定するひとたちを理解するには、そのひとたちを異常のあるものと見るのを止め、いわゆる健常者(精神医学に精神が正常であると判定されるひとたち)を理解しようとするときのように理解しようとする必要がある(そのひとの身になって考える必要がある)。


 前記1でこう書きました。「機械に用いられる正常異常という振り分けかたを、ほんとうは機械ではない身体に用いることはできない。身体はたったひとつの例外もなくみな正常と判定されるほかあり得ない」、と。その理由は以下のとおりでした。

  • .機械を正常と異常に振り分けるとは、機械が「造り手の定めたとおりになっていない」ことを問題とし、そうした問題が無いことを正常、有ることを異常と呼ぶことである。
  • .けれども身体には、「造り手(世界もしくは自然)の定めたとおりになっていない」という問題など起こり得ない。つまり異常はあり得ない。
  • .というのも、「造り手(世界)の定めたとおりになっていない」とは、「自然法則のとおりになっていない」ということであり、奇蹟を呈しているということであるが、科学は奇蹟の存在を絶対に認めない。そうである以上、身体には「造り手の定めたとおりになっていない」という問題は起こり得ない、すなわち異常はあり得ないとしか考えられない。


第21回←) (完)         

 

 

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