(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

一箇所にしか配慮しないでひとの未来を予想できるか?

*『患者よ、がんと闘うな』の近藤誠さん第3回


「いや、出来事を一箇所のせいにすること、すなわち、一箇所にしか配慮せずともどんな出来事が起こってくるか予想すること、は可能である。たとえば服毒死という出来事については、猛毒という一箇所だけのせいにし、身体のなかにはいってきた猛毒という一箇所にのみ配慮していれば、(服毒)死という出来事が起こると十分、予想できるではないか」とおっしゃるかたもおいでかもしれない。


 たしかにそうである。猛毒を摂取したときであれば、どんな場合でも(つまり、誰にでも、しかもどんな時にでも)ほぼ同じ出来事(死)が起こるだろう。服毒については、猛毒という一箇所にしか配慮しなくても十分、未来予想は可能なのだろう*1。そして、この服毒死のように、一箇所にしか配慮していなくても、未来にどんな出来事が起こるか予想できる場合は他にもあるのだろう。


 ただし正確を期すと、One man’s meat is another man’s poison.であって、人間には毒である物質も、他の動物には毒ではないということもあるし、他の動物には毒である物質も、人間には毒ではないということもある*2。ある物質を摂取すると人間は死ぬが、他の動物はその物質を摂取しても死にはしないといった事実を、毒物という一箇所にしか配慮しない考え方では、説明することはできない。身体のなかの神経や臓器などをも説明にもち出さなければ、いっぽうは死んで、もういっぽうは死なないというこの違いを説明することは不可能である。ただそれでも、服毒という出来事にかんしては、まあ、猛毒という一箇所だけのせいにし、身体のなかの他部分への配慮を省いても、あながち問題は起こらないと言えるかもしれない。


 しかし他の物質もすべて、この猛毒のように、それを摂取すると、同じ出来事がどんな場合にでも起こってくるものだと決めつけることはやはりできない。服毒のように、一箇所にしか配慮しなくても未来に起こる出来事が予想できるという場合ばかりではないということである。たとえば、コーヒーや緑茶は、飲んで気持ちが悪くなるときもあれば、そうでないときもある。薬剤でさえ、ときに効かなかったり、ひとによって効き目が異なったり、場合によってはひどい副作用が出たりするときもある。一箇所にしか配慮しない見方では、どんな出来事が起こってくるか予想できない事例は頑としてこの世に存在する。


 そもそも、どんなに似ているひと同士でも、かならずたがいに違っている。したがって、たがいにそっくりなAさんとBさんの身体のなかに同じ物質がはいってきたとしても、ふたりの身体のなかに違いがある以上、別々の出来事が起こるかもしれない、ということになる。身体のなかにはいってくる物質という一箇所にしか配慮しないのでは、どんな出来事が未来に起こるかは予想できないときもあるということである。


 すなわち、服毒のように出来事を一箇所のせいにできる場合なのかどうか、すなわち一箇所にしか配慮しなくてもどんな出来事が起こってくるか言い当てられる場合なのかどうかを見極めるには、いろんな事実を観察するしかないということになる。


 もちろんガンについてもそうである。


 ガンという一箇所さえ見つかれば、身体の他の部分がどうなっているかなどは一切、配慮しないでも、「苦と死という出来事」がかならず起こるのだと断言できるかどうかを見極めるには、ひとえにいろんな事実を観察するしかないわけである。


 そこでじっと、いろんな事実を観察してきた結果、ガンという一箇所さえあれば必ず、「苦と死という出来事」が起こるのだとはどうも言えそうにないと声をあげたのが、近藤さんなのではないだろうか。

つづく


前回(第2回)の記事はこちら。


このシリーズ(全8回)の記事一覧はこちら。

 

*1:じっさいは、猛毒が「どんな場合でも同じ出来事を〈引き起こす〉」のではなく、猛毒にたいし、誰の身体のなかもいつも同じ《反応を示す》ということである。

*2:なかにはヘビ毒が効かないひともいるようです。2018年8月30日付記。


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