(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

ガンを死因と特定したときの手続き

*『患者よ、がんと闘うな』の近藤誠さん第4回


 まさかそんなはずはない、正規の手続きで科学はガンを「どんな場合でも、苦と死という出来事を引き起こす一箇所」だと特定したのだ、とおっしゃるかたもおいでかもしれない。おそらくその手続きとはこのようなものだろう。


 あるとき、苦しんで死んだひとを複数みたところ、身体のなかにガンが見つかった。そこで科学は即、彼らが苦しんで死んだというこの出来事を、ガンという一箇所のせいにした。すなわち、ガンを「どんな場合でも、苦と死という出来事を引き起こす一箇所」と決めつけた。そうして、身体のなかにガンという一箇所さえあれば、どのひとにも「苦と死という出来事」が必ず起こることになると断定した。


 けれどもガンをこの時点で、そのように決めつけるのは、時期尚早だったのではないだろうか。


「どんな場合でも、苦と死という出来事を引き起こす一箇所」なるものが仮にこの世にあるのだとしても、苦しんで亡くなったひとたちの身体のなかにガンが見つかったというこのことだけからは、そのガンを、「どんな場合でも、苦と死という出来事を引き起こす一箇所」と見ていいのか、それともそうした一箇所によって生じさせられた、「苦と死という出来事」の一部と見るべきなのかは、わからない(簡単に言えば、ガンが原因なのか、それとも結果なのかは、この時点ではまだ何とも言えないということである)。


 しかも、このガンはそのどちらでもなく、ただ単に、苦しんで死ぬようなときに比較的よくできるデキモノでしかないという可能性も考えられる。


 このようにガンについて少なくとも三つの可能性が考えられるところで科学はいきなりガンを、「どんな場合でも、苦と死という出来事を引き起こす一箇所」であると即断した。これはあまりにも乱暴な決めつけかただったと言うべきではないだろうか。


 こんな乱暴な決めつけかたをしたのなら、ガンが身体のなかに見つかったひとに以後、出くわすたびに、ほんとうにガンを「どんな場合でも、苦と死という出来事を引き起こす一箇所」と認定して正しかったのか、確認していかなければならないことになるけれども、科学はそれをしてこなかった。先に書いたように、ガンが身体のなかにあっても、苦しんでおらず、かつ、死の危険が身に迫ってもいないように見えるひとは現に存在するが(数の多寡は知らない)、そうしたひとたちをまえにしながらも、科学は、ガンを「どんな場合でも、苦と死という出来事を引き起こす一箇所」とかつて決めつけたのはほんとうに正しかったのかとふり返ってみることはこれまで一度としてなかった。それどころか、そのひとたちにこう言ってきた。「お前さん、握手だ! 運がよかったね、ほうっておくと、とんでもないことになるところだったよ。命びろいしたね、ガンの早期発見、おめでとう。では、さっそk」。死の危険がこれといって差し迫っているようには見えないひとたちを、いまはまだガンが本領を発揮していない潜伏期間内にいるだけで、そのうち苦しみだして死に至るにちがいないと決めつけてきたわけである。


 ガンを「どんな場合でも、苦と死という出来事を引き起こす一箇所」であると認定したのが、このように乱暴な仕方でだったのなら、身体のなかにガンさえあれば必ず「苦と死という出来事」が近いうちに起こることになると科学が言うのはほんとうに正しいのか、と近藤さんが疑念を投げかけるのも、ごくごく当然の反応であると言えるのではないだろうか。

つづく


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