(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

物理学なりの状況把握

*『患者よ、がんと闘うな』の近藤誠さん第2回


 ここのところずっと繰り返し書いているように、科学は生きものを扱う段になると、物理学では決してしないことをしはじめる。つまり、出来事を一箇所のせいにするようになる。ふたつの疑念について考察するにあたり、出来事を一箇所のせいにするこのことが何を意味するのかから明確にしよう。


 物理学はたとえば、ビリヤード台のうえで9番ボールがどんな軌跡を描くかを説明するのに、まずそのボールに加えられる力を複数、想定する。衝突してくる白球から加えられる力、地球から加えられる重力、台表面から加えられる摩擦力と垂直抗力、台のふちに当たるときに縁から加えられる反発力(?)などなど。


 さらにそれと同じ要領で、9番ボールに力を加えてくるこれら白球、台表面、台のふちなどについても、それぞれに加えられる力を複数ずつ想定する。そのように物理学は、力という見えない関係で結ばれた、存在どうしの網の目を想像する。


 そうして、9番ボールが台のうえで描く軌跡を、9番ボールに直接または間接的に力を加えてくる存在すべてが共になす仕事と考える。


 台のうえで起こる出来事を把握するにはこのように、当の出来事に登場する存在すべて(際限がないけれども)にできるかぎり気を配らないといけないということである。逆にいえば、いろんな存在に配慮すればするほど、出来事をより正確に把握できるようになる、すなわち出来事をより正確に予想できるようになるということである。


 いま、出来事に登場する存在すべてにできる限り、配慮しなければならないと申し上げた。このように、辺り一帯にできるかぎり広く配慮することをふだん俺たちは状況把握と呼んでいる。ここでもそう呼んでいこう。


 物理学はこのように「状況把握」に努める。けっして、出来事を一箇所のせいにすることはない。ところが科学は生きものを扱いはじめると、急に出来事を一箇所のせいにするようになる。


 で、現在、受精卵が分裂をくりかえして成体になるという出来事については、細胞のなかの核と呼ばれる部分にはいっている遺伝子という一箇所のせいにしている。


 では、受精卵が成体になるという出来事をそのように遺伝子という一箇所(一箇所と言うのはおかしい表現かもしれないが)のせいにするとは、何をすることなのか。


 それは、遺伝子を、「どんな場合でも、受精卵が成体になるという出来事を引き起こす一箇所」だと見なすことである。


 科学は、病気という出来事を、あるときは脳内物質という一箇所のせいに、またあるときはウィルスという一箇所、またあるときは変異遺伝子といった一箇所のせいにしている。これはどういうことか。


 これは、その脳内物質を、「どんな場合でも、病気Lという出来事を引き起こす一箇所」とし、そのウィルスを、「どんな場合でも、病気Mという出来事を引き起こす一箇所」と、またその変異遺伝子を、「どんな場合でも、病気Nという出来事を引き起こす一箇所」とすることである。


 うつ病を一箇所のせいにするとは、うつ病のひとの脳のなかに、「どんな場合でも、うつ病という出来事を引き起こす一箇所」をさがし求めることであり、腹痛と下痢を主症状とする状態を一箇所のせいにするとは、そうした状態にあるひとの身体のなかに、「どんな場合でも、当の症状を引き起こす一箇所」(ウィルスや細菌など)をさがし求めるということである。


 科学は生物を扱う段になると、出来事を一箇所のせいにし、このように配慮するものを一箇所だけにしぼるようになる。つまり、一箇所にしか配慮しなくてもどんな出来事が起こってくるか予想できるとするようになる。


 もちろん、ビリヤード台のうえで起こる出来事を、そのように一箇所にしか配慮せずに把握しよう(予想しよう)としても無理である。まともな予想ができるはずはない。現実から置いてきぼりをくらうだけである。「状況把握」が必要であるし、現に科学は物理学をやっているときには「状況把握」に努めている。

つづく


前回(第1回)の記事はこちら。


このシリーズ(全8回)の記事一覧はこちら。