ハイデガーというと、「世界内存在」といった哲学者として有名である。「世界内存在」とは世界のうちにいることという意味である。しかし私たちひとりひとりが「世界内存在」であり、手もとの手帳やペンといった物もまた「世界内存在」であるというのはあまりにも当然のことである。ハイデガーに教えてもらうまでもないし、そんな当たり前のことをいうのが実績になって、それで世界的に有名になれるなんてと非常に不思議な気がするものである。ひょっとして世間は甘いのではないかと致命的な勘違いすらしそうである。
が、私たちを「世界内存在」として捉えようとするのはそれくらい画期的で、先鋭的なことだったのである。
しかし人によっては言うかもしれない。「確かに画期的な指摘だったんでしょうね、哲学の世界ではね。どうせ、おかしなことばっかり言っているあの哲学の世界の話しなんだ。それに昔のことに決まってます。今でも哲学なんて何の役にも立たないし、無駄にヘンなこと言っているだけだけど、ひと昔前の哲学なんてもうそれはそれは。でしょ? 今は科学があるからいいようなものの」。
けれども今現在でも、人間を研究する学問は、人間などの生き物を「世界内存在」としては認めていないのである。
誰もが信じてうたがわない脳科学でも、人間は「世界内存在」として捉えられてはいないし、むしろ「世界内存在」ではないと解するところに脳科学の真骨頂があるくらいなのである。
脳科学では、私は世界の中にいることにはなっていない。「外」にいることになっている。言わば、その世界とは「外界」である。で、「外界」をいかに知るかについて、脳科学はこう説明する。
あなたの身体のまえに机があって、そのうえにカバンが置いてあるとします。どこからか飛んできた光がそのかばんに当たります。光はそこで反射するときに、このかばんがどのようなものであるのかという情報を、仕入れるのです。そして、あなたの眼にやってきて、その情報をゆずりわたすのです。光はいわば情報屋のようなものなのです。あなたの眼からは脳にまで神経が延びています。言ってみれば、電線です。この電線を情報がつたって脳にまで行き、脳は、こうしてやってきた情報を解析します。そのようにして、「外界」にあるかばんの「コピー映像」を作成し、あなたに見させるのです。
このように脳科学が説くところによると、私が見ているのは、目の前にあるかばんではなく、そのかばんのコピー映像であり、それは私の「内」にあることになる。科学がそう言っても、現に私に見えているかばんの姿は、私の目の前にあるわけだけれども。
科学は、「外界」の外に私はあり、「外界」の外にあるこの私の中に、「外界」の映像があると説明してくれている。世界のうちに私はある(世界内存在)のではないと言っているのである。
生き物を「世界内存在」と指摘するこの当たり前のことは、未だに画期的で、先鋭な批判であり続けているのである。残念なことではあるが。
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