(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学の可能性は限界を見極められてこそ把握可能?

「科学は存在同士のつながりを切断してから考える」*1と題しました文章で先日書きましたように、科学が私たちに説明して聞かせてくれる、身体、世界、身体感覚、知覚体験(見る、聞く、匂う、味わう、触れる)、存在、関係、はことごとくすべて、実際のものとは異なります。それは鈍感でドジ、ノロマな私でもウスウスながら感づいたところです。ましてや鋭い感性と知性をお持ちの貴姉貴兄はスルッとお見とおしだったことでございましょう。現にこれまで、この件に関し、いくたりかの先達が、誠実にネバりづよく考察してこられました。

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

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存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

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知覚の現象学 1

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知覚の現象学 2

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 ところで、科学が私たちに説明して聞かせてくれる、身体、世界、身体感覚、知覚体験、存在、関係、が実際のものとは異なるとなりますと、自然と私たちの胸のうちに、ある疑問がわいて参ります。それは、そのように実際とは異なるものと考えるところに立って、いったい科学は何を、どこまでなしえるのだろうか、といった危惧まじりの疑問です。


 けれども、いままで科学が科学の限界を明示しようとしたことはつゆなかったのではありますまいか?


 むしろ科学からは、科学の可能性は無限大、科学のちからでどこまでも行けるといった意味合いの言葉をよく聞くような気がいたします。


 ひょっとして科学は、私たちに説明して聞かせる、身体、世界、身体感覚、知覚体験、存在、関係、がことごとく実際のものとは異なっているということに気づいてはいないのでしょうか。


 つまり、身体、世界、身体感覚、知覚体験、存在、関係などを実際とは別のものにすり替えてから研究をはじめるといった方法をみずからがとっていることを自覚してはいないのでしょうか。


 いったい科学のちからでどこまで行けるものなのでしょう。科学の限界はどのあたりにあるのでしょう。単に私たちが見落としているだけで、実は科学の限界がモロ、現実に、あってはならないかたちで露呈しているということはないのでしょうか。心配です。


 とても。


 みなさんはどうお考えになられますでしょう。

(了)

 

*1:2016年第5作