(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

寺田寅彦「物理学と感覚」

 みなさんはどうだろうか。以前の私はというと、事実を事実のままに捉える学問だと科学のことを思っていたのである。事実を事実のままに捉える学問だと思いこんだまま、科学の本を手にとっていた。事実を事実のままに捉える学問であれば本の中身を理解するのは、簡単ではないにしても可能だと考えていたのである。実際は、科学の本を開けるたび、ほぼ必ず、理解できそうにはない文字列にぶつかり、「なんとこれは難しい。難しい!」とうなりあげることになっていたのであるが。


 しかしあるときふと閃いた。科学というのはひょっとして、事実を事実のままに捉える学問ではなく、ひとつの思想なのではないか、と。すると力学に出会った高校一年生のころのことが不意に走馬灯のようによみがえってきた。机のうえにある本には重力が下方にかかり、逆に机からはこの本をおしかえす垂直抗力が上向きに働くのだと教わっていた。しかし、その重力や垂直抗力の存在が、私にはまわりを探しまわってみても確認できず、首をひねっていたのだった。それから数年後、時すでに遅かったが、「そういうことか、重力や垂直抗力を想定するというのは単なる方便にすぎなかったのか」と気づいたという次第なのある。


 以後、科学を理解するとは、それがどんな方便を、どういった理由で駆使しているのかを読み解くことではないかと考えるようになった。げんに物理学者・寺田寅彦も、随筆「物理学と感覚」で、方便を駆使する学問として物理学を説明しているのである。


 そこでの寺田は物理学に異議を申し立てている。この随筆は今やずいぶん時代遅れのものになっているだろう、とはゆめゆめ思うなかれ。寺田のこの異議申し立ては、物理学が物理学をやめないかぎり今日的なものであり続けるだろう。寺田はいう。われわれが事物について知るのは感覚を通してだ。しかし感覚というのは粗雑で人によって異なるものである。したがって事物を普遍的なものに読み替える必要があるわけだけれども、物理学はいまや事物をすべて普遍的なものに読み替えおわったと思い上がり、感覚、すなわち我々が知を汲みだす源泉を不当にも捨て去ろうとしているのだ、と。


 この随筆をまえにして、寺田の異議申し立てに無心で耳をかたむけるなら、物理学がひとつの方便(客観化と呼べるにちがいない)を使って事物を読み替える学問であることに私たちは気づくだろう。そしてその私たちのまえには、物理学をひとつの思想として理解する道が開けていることになるだろう。その景色こそ生前、寺田が見ていた風景ではないだろうか。

(了)


紹介1:寺田寅彦「物理学と感覚」(青空文庫


紹介2:寺田寅彦(ちくま日本文学)

寺田寅彦 (ちくま日本文学 34)

寺田寅彦 (ちくま日本文学 34)