(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

高橋源一郎『「悪」と戦う』

 いきなりですが、みなさんは悪と戦っていますか? そこのなぜか白衣を着ているキミはどうですか?


「え、僕ですか? そりゃあ、もちろん戦っていますよ! 最近はSNSでも力いっぱい、悪を批判する活動にいそしんでいます。SNSの力はすごいらしいじゃないですか!(そういう考えは古いと、筆者は思うが。) そうして僕は政治家連中を監視してます。ほんと、あいつらときたら、なっちゃいない」


 ほう。で、これがあなたのそのツイートなのですね? 拝見してよろしいのですか?


 これですね、これが、悪と戦っているとあなたが今、おっしゃったその? 


 で、私は今、彼のツイートを見ている。そしてしばらくそれを読んだ結果、彼が言うその、悪との戦いは、ハリウッドの或る種のアクション映画に似ていると考えるに至っている。世界は今まさに悪の組織によって滅ぼされようとしていて、その破滅から世界を救うために主人公が、その悪の組織と格闘し、その組織から世界を救うという、例のアレである。


 そして、白衣の彼の、こうした悪との戦いは、言外でこう言っているように私には聞こえるのである。

世界は本来、完璧なはずなんですよ。完璧になるように本来、定められてあるんですよ。にもかかわらずですね、実際の世界は、そうなってはいない。なぜだか、あなたたち、わかりますか? いやいや、そんなに悩むようなことではないですよ。答えはとっても簡単です。


世界が、本来定められたように、完璧な姿であろうとするのを妨げる何かが存在するから、現実の世界はこんなに哀しく残酷なのですよ。


そのように、世界が完璧な姿で現れようとするのを妨害するものを、何と呼ぶか知っていますか、あなた? 


そう、悪です! 


この悪さえ、この世から排除できれば、世界は何にも妨げられることなく、こころおきなく、本来、定められた完璧な姿を現すことができるようになるんだ! 


現代医療の方法論と一緒なんだよ。


病気は全て、病原のせい! だから病原を取り除く! だって病原さえなければ、人は健康で正常であったはずなのだから!


世界が哀しく残酷なのは、全て悪のせい! だから悪を取り除く! だって悪さえなければ、世界は美しい姿で現れたはずなのだから!


 こんな当たり前のことを言うのは失礼にあたるかもしれないが、もちろん、高橋源一郎さんの『「悪」と戦う』は、悪をこんなふうに考える、ハリウッド式アクション映画的な考え方に則って作られた物語では、決してないのである。


 世界が、定められた完璧な姿を現すのを妨害している悪なる存在、などというものはこの小説には出てこない。そんな、世界から取り除きさえすれば世界が一気に完璧な姿を呈するようになる悪など、この小説では想定されていない。


 最後に出てくるボス、かつて高橋さんが胸に飼っていたのではないかと私には思われる大ニヒリズムにしろ……いやいや、それはここで触れてはいけない内容だろう。


 とにかく、世界を妨害するそんな悪をこの世から排除しようとする戦いがこの小説でくり広げられることを読者は期待してはいけないし、或いは、そんな展開になるのではないかと心配しなくてもいいのである。


 それでも、この小説でランちゃん(就学前の男の子)はたしかに「悪」と戦っているし、ミアちゃん(ランちゃんと同年代の女の子)のお母さんもこの小説の外で「悪」とたしかに戦っているはずである。ランちゃんは筆者の第一子である。


 そして、小説は一見、ライトノベルであるかのように進んでいく。


「ほう、あなたの言いたいことはわかりますよ」


 今、私にそう言ったのは、先程、発言してくれた白衣の彼である。


「悪と戦う。それは、自分との戦いだと言いたいのでしょ?!」


 いかにも、そうした悪についての考え方は陳腐であるとでも言いたげに、彼は侮蔑をこめた表情で、そう決めつけた。しかし、そうではないだろう。この小説『「悪」と戦う』は、悪を自分以外の何かだけに見る考え方と共に、悪を自分だけに見る見方も同時にとらないのである。


 くどいくらい何度も繰り返し言っているように、この小説には、世界の哀しく残酷な姿の「原因」を求めようとする考え方はない。ここに描かれているのは、そうした哀しい世界が美しくなるためには、私たち一人一人自らがどうしようとすべきなのかを、つまり各人が自分の責任は何なのかを考えようとする態度なのである。


 哀しいこの世界が美しくなるために、各人が、自ら果たすべき責任を自分で考えて、果たそうとすること、それを私たちは愛と呼ぶのではないだろうか。


 陳腐なことや的外れなことを言ってすみません。

「悪」と戦う (河出文庫)

「悪」と戦う (河出文庫)

 
(了)