これは今まで誰にも言ったことのない秘密だが、私は変化球を投げることができる。それもかなり鋭い変化球を。そして、このことが私の生きる上での自負になっ……。
「それ、前に書きましたよね? もう導入部として使用済みですよ」
え、うそ?!
「高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』について書いた出だしとそっくりなんですけど」
あちゃ、忘れてた……。
「じゃ、今日は俺が代わりに出だしを書いてあげますね。この本は、翻訳者・柴田元幸さんと、小説家・高橋源一郎さんの対談を一冊にまとめたものである。本書、冒頭部分で柴田さんはこう書いている。
今日はここに翻訳者代表としてと同時に、書けない人間代表としても来ていて、書けない人間が書ける高橋さんに「どうしたら小説が書けるんでしょう」、あるいは「僕はどうして小説が書けないんでしょうか」「書ける人間と書けない人間は何が違うのだろう」という問いにお答えいただければと思ったんです*1
この本には二つの入り口があるということである。
1.小説を書ける派である高橋源一郎的入り口
2.小説は書けない派である柴田元幸的入り口
(そして後者のほうは同時に翻訳者的入り口でもある。)
しかも、人間には次の二つしかない。
A.小説を書ける人間
B.小説を書けない人間
ということは、この本は全ての人間に開かれた対談をしゅうろ」
うーん、その選択肢をあげる書き方、どこかで見たような気がするんだけどなぁ……。(まぁ、いいか、これを自分のものにして、続きを書いちゃえば。ええっと、こんな感じでいこうかな。
ここに収録されているのは、言わば、小説を書ける派と、書けない派の対談である。小説を書ける派である高橋さんが小説について、ああでもない、こうでもないといろいろ思いめぐらしているらしい気配を、この対談を読んで読者のみなさんは敏感に察知することになるだろう。その気配が、小説を書けない派である柴田さんの、小説についての揺らぎのない発言に高橋さんの発言が対置されることで、浮き彫りになっているのである。
柴田さんの小説観は落ち着いていて、堅固なもののように感じられる。恐らく、多くの読者にとって、非常に理解しやすく、共感しやすいものであるだろう。
いっぽう、高橋さんの小説観はとらえにくく、場合によっては揺らいでいるようにすら感じられるかもしれない。高橋さんの言葉を使ってこれを、柴田さんに見えている小説は「固体」であるが、高橋さんには小説が「液体」として感じられているというふうに言うこともできるだろう。
つまり、実作者である高橋さんが特別に、見えそうで見えない、小説についての未来の可能性をかいま見ようとして、目を凝らしたりシバたいたり、のぞきこんだりしているということなのである。高橋さんの目には、小説についての未来の可能性が複数、チカチカと瞬いているのが見えているのに違いない。)
「……この小説を書ける派と、書けない派は、対談の中でも触れられているようにひょっとすると、他人に興味がある派と、他人に興味がない派に近いのかもしれない。ちなみに、高橋さんは詩を書いている人には他人に興味がない人が多いのかもしれないと感じることがあるとも言っている。示唆的だ。その辺りでの『翻訳家・柴田さん=(自称)芸術家になれない者』の自分語りには個人的に俺は非常に興味深いものを覚えた。はぁ、疲れた。それ今、何してんすか!」
えっと、それから、と……えっ、あっ、何!
「ブログエントリを削除しようとしてたんでしょ? なんで?」
えー、いや、だって、この対談読むと、もっともっともっと恥ずかしくなってきちゃって。この対談、アメリカ文学を通して高橋源一郎の作品を語っているわけだし、深いですよ。それに比べて、この的外れな私の文章は……。
「いいじゃないですか、文章で書かれたものの大半は間違いだらけなんですから。それにしても、この対談、面白いな。
第一章『小説の書き方』は、柴田さんが高橋さんにインタビューしたもの、第二章『小説の訳し方』は逆に高橋さんがインタビューしたものである。そして、第三章『小説の読み方 海外文学篇』と第四章『小説の読み方 日本文学篇』ではそれぞれが選んだ『小説30選』を話題の中心に話を進めていく、と。
いっちょあがり、朝飯前。Bacchusさんのブログエントリならこんなもんだろ」
ピンポーン。
はいはーい。あ、宅配だ。
「買ったの、本ですか?」
うん、まぁ……。
「あ、さっそく、小説30選の中から選んだんでしょ? そうでしょ?」
教えない……。
*1:同書、17頁