(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』

 誰にも言ったことはないが、私はかなり鋭い変化球を投げることができる。比喩で言っているのではなく、正真正銘、野球のあの変化球を投げられるのである。こんな私でも日々なんとか生きていけるのは、鋭い変化球を自分は投げられるのだという密かな自負があってこそなのである。おそらく。


 右投げの私が今一番投げたいのは、右バッターに対してのカーブである。私のカーブに対して、これまで、腰を引かなかった右バッターは一人もいない。私のカーブは、手元から離れてしばらくの間は、右バッターの身体のほうに勢い良く向かっていく。で、打者は自分の身体にボールが当たると思って腰を引く。が、私はその姿を、私の投げたボールが彼に当たるはずはないと思いながら見ている。そして、実に、バッターと私のこの、ボールを見る見方の違いが、その時の私にはなんとも印象深く感じられているわけなのである。


 未来をどう予想するかで、今現在のボールが、どういう過程にあるものと見えるか、変わってくる。ボールが同じ位置にあっても、打者にとってはデットボールになる球と見え、投げた私には、ストライクになる球と見えるのである。


 今現在の文学も、未来の文学をどう見るかで、どういう過程にあるものと見えるかが、変わってくるのではないだろうか?

 この国の「文学史」、あるいは「文学」について、ずっと考えてきたこと、いまも考えていることが、この本の中心になっている。この国の「文学」は、かつてない変化のただ中にあること、その未来を覗いてみること、それらを念頭に置きながら、この本は作られた。結論はまだ先にある。ただ考えるだけではなく、ぼくもまた、小説を書くということを通して、「文学」の未知の未来に入ってゆきたいと思う*1


 では、どのようにして高橋さんは文学の「未来」を見ようとするのか? 彼は言う。

「『過去』なんてないんじゃないかな。五十年前も、百年前も、みんないまと同じようなことを考えて小説を書いていたんじゃないかな。小説は、進歩もしてないし、退化もしてないし、要するに、あまり変わってないんじゃないかな。なんか、そんな気がする」*2


 そして、彼は文学の「未来」を見るために、同書でこんな方法をとる。

 わたしは、この本の中で、「過去」の小説を、その「評判」から取り戻そうと思いました。陳列されているガラスの棚から脱走するよう、説得してみることにしました。要するに、「過去」で眠っているのを止め、起きて、現在に遊びに来るよういったのです。


 そして、「現在」の小説には、その逆に、「過去」に行って、「過去」の小説と遊んで来るよう命じたのでした*3


 彼は小説『日本文学盛衰史』でも、そういう遊びをしていた。そこでは、二葉亭四迷が、漱石が、啄木、花袋が現代と過去とを行ったり来たりしていた。いっぽう、この『大人にはわからない文学史』では、樋口一葉綿矢りさ石川啄木赤木智弘とが、それぞれの生きている時間を入れ替える。


 例えば、石川啄木は、私たちが今生きているこの「現在」についてこう書く。

時代閉塞の現状は啻に(ただに)それら個々の問題に止まらないのである。


今日我々の父兄は、大体において一般学生の気風が着実になったと言って喜んでいる。しかもその着実とは単に今日の学生のすべてが在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったという事ではないか。


そうしてそう着実になっているに拘らず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。


しかも彼等はまだまだ幸福な方である。前にも言った如く、彼等に何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。


中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼等は実にその生涯の勤労努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取る事が許されないのである。


無論彼等はそれに満足するはずがない。かくて日本には今『遊民』という不思議な階級が漸次その数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼等の事業は、実に、父兄の財産を口減らす事と無駄話をする事だけである。


 彼は、フリーター或いは、ニート、もしくはひきこもりと呼ばれている人たちをこのように「遊民」と呼び……いや、啄木は、「彼が生きていた」現在についてそう書いただけである。


 この「時代閉塞の現状」(こちらからダウンロード可)という評論(上に引用したのはその一部)は、明治43年(1910)年の東京朝日新聞文芸欄に出るはずのものだったのである(iPhoneでは、青空文庫のアプリをダウンロードすれば読めます、きっと)。


 こうした、過去と現在を入れ替える遊びを通して、文学のどんな未来が見えてくるのだろう? 今現在の文学はどう見えてくるのか?


 では、著者と『大人にはわからない文学史』で一緒に試行錯誤をどうぞ。

(了)

 

*1:同書あとがき203頁

*2:同書6頁

*3:同書6-7頁