(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

機械なんかでは決してないことが明らかな身体を科学が機械と決めつける、嗚呼、あの不幸な瞬間(3/6)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.6】

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.53


◆科学が、機械ではない身体を機械と見なす瞬間

 ずっとまえのところで、身体がほんとうは機械ではないことを確認しておきました。はじめにもう一度そのことを確認します。

 

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身体がほんとうは機械ではないことを確認した場所はこちら。

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 いま俺の頭のてっぺんから足の先まで、「感覚」がひと連なりになっていますが、そのひと連なりになった「感覚」が占めているのとほぼおなじ場所を、髪の毛、爪、皮膚、脂肪、筋肉、血、骨、靱帯、臓器といった「物」もまた占めています。


 身体というのは、このように、ほぼおなじ場所を占めている感覚とを合わせたもののことであるということでした。身体には、ただの物にすぎない機械にはない「感覚」というものが、認められるということでした。


 そして、そのふたつのうちの「感覚」のほうを「身体の感覚」、もういっぽうの「物」のほうを「身体の物」(カラダ・ノ・ブツ)と呼ぶことにしましたよね。


 しかし、このように、どう考えてみても機械なんかでは決してないにもかかわらず、身体は、科学のように、事のはじめに「絵の存在否定」「存在の客観化」というふたつの存在改悪作業を立てつづけに為すと、機械としか考えられなくなります。


 そのことを、ここからは左手を例に考察していきます。いま俺が自分の目のまえに自分の左手をかざしているものとひとつ想像してみてくれますか。






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機械なんかでは決してないことが明らかな身体を科学が機械と決めつける、嗚呼、あの不幸な瞬間(2/6)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.6】

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.53


◆存在の客観化(作業2)

 ついで、科学は「存在の客観化」と俺が名づけた存在改悪作業をつづけざまに為し、存在(物、音、匂い、味、身体等)を、一瞬一瞬答えるものから、答えることのないものにすり替える。「他のものたちと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに。


 すなわち「ただただ無応答でそこに在るもの(客観的なもの)」にすり替える。


 では、その「ただただ無応答でそこに在るもの」とは具体的には何かというと、それは、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小の何か(元素という名で、その存在を想定されてきたもの)の寄せ集め、ということでした。


 そうして科学は、心の外に実在しているのは「どの位置を占めているかということと、「どんな力をもっているかということしか問題にならないこの世の最小の何か元素だけということにする、とのことでしたね(これをと名づけておきます)。

 

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この作業を見た場所はこちら。

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 以上、いまざっと再確認したところを念頭に置きながら(①と②を使いながら)、これから、機械ではない身体を科学が機械にすぎないと決めつける不幸な瞬間を、まざまざと目撃していきます。






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機械なんかでは決してないことが明らかな身体を科学が機械と決めつける、嗚呼、あの不幸な瞬間(1/6)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.6】

*短編集「統合失調症と精神医学の差別」の短編NO.53

目次
・科学が事のはじめに為すふたつの存在改悪作業
・絵の存在否定(作業1)
・存在の客観化(作業2)
・科学が、機械ではない身体を機械と見なす瞬間
・左手を例に考察する
・身体全体を考える


◆科学が事のはじめに為すふたつの存在改悪作業

 機械ではない身体を、なぜ医学が機械と見なすのか、それをいままさに確認しようとしているところです。


 機械ではない身体を機械と見なすそのボタンの掛け違いが、医学に深刻な帰結をもたらしてきたことは、先に確認しておきましたよね。少なくないひとたちが、そのおかげで医療から理不尽な損害をこうむってきた、ということでした。

 

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理不尽な損害1

理不尽な損害2

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 そのボタンの掛け違いが起こる瞬間をちょうどいまから目の当たりにしていきます。


 でも、そのまえにここまでの流れを簡単に確認しておきましょうか。こういうことでしたね。


 科学は事のはじめに「絵の存在否定」「存在の客観化」と俺が呼ぶ、ふたつの作業を立てつづけに為し、存在を改悪する。


◆絵の存在否定(作業1)

 まず前者の「絵の存在否定」という作業を為すことによって、科学は、俺が現に体験しているもの一切を、たとえば、俺が現に目の当たりにしている物の姿や、現に聞いている音、現に嗅いでいる匂い、現に味わっている味などをことごとくみな、俺の心のなかにある像にすぎないことにする(これをと名づけます)。


 そして、それを、俺の脳が作り出したものであるということにする。


 で、俺の心の外にほんとうに実在しているのは、見えることも、聞こえることも、匂えることも、また味わえることも絶対にない何か、そう、「のっぺらぼう」な何かであるということにする。俺の脳は、先に言及した、心のなかの像を、心の外に実在しているこの「のっぺらぼう」な何かについての情報から、作り出す、ということにする。

 

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この作業を見た場所はこちら

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2023年2月1日に文章を一部修正しました。


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科学は、外界に実在しているのは、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも一切叶わない「のっぺらぼう」であると言うが、それは果してどんなものか(6/6) 【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.5】

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.52


 ここまで、電柱を例に、「絵の存在否定」「存在の客観化」という、科学が事のはじめに為すふたつの存在改悪作業を見てきました。それら作業の結果、電柱は、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小の何か(元素という名で想定されてきたもの)の寄せ集めにすぎないことになる、とのことでしたね。


 もちろん科学はこれらふたつの作業を、電柱のみならず、この世にあるその他すべての物にも為します。また、音にも、匂いにも、味にも、身体にも、その他一切、この世に在るすべてのものに為します。


 その結果、心の外には、「どの位置を占めているかということと、「どんな力をもっているかということしか問題にならないこの世の最小の何か元素しか実在していないということになります。


 音は、実はみなさんが耳にして楽しんだり鳥肌を立てたりするあの音のことではなく、空気の振動(元素の運動)のことにすぎなくなります。


 匂いは、みなさんが嗅いで食欲の増進を覚えたり、あるいは鼻をつまむに至ったりするあの匂いのことではなく、匂い分子(元素の寄せ集まり)のことに、味は、みなさんが口のなかいっぱいに広がることを楽しみにしたりするあの味のことではなく、舌の上にのった味物質(元素に寄せ集まり)のことにすぎなくなります。


 何度もくり返しますように、この世界は、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小の何か(元素)が複数、宇宙と呼ばれるひとつの大きな空間のなかに入っているにすぎないものであることになります。


 まさにそれが、物理学の基本的な世界観なのではないでしょうか。


 次回、機械なんかであるはずのない身体が、科学に、機械と見なされるに至る決定的な瞬間を、目の当たりにします。






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科学は、外界に実在しているのは、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも一切叶わない「のっぺらぼう」であると言うが、それは果してどんなものか(5/6) 【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.5】

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.52


◆原子に色はついているか

 以上、「存在の客観化」という存在改悪作業の結果、電柱は、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小の何かの寄せ集めにすぎないことになりました。その最小の何かが、元素という名をつけられ、想定されてきたのではないかということでしたね。


 ちなみに、電柱をこのように、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小の何か(元素)の寄せ集めと見なすことが、現実離れしていることを、原子を例に最後少し見ておきます。


 そうした最小の何か(元素)として、ときに原子が考えられることがありますね。


 電柱は実際のところ、一瞬一瞬答えるものです。「他のものたちと共に在にあたってどのようにあるか」という問いに。


 電柱は肉眼で見ると、ふだんみなさんが目にするあの灰色の姿をとります。いっぽう、電子顕微鏡で見ることも可能(どのように見るのか知りませんが)で、そうしたときは、ふだんみなさんが目の当たりにする姿とは別の、いわばミクロな、とでも形容すべき姿を、とります。たとえば原子の寄せ集まった姿がそれですね(俺にはその辺りのことはよくわかりませんが)。


 電柱は、みなさんが肉眼で見れば、いわゆるマクロな姿をとり、電子顕微鏡で見れば、原子の寄せ集まったミクロな姿をとるということですけど、そのふたつの姿はもちろんどちらも、電柱のほんとうの姿です。どちらかのみが本物で、もういっぽうはニセモノだということはありません。電柱を上空から斜め下に見下ろしたときに見える「頭でっかちの姿」も、はたまた地上で20メ―トル離れたところから見る「細い棒の姿」も、どちらもその電柱のほんとうの姿であるように、肉眼で見た電柱のマクロな姿も、電子顕微鏡で見たその電柱の原子の寄せ集めとしてのミクロな姿も、ともに、その電柱のほんとうの姿です。


 だけど、科学は「存在の客観化」という存在改悪作業を為し、マクロな姿をすべてニセモノ扱いしてきたわけです。「電柱にほんとうは属していない性質」であるということにして。みなさんの心のなかにある主観的要素にすぎないということにして。


 でも、科学がニセもの扱いするのは、実はそうしたマクロな姿だけではありません。ミクロな姿のほうも、ニセもの扱いしてきました。あくまで原子は科学にとっては、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも一切叶わない、いわゆる「のっぺらぼう」です。原子の寄せ集まった姿が、電子顕微鏡で見えても、その「見える姿」もまた、科学に、ニセもの扱いされてきたということです。






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科学は、外界に実在しているのは、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも一切叶わない「のっぺらぼう」であると言うが、それは果してどんなものか(4/6) 【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.5】

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.52


◆外界に実在しているのは元素だけという科学の基本アイデア

 でも、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力をもっているか」ということしか問題にならないものとは具体的には一体何なのでしょうか?


 ちょっとよく考えてみてくださいよ。電柱といっても、その各部分同士には違いがありますね?


 たとえば、劣化具合が部分部分によって異なりますね? ある部分は腐食度が強いが、他の部分はそうでないとか。あるいは一部分だけ変色しているといったこともありますね? 電柱まるまる一本を一単位として見ると、それはどの部分もおしなべてひとつのおなじ力をもっているということになりますけど、そう考えると、いま挙げたような部分同士のあいだの違いは説明できなくなりますね?


 そこで、そうした部分間の違いを説明するためにも、科学はおのずと、電柱を細分化していき、各部分を別もの(別単位)同士、すなわち、もっている力が異なっているもの同士と見ることになります。


 で、その細分化の末、たどり着くと思われた最小のもの(それ以上細かくできないもの)、すなわち、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小の何かこそがまさに、元素、という名で想定されてきたものではないでしょうか。






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*これのpart.1はこちら(今回はpart.5)。


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科学は、外界に実在しているのは、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも一切叶わない「のっぺらぼう」であると言うが、それは果してどんなものか(3/6) 【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.5】

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.52


◆関係は自律的なものである

 そうですね、先ほど確認しましたね。電柱は一瞬一瞬答えることによって、他のものたちと関係しているということでしたね。「他のものたちと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、ね? すなわち、その関係は、「電柱による自律的なもの」であるということでしたね。


 だけど、事のはじめに「存在の客観化」を為し、その電柱を「ただただ無応答でそこに在るもの」であることにする科学には、電柱の、他のものたちに対する関係をこのように「電柱による自律的なもの」と見ることはもはやできないということでした。


 これは、別の言い方をすると、科学は電柱の、他のものたちに対する関係を、裏返しにして考えるしかないということです。


 電柱はそのありようを、他のものたちによって律せられる、という他律的なかたちで他のものたちと関係しているんだ、というふうに。


 つまり、他のものたちが、力というものを発揮して、電柱のありようを律する(操る)、と考えるしかないということです。


 この他律的な関係*1というものこそ、古来、因果関係という名で呼ばれてきたものではないでしょうか。


 さあ、いま、科学が捏造してきた関係を確認し終わりました。各存在は他のものたちと関係するために、互いに力なるものをもつことになったということでしたね。


 したがって、そんな科学のもとでは、電柱は、「どの位置を占めているかということと、「どんな力をもっているかということしか問題にならない何かであることになります。






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*1:関係はほんとうは自律的なものであって、この「他律的な関係」という表現は、「夜の朝食」みたいに実は意味をなしませんが。