(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学は、外界に実在しているのは、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも一切叶わない「のっぺらぼう」であると言うが、それは果してどんなものか(5/6) 【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.5】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.51


◆原子に色はついているか

 以上、「存在の客観化」という存在改悪作業の結果、電柱は、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小の何かの寄せ集めにすぎないことになりました。その最小の何かが、元素という名をつけられ、想定されてきたのではないかということでしたね。


 ちなみに、電柱をこのように、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小の何か(元素)の寄せ集めと見なすことが、現実離れしていることを、原子を例に最後少し見ておきます。


 そうした最小の何か(元素)として、ときに原子が考えられることがありますね。


 電柱は実際のところ、一瞬一瞬答えるものです。「他のものたちと共に在にあたってどのようにあるか」という問いに。


 電柱は肉眼で見ると、ふだんみなさんが目にするあの灰色の姿をとります。いっぽう、電子顕微鏡で見ることも可能(どのように見るのか知りませんが)で、そうしたときは、ふだんみなさんが目の当たりにする姿とは別の、いわばミクロな、とでも形容すべき姿を、とります。たとえば原子の寄せ集まった姿がそれですね(俺にはその辺りのことはよくわかりませんが)。


 電柱は、みなさんが肉眼で見れば、いわゆるマクロな姿をとり、電子顕微鏡で見れば、原子の寄せ集まったミクロな姿をとるということですけど、そのふたつの姿はもちろんどちらも、電柱のほんとうの姿です。どちらかのみが本物で、もういっぽうはニセモノだということはありません。電柱を上空から斜め下に見下ろしたときに見える「頭でっかちの姿」も、はたまた地上で20メ―トル離れたところから見る「細い棒の姿」も、どちらもその電柱のほんとうの姿であるように、肉眼で見た電柱のマクロな姿も、電子顕微鏡で見たその電柱の原子の寄せ集めとしてのミクロな姿も、ともに、その電柱のほんとうの姿です。


 だけど、科学は「存在の客観化」という存在改悪作業を為し、マクロな姿をすべてニセモノ扱いしてきたわけです。「電柱にほんとうは属していない性質」であるということにして。みなさんの心のなかにある主観的要素にすぎないということにして。


 でも、科学がニセもの扱いするのは、実はそうしたマクロな姿だけではありません。ミクロな姿のほうも、ニセもの扱いしてきました。あくまで原子は科学にとっては、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも一切叶わない、いわゆる「のっぺらぼう」です。原子の寄せ集まった姿が、電子顕微鏡で見えても、その「見える姿」もまた、科学に、ニセもの扱いされてきたということです。






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