(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

快さや苦しさが何であるか明らかになるまで

*科学するほど人間理解から遠ざかる第8回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということである*1と最初に申しましたところを、ここまで補足解説してきました*2


 みなさんにご理解いただけるよう俺はおしゃべりできていたでしょうか。ちょっと論理的に考えさえすれば、ぼんやりしている俺みたいな者にでも、快さを感じているとか苦しんでいるというのがどういうことか理解し得るということを、たどたどしくとはいえ、みなさんにお目にかけることができたんじゃないか、とウヌぼれていますが、いかがでしょうか。


 さて、再度、久方ぶりに申します。西洋学問ではこれまで、快さや苦しさは何であるか理解されてきませんでした、と。


 だって、西洋学問で、快さや苦しさが、ご説明申し上げてきたようなものとして説明されているのをみなさんご見聞になったこと、一度もおありではないじゃありませんか。


 なぜ西洋学問では快さや苦しさが何であるか理解されてこなかったのか?


 つぎに明らかにしなければならないのはこのことです。


 そのためにいまからまず、快さと苦しさを、ご説明申し上げてきたようなものとして俺が理解するに至った道筋を、ワタクシ事で恐縮ですが、みなさんにごらんいただきます。そのあと、西洋学問ではその道をどこで踏みはずし、快さや苦しさが理解できなくなったのか確認します。


 数十年前、俺は悩んでいました。ひとが痔瘻に悩むときくらい切実に、です。科学による人間説明はひょっとするとまったく的外れなんじゃないか、もしかすると科学にはそもそも人間を理解することは不可能なんじゃないか、と。けれどもそう悩むいっぽうで、科学を疑っている自分のほうがただ誤っているだけなんじゃないかと疑われてもいました。


 そんなあるときのことです、書店で、メルロ=ポンティという名のフランスの哲学者に出会ったのは。

行動の構造

行動の構造

 
知覚の現象学 1

知覚の現象学 1

 
知覚の現象学 2

知覚の現象学 2

 
見えるものと見えないもの

見えるものと見えないもの

 


 その場でパラパラと中身をめくっただけで彼と意気投合した俺は彼を家にお連れし、以後、一日5ページずつお話をお伺いする日々を長らく過ごすことになりました。で、そうしているうち確信するようになったわけです。そもそも科学には人間は理解できないんじゃないかと自分が疑っているのはすこッしも的外れなんかじゃない、と。


 同時に、人間をまともに理解できるようになるためには、物を見る、というのがどういうことか確認しなおすところからはじめなければならない、とも(メルロ=ポンティの有名な著書のタイトルが『知覚の現象学』であることを、みなさんには必要無いとは思いますが一応、そっと申し添えておきます)。


 そして、実際に物を見るというのがどういうことか確認しなおすところからはじめた結果、アレヨアレヨという間に、快さや苦しさが先にご説明申し上げたようものであると理解できるようになったという次第です。


 物を見るというのがどういうことか確認しなすところからはじまるその道筋をこれからみなさんと一緒に見て参ります

つづく


前回(第7回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:何度も申し上げるのは恐縮しますが、ここはつぎのようにも表現できると再度申し上げておきます。快さを感じているというのは、「今どうしようとするか」という問いをかなり解決しているということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか」という問いをあまり解決していないということである。

*2:第3回


第4回


第5回


第6回


第7回

快さとは何か、苦しさとは何か、実例を挙げてご確認いただく②

*科学するほど人間理解から遠ざかる第7回


 今度は、苦しさについてご確認いただきます。


 ご自身が強い苦しみをお感じになっている瞬間をひとつご想像ください。


 足の小指をタンスの角でぶつけられた直後の一瞬でも、腹痛を脂汗まみれで堪えておられるときでも、あるいは世のなかの不正に憤っておられるときや、生きることの悲しさを身にしみてお感じになっているとき、または肩身の狭い思いをしておられるときや、寒くてもしくは誰かに会いたくてガタガタ震えておられるときでも何でもかまいせません。


 その他、つぎのように表現される瞬間をご想起くださってもモチけっこうです。気持ちが悪い、具合が悪い(具合の悪さを感じている)、調子が悪い、めまいがしている、ふらふらしている、(手足が)かじかんでいる、ふるえている、寒い、痛い、冷たい、暑い、息苦しい、緊張している、淋しい、不安を感じている、心配している、落ち着かない、迷っている、焦っている、恥ずかしい、気がとがめている、針のむしろである、鬱々としている、窮屈である、気が散っている、意欲がない、退屈している、疲れている、呆然としている、怖い、自分を責めている、力が入らない、だるい、かゆい、ムズムズしている、イライラしている、驚いている、腹が空いている、喉が渇いている、悶々としている、フワフワしている、しびれている、気が遠くなっている、現実感が薄い、能動感がない等々。


 ともかく、強い苦しさをお感じになっている場面をひとつご想像ください。


 そのように強い苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしていない」ということであると表現できはしないでしょうか。「今どうしようとするか、はっきりしていない」ほど、より強い苦しみを感じていると言えはしないでしょうか*1


後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

  • 変更前:09:00
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ひとつまえの記事(①)はこちら。


前回(第6回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:ここもこう申せます。そのように強い苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか」という問いがかなり解決していないということであると表現できはしないでしょうか。「今どうしようとするか」という問いが解決していないほど、より強い苦しみを感じていると言えるのではないでしょうか、と。

快さとは何か、苦しさとは何か、実例を挙げてご確認いただく①

*科学するほど人間理解から遠ざかる第7回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると、精魂こめて確認してきました *1


 せっかくです、快さと苦しさがそれぞれそうしたものであることを、例をもちいて、順にご確認いただくとしましょう。


 みなさん、ご自身が強い快さを感じておられる瞬間をひとつ思い描いてごらんください。「うまいうまい」と夢中で食事を楽しんでおられる瞬間でも結構ですし、温泉につかっておられる至福の瞬間でも、あるいは温泉からあがられたあと、腰に手を当ててフルーツ牛乳をお飲みになっている瞬間でも、また夜、布団にお入りになったときのあの超絶気持ちいい瞬間や、仕事が終わった直後の開放感ハンパない瞬間でも、かまいません。


 えっあっ、もちろん、セクシュアルな瞬間をお挙げになってもまったくさしつかえありません……そのほか、つぎのように表現される瞬間をご想起くださってもなんら問題ありません。具合が良い(具合の良さを感じている)、調子がいい、楽しい、リラックスしている、安心している、伸び伸び(と何かを)している、夢中になっている、集中している、没頭している、喜んでいる、嬉しい、意欲がみなぎっている、燃えている(ガッツポーズしているときなど)、しゃきっとしている、すっきりしている、見とれている(美を感じている)、聞き惚れている(美を感じている)、いい匂いを嗅いでいる、うっとりしている、ほっとしている、迷いがない、生きがいを感じている等々。


 ともかく、強い快さを感じておられる瞬間をひとつ、ご想像ください。


 そのように強い快さをお感じになっているというのは、「今どうしようとするか、極めてはっきりしている」ということであると言えはしないでしょうか。「今どうしようとするか、はっきりしている」ほど、快さをより強く感じていると言えるのではないでしょうか*2


 どうでしょうか、みなさん?


前回(第6回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:ここはつぎのようにも表現できると申しました。快さを感じているというのは、「今どうしようとするか」という問いをかなり解決しているということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか」という問いをあまり解決していないということである。

*2:ここはこうも申せます。そのように強い快さをお感じになっているというのは、「今どうしようとするか」という問いがとても解決しているということであると言えはしないでしょうか。「今どうしようとするか」という問いが解決しているほど、快さをより強く感じていると言えるのではないでしょうか、と。

快さとは何か、苦しさとは何か②

*科学するほど人間理解から遠ざかる第6回


「〜中」とか「〜している/していた」といった表現はこのように、「〜しようとしている/しようとしていた」と言い換えられます。したがって、生きておられるあいだどの瞬間でもみなさんが身をもってお答えになる、「今を・どういった・出来事の最中とするか」という問いも、「今・どう・しようとするか」という問いであると言い換えられます(「今」という言葉で「今という一瞬」を指している旨、くどいですが、再確認お願いします)。


 さて、先につぎのことを確認しました。

.生きておられるあいだみなさんはどの瞬間でも、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもってお答えになる。

.身をもって「今」を出来事の最中とすることこそ、行動とか行為とか運動とかとよばれるものである。

.身をもって「今」を出来事の最中とする堅固さが強ければ、快さを感じていると表現し、身をもって「今」を出来事の最中とする堅固さが弱ければ、苦しさを感じていると表現する。


 で、ちょうどいま確認しましたとおり、みなさんが生きておられるあいだ一瞬ごとに身をもってお答えになる「今を・どういった・出来事の最中とするか」という問いは、まったく意味を変えずに、「今・どう・しようとするか」という問いであると言い換えられるとのことでした。


 となりますと、こう申せます。

.みなさんは生きておられるあいだどの瞬間でも、「今・どう・しようとするか」という問いに身をもってお答えになる。

.身をもって「今・しようとしている」ことこそ、行動とか行為とか運動とかとよばれるものである(身をもって「今・なにを・しようとしている」かを言えば、どんな行動をしているか表現していることになる)。

.そのように身をもってお答えになっているときに「今どうしようとするか、かなりはっきりしてい」れば、快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていな」ければ、苦しさを感じていると表現する*1

つづく


後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

  • 変更前:07:00
  • 変更後:07:05


ひとつまえの記事(①)はこちら。


前回の記事(第5回)はこちら。


それ以前の記事はこちら。

第1回(まえがき)


第2回(まえがき+このシリーズの目次)


第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)


第4回


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:ここはつぎのように表現したほうがわかりやすいでしょうか。 

「今どうしようとするか」という問いをかなり解決していれば、快さを感じていると言い、「今どうしようとするか」という問いをあまり解決していなければ、苦しさを感じていると表現する、と。

 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか」という問いをかなり解決しているということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか」という問いをあまり解決していないということであるといった言い方をすることもできるように思われます。 

 ただし本文中では、こうした「問いを解決している/解決していない」といった言い方の代わりに、身体感覚の感じをより連想させる「はっきりしている/はっきりしていない」といった表現をもちいました。

快さとは何か、苦しさとは何か①

*科学するほど人間理解から遠ざかる第6回


 冒頭でいきなり、快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると申し上げ、みなさんにマメ鉄砲を喰らわしてしまったあと、汚名返上(?)とばかりにその補足解説に努めているところです。


 先ほどこういったことを確認しました(以下、「」というひと言で、「今という一瞬」を表現しているものと、引きつづきお考えください)。みなさんは生きておられるあいだどの瞬間でも、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもってお答えになる。そうして身をもって「今」を出来事の最中とする堅固さが強ければ、快さを感じていると言い、身をもって「今」を出来事の最中とする堅固さが弱ければ、苦しさを感じていると言うのである、と。


 これを、もっとくだけた表現に言い直してみます


 みなさんが生きておられるあいだどの瞬間でも身をもってお答えになる問いを、「今をどういった出来事の最中とするか」と表現してきました。まずこれを意味はそのままで言い換えます。


 先刻みなさんにこう申しました。ご自身のいまこの瞬間の状態を俺にご教示くださいとお願いしますと、みなさんはきっと、会話中である、食事中である、「おたくの話を聞いている最中ですよ」といったように「〜中」とお答えになるか、会話をしている、食事をしている、「安心してください、おたくの話、聞いていますよ」といったように「〜している」とお答えになるのではないでしょうか。またみなさんの過去のある一瞬の状態についてお尋ねしても、やはり「〜中」もしくは「〜していた」といった表現をもちいてお答えくださるのではないでしょうか、と。


 しかしひょっとすると、そのように「会話中である」とか「会話をしている」とお答えくださる代わりに、「相手と和解しようとしている」とお答えになったり、「食事中だった」とか「食事をしていた」とお答えくださる代わりに、「通学・通勤しようとしていた」とお答えになる、もしくは、「おたくの話を聞いている最中ですよ」とか「おたくの話、聞いていますよ」とお答えくださる代わりに、「おたくをねウフフ完膚なきまでに叩きツブそうとしているんですよ」とお答えになったりする、といったようにみなさん、「〜しようとしている/〜しようとしていた」といった文末表現をもちいてお答えくださったかもしれません。


 これはどういうことでしょうか。


 みなさんは生きておられるあいだどの瞬間の状態を俺にご教示くださるときにも、「会話中」であるとか「食事をしていた」とか「話を聞いている」といったように、渦中におられる(おられた)出来事(会話、食事、聴取)に着目して「〜中」もしくは「〜している/していた」と表現なさることもおできになるが、渦中におられる(おられた)出来事の行き着く先(和解、登校・出社、全否定)に着目して「〜しようとしている/しようとしていた」といったふうにおっしゃることもできる、ということです。


 たとえば「会話中(会話している)」というのは、渦中にある会話という出来事の行き着く先である相手との和解を表現のなかに入れ、「相手と和解しようとしている」といったふうにもおっしゃれますし、「食事中(食事をしていた)」というのも、渦中にある食事という出来事の行き着く先である登校・出社を表現に反映して、「通学・通勤しようとしている」とおっしゃれます。「おたく(俺のこと)の拙い話を聞いている最中(聞いている)」というのも、渦中におられる聴取という出来事の行き着く先である俺にたいする全否定に着目して、「おたくを完膚なきまでにブチのめそうとしている」と表現なさることもおできになるというわけです。


前回(第5回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

みなさんは身をもって「今」を、出来事の最中としつづける

*科学するほど人間理解から遠ざかる第5回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると最初に申し上げましたところをみなさんにご理解いただくべく、補足解説させていただいている最中です(「」という言いかたで「今という一瞬」を表現しようとしている旨、ご理解ください)。


 ちょうどいま、こう確認しました。みなさんは生きておられるあいだ、どの瞬間でも「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもってお答えになる、と。


 ではちょっとみなさん、ご自身が、俺の家に、駅もしくはバス停から歩いていらっしゃる場面をご想像くださいますでしょうか。そうして歩いておられるあいだのどの一瞬をとっても、みなさんが、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもってお答えになっていることをまずご確認ください。


 どの瞬間でもみなさんが身をもって「今」を、俺の家へ歩いていくという出来事の最中となさっているのをご確認くださいましたでしょうか。


 このように身をもって「今」を出来事の最中とすることを、行動とか行為とか運動とかとよぶんじゃないかとは先に申しましたとおりです。


 しかし、です。招待された俺のお誕生日会に出席しようとなさっているその場面のみなさんは、俺の自宅会場に向け、果してどのように歩いておられるのでしょう。想像力に乏しい俺にでもすぐにつぎの三つの可能性くらいは思いつきます  

  1. 行くか帰るか迷いながらお歩きになっている。
  2. 重い足どりでイヤイヤお歩きになっている。
  3. ウキウキした気分でお歩きになっている(ずっとこの日を楽しみにしておられた)。


 これら以外にも可能性は考えられるかもしれませんが、いまからこの三つをもちいてひとつ、快さと苦しさについて考察させてください。


 この3つのいずれの場合であっても、みなさんが終始、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに身をもってお答えになっていることに変わりはありません。みなさんはいずれの場合でも、駅もしくはバス停を立たれてから、俺の自宅にお着きになるまでのあいだずっと、身をもって「今」を、俺の家へ歩いていくという出来事の最中とされつづけます。ですが、これら3つの場合同士のあいだには、ちがいがあります。


 何がちがっているでしょう?


 身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中となさる意気込みと申しますか、堅固さと申しますか、没入度と申しますかが、ちがっていると申し上げられるのではないでしょうか(以後、堅固さ、という言い方をもちいていきます)。


 再度、上記1から3をご想像ください。


 ウキウキした気分でお歩きになっている3の場合、みなさんが身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中となさっているその瞬間その瞬間の堅固さは、かなりゆるぎがないと言えそうであるいっぽう、1の場合はどうでしょう。みなさんはお歩きになっているあいだ終始、行くか帰るか迷っておられます。身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中となさる堅固さはどの瞬間でも、俺の生活のようにひどくグラついていると申せます。


 水のなかをお歩きになっているかのように足どりが重い、イヤイヤお歩きになっている2はどうでしょう。その場合でも、身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中となさっているその瞬間その瞬間の堅固さは、ウキウキとお歩きになっている3の場合と比べてはるかに弱いと言うべきではないでしょうか。


 では、身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中とする堅固さが強かったり(3)、弱かったり(1と2)するといったこうしたちがいは何を意味するのでしょう


 3の場合ではみなさんウキウキとした気分でお歩きになっています。快さをお感じだと申せましょう。かたや、行くか帰るか迷っておられる1の場合や、イヤイヤお歩きになっておられる2の場合、みなさんは苦しんでおられると申し上げられるように思います。


 身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中とする堅固さが強いか弱いかというちがいは、快さを感じているか苦しさを感じているかというちがいに相当するのではないでしょうか。


 つまり、快さを感じているというのは、身をもって「今」を、出来事の最中とする堅固さが強いということであり、かたや苦しさを感じているというのは、身をもって「今」を、出来事の最中とする堅固さが弱いということなのではないでしょうか。

つづく


前回(第4回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

みなさんは生きておられるあいだ、毎瞬、何をなさっているか

*科学するほど人間理解から遠ざかる第4回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると申しました。快さを強く感じていればいるほど、「今どうしようとするか、よりはっきりしている」と言え、苦しさを強く感じていればいるほど、「今どうしようとするか、よりはっきりしていない」と言えるとのことでした。


 俺がいったい何を申し上げているのか、いまから補足解説させていただきます


 先ほど、「」という言いかたで、「今という一瞬」を表現することにしますと宣言申し上げたことをここであらためてご想起のうえ、以下お聞きください。


 いきなりですが、みなさん、いまこの瞬間のみなさんの状態を俺にご教示くださいとお願いしますと、どうお答えくださるでしょうか。


 おそらくどなたも、会話中であるとか、食事中であるとか、歩いている最中であるとか、「おたくの話を聞いている最中にきまっているじゃないですか」といったように、「〜中」といった表現をもちいてお答えくださるか、もしくは、会話をしているとか、食事をしているとか、歩いているとか、「安心してください、おたくの話を聞いていますよ!」といったように、「〜している」といった表現形式を使ってお答えくださるのではないでしょうか。


 ご自身の過去の思い出のなかからお好きな瞬間のをひとつお選びになって、そのときのご自身の様子をご教示くださいと俺がお尋ねしてもおなじことでしょう。どなたもみな、世界を放浪中だったとか、学校もしくは職場で活躍中だったとか、熱愛中だったというように「〜中」とお答えになるか、世界を放浪していたとか、学校もしくは職場で活躍していたとか、「何をしていたかなんておたくには言えませんねムフフ」といったように「〜していた」といった言いかたでお答えくださるのではないでしょうか。


 では、ご自身のいまこの瞬間の状態や過去のある一瞬の状態を、「〜中」とか「〜している/していた」といった形でみなさんお答えくださるというこのことは何を意味するのでしょう?


 それが意味するのは、生きておられるうちのどの瞬間をとっても、みなさんは、出来事の最中におられるということです。


 もっといえば、みなさんは生きておられるあいだどの瞬間でも、「(という一瞬)をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもってお答えになるということです。


 ちょうどいまから25分38秒まえの俺は、その瞬間の「今」を、トイレに行くという出来事の最中としていました(その瞬間、俺はトイレに向かっている最中だったとか、トイレに向かっていたと表現できます)。みなさんはその瞬間、「今」をどういった出来事の最中となさっておいででしたか? その瞬間の「今」を、朝食を作るという出来事の最中となさっておられた?(なら、朝食を作っておられる最中だったとか朝食を作っておられたとおっしゃれます。)それとも、ミントの香りのする一陣の風のようにさわやかに学校もくしは職場に行くといった出来事の最中としておられた?(なら、通学もしくは通勤中とか、通学もしくは通勤していたとおっしゃれます。)


 まさにそのように身をもって「今(という一瞬)」を出来事の最中とすることをこそ、みなさんはふだん、行動とか行為とか運動とおよびになっているんじゃないでしょうか。

つづく


前回(第3回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。