*科学するほど人間理解から遠ざかる第5回
快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると最初に申し上げましたところをみなさんにご理解いただくべく、補足解説させていただいている最中です(「今」という言いかたで「今という一瞬」を表現しようとしている旨、ご理解ください)。
ちょうどいま、こう確認しました。みなさんは生きておられるあいだ、どの瞬間でも「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもってお答えになる、と。
ではちょっとみなさん、ご自身が、俺の家に、駅もしくはバス停から歩いていらっしゃる場面をご想像くださいますでしょうか。そうして歩いておられるあいだのどの一瞬をとっても、みなさんが、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもってお答えになっていることをまずご確認ください。
どの瞬間でもみなさんが身をもって「今」を、俺の家へ歩いていくという出来事の最中となさっているのをご確認くださいましたでしょうか。
このように身をもって「今」を出来事の最中とすることを、行動とか行為とか運動とかとよぶんじゃないかとは先に申しましたとおりです。
しかし、です。招待された俺のお誕生日会に出席しようとなさっているその場面のみなさんは、俺の自宅会場に向け、果してどのように歩いておられるのでしょう。想像力に乏しい俺にでもすぐにつぎの三つの可能性くらいは思いつきます
- 行くか帰るか迷いながらお歩きになっている。
- 重い足どりでイヤイヤお歩きになっている。
- ウキウキした気分でお歩きになっている(ずっとこの日を楽しみにしておられた)。
これら以外にも可能性は考えられるかもしれませんが、いまからこの三つをもちいてひとつ、快さと苦しさについて考察させてください。
この3つのいずれの場合であっても、みなさんが終始、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに身をもってお答えになっていることに変わりはありません。みなさんはいずれの場合でも、駅もしくはバス停を立たれてから、俺の自宅にお着きになるまでのあいだずっと、身をもって「今」を、俺の家へ歩いていくという出来事の最中とされつづけます。ですが、これら3つの場合同士のあいだには、ちがいがあります。
何がちがっているでしょう?
身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中となさる意気込みと申しますか、堅固さと申しますか、没入度と申しますかが、ちがっていると申し上げられるのではないでしょうか(以後、堅固さ、という言い方をもちいていきます)。
再度、上記1から3をご想像ください。
ウキウキした気分でお歩きになっている3の場合、みなさんが身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中となさっているその瞬間その瞬間の堅固さは、かなりゆるぎがないと言えそうであるいっぽう、1の場合はどうでしょう。みなさんはお歩きになっているあいだ終始、行くか帰るか迷っておられます。身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中となさる堅固さはどの瞬間でも、俺の生活のようにひどくグラついていると申せます。
水のなかをお歩きになっているかのように足どりが重い、イヤイヤお歩きになっている2はどうでしょう。その場合でも、身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中となさっているその瞬間その瞬間の堅固さは、ウキウキとお歩きになっている3の場合と比べてはるかに弱いと言うべきではないでしょうか。
では、身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中とする堅固さが強かったり(3)、弱かったり(1と2)するといったこうしたちがいは何を意味するのでしょう?
3の場合ではみなさんウキウキとした気分でお歩きになっています。快さをお感じだと申せましょう。かたや、行くか帰るか迷っておられる1の場合や、イヤイヤお歩きになっておられる2の場合、みなさんは苦しんでおられると申し上げられるように思います。
身をもって「今」を、俺の家に歩いていくという出来事の最中とする堅固さが強いか弱いかというちがいは、快さを感じているか苦しさを感じているかというちがいに相当するのではないでしょうか。
つまり、快さを感じているというのは、身をもって「今」を、出来事の最中とする堅固さが強いということであり、かたや苦しさを感じているというのは、身をもって「今」を、出来事の最中とする堅固さが弱いということなのではないでしょうか。
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