(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

じゃあ、快さや苦しさは何なのか

*科学するほど人間理解から遠ざかる第3回


 西洋学問ではこれまで快さや苦しさは何であるか理解されてこなかった、と大胆にも申し上げました、その実、膝をガクガク言わせながら。


 そう申し上げれば、どうなるか。


「じゃあ、快さや苦しさとはいったい何なのか、俺よ、偉そうな口をききやがって、みなさんのまえで申し上げてみろ!」となり、一気に俺の胃はカッチカチ、顔面は脂汗でテッカテカと化すのが自然ではないでしょうか。


 では、自身、快さや苦しさを何と考えるか、いまから、おそれ多くも、謹んで申し上げます


 みなさんは、どんなときに快さをお感じになりますか。お食事をなさっているときですか。温泉につかっておられるとき? 仕事から解放された瞬間? それとも夜、布団にお入りになったとき?


 みなさん、ご自身が快さをお感じになっている場面をひとつありありとご想起ください。えっ、ああもちろんセクシュアルな場面を思い描いていただいても結構です……。


 あっ、なんなら、苦しんでおられる場面を代わりにご想起くださってもよろしいかと。たとえば、腹痛がしているとき、緊張しておられるとき、不安で居ても立っていられないとき、寒さに震えておいでのとき、真っ青になって人生の岐路で悩んでおられるとき等々といった。


 さあ、快さもしくは苦しさを感じておられる場面をひとつよくご想起になりながらお聞きください。積極果敢にその状態をいまから言葉で表現します。


 申します。以後、「」という言葉で、「今という一瞬」を言うものとお考えください。


 快さを感じているというのは、今どうしようとするか、かなりはっきりしているということであり、かたや苦しさを感じているというのは、今どうしようとするか、あまりはっきりしていないということである。


 快さを強く感じていればいるほど、「今どうしようとするか、よりはっきりしている」と言え、苦しさを強く感じていればいるほど、「今どうしようとするか、よりはっきりしていない」と言える。


 快さ苦しさとは、「今どうしようとするか、はっきりしている」程度のことである。


 ……ううむ、みなさん、ハトがマメ鉄砲を喰らったような顔をしておられる……やっぱり黙っていればよかったか……ああ、淋しい……


 いやいや! 俺にはいまのところ、快さ苦しさをこれ以上わかりやすく表現することはできませんけれども(いつまで経ってもそうだろうと日夜、涙にかきくれております)、いま申し上げましたところにこれから補足解説を加えれば、きっと「察しの鬼」と言われるみなさんのことです、いまお聞きいただいた快さ苦しさの表現をご理解くださるんじゃないでしょうか。そして、みなさんが快さや苦しさとはこんなものだろうと長らくお考えになってきたところと、俺が拙い表現力でいま言葉にしましたところとが実はおんなじであるとおわかりくださるんじゃないでしょうか。


 じゃあ、めげずにいまからその補足解説とやらにとりかかるといたしましょう。

つづく


前回(第2回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

治療がときにひどくつらいことが示す意味

*科学するほど人間理解から遠ざかる第2回


 西洋学問ではこれまで、快さ苦しさは何であるか理解されてこなかったと最初に申し上げ、そのことは、健康や病気についてすこし考えてみるだけでもすぐ明らかになると申し添えました。


 本題に入るまえにもうしばらくグダグダ言わせてもらえますか。


(いきなり、本題に入る方は第3回へ)


 最後に、治るとは何かという観点からもすこし見ておきましょう。


 先ほどこう申しました。ふだんのみなさんにとって、健康という言葉は、「苦しまないで居られている」ことをを表現するものであるいっぽう、病気という言葉は、「苦しんでいる」ことを、その苦しみが手に負えないようなときに表現するためのものである、と。実際、そんなみなさんにとって、治るとは「苦しまないで居てられるようになる」ことを意味するのではないでしょうか。


 しかし、医学がみなさんに勧める治療には、受けるとしばしば、副作用とか毒性とか副反応とかとよばれる苦しみをあらたにこうむることになるものがあります。したがってみなさんはそうした治療を受けるかどうかお決めになるさい、その治療を受ける場合と、治療を受けない場合のふたつをまずご想像になって比較考量なさいます。そして前者の、治療を受ける場合のほうが、治療を受けない後者の場合より、「苦しさがマシなものになるとご判断になれば、「」をするとおとりになり、こう結論づけられます。


 そうした「得」を打ち消すくらい、その治療によって生存期間が短くなるというのでなければ、その治療を受けよう、と。


 反対に前者の、治療を受ける場合のほうが、治療を受けない後者の場合より、「苦しさが酷いものになるとご判断になれば、「損」をするとおとりになり、こう結論づけられます。


 そうした「損」を埋め合わせるくらい、その治療によって生存期間が延びるということでもなければ、その治療を受けることはできない、と。


 ところが、医学は患者に治療を施すかどうか決めるさい、そうした比較考量をしてきませんでした(していた誠実な医師もいたでしょうけれども)。


 健康を正常であること、病気を異常であることと定義する医学にとって、治るとはあくまで正常になること、にすぎません。医学は、患者が正常になるかどうか、や、異常にならないかどうか、しか考えません。あるいはせいぜい考えても、治療によって生存期間が延びるかどうかしか考えません。肝心の快さ苦しさについては、して当たりまえの配慮さえ怠ってきました。治療によってどんなに苦しくなっても(ただし死に直結するような重篤なものは除く)、我慢して当然であるとしてきました。


(現在に至ってもなお医学は、「苦しまないで居てられるようになる」ことを二の次にし、「延命」を第一に考えているのではないかと俺にはちょっと思われます。「15年前」なんかはもう何と言っていいか。)


 なぜ医学にはそんなにまで、肝心の快さ苦しさへの配慮を怠ることができたのでしょうか。


 そんなことが医学にできたのも、やはり、そもそも快さ苦しさが何であるか理解できていなければこそなんじゃないでしょうか。


 さあ、ようやく、グダグダ申し終わりました。遅ればせながら本題に入ります。


 この文章では、冒頭で宣言しましたように、快さ苦しさが何であるか確認します。


 以下、目次です、おおざっぱな。

第1部.快さ苦しさとは何であるか確認する*1

第2部.西洋学問ではなぜ快さ苦しさを理解できてこなかったのか確認する*2

第3部.西洋学問では快さ苦しさをどのようなものと解するのか確認する*3

つづく


2019年11月8日に文章を一部修正しました。また翌9日に、方向性はそのままに、内容を変更しました。


前回(第1回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:このシリーズの第3回から第7回までが第1部に当たります。

第3回


第4回


第5回


第6回


第7回 (第1部最終)

*2:第2部は第8回から第19回③までです。

第8回


第9回


第10回


第11回


第12回


第13回


第14回


第15回


第16回


第17回


第18回


第19回(第2部最終)

*3:第3部は第20回から第31回までです。ちなみに第32回がこのシリーズの最終回です。

第20回


第21回


第22回


第23回


第24回


第25回


第26回


第27回


第28回


第29回


第30回


第31回

快さや苦しさはこれまで一度も何であるか理解されてこなかった

*科学するほど人間理解から遠ざかる第1回


 快さとか苦しさというのが何であるかこの文章では確認します。以後、快さと苦しさをひとつに合わせて、快さ苦しさと表記したりすることをお許しください。


 いまから例によって例のごとく、本題に入るまえに何やらグジャグジャとひとしきり申します。本題にいきなりお入りになりたい方はどうぞお気遣いなく、第3回目の冒頭へシュワッチとお飛びください。


(第3回はこちら)


 では、はじめます。


 西洋学問ではこれまで、快さ苦しさは何であるか、まったく理解されてきませんでした。そう言い切ってしまっていいのか、あまりにも自分は寡聞だし、ド素人だし、酒臭いし、とタメらわれないでもありませんが、みなさんの顔色をビクビクと伺いながらもやはり俺はそう断言することにします。


 いや、いま思いのほか、みなさんがホトケ様のように見えたのをいいことに、いっそ図にノッてこう申し上げてしまいましょうか*1


 要するに、西洋学問ではまったく人間は理解されてこなかったんだ、と。


 申し上げすぎでしょうか。


 でもそうでしょ?


 快さ苦しさほど、ふだんみなさんが気にかけておられるものは他にありません。みなさんはどなたも、朝つぶらな瞳をお開きになってから、夜ふとんのうえにドテンと大の字におなりになるまで、四六時中、快さ苦しさをずっと気にしておいでです。ちょっとでも快さが減じたら、それを盛り返そうと、菓子を口にお運びになったり、休憩をとろうとなさったり、アレ(?)のことで頭をいっぱいになさったり、酒に手を延ばされたり(コレは俺だけか……)。


 また、嫌な思いをしそうなことや、楽しそうなことを、事前に敏感に察知なさっては、そそくさ〜とお逃げになったり、猛然と駆けよっていかれたり。


 こんなにもみなさんがふだん気にしておられる快さ苦しさが何であるか理解できてこなかったとなればもう、人間をまったく理解できてこなかったのとおなじだと申し上げても、申し上げすぎにならないんじゃありませんか。


 ともあれ、西洋学問ではこれまで快さ苦しさは何であるか理解されてこなかったと最初に申し上げたところについてはみなさん、さほど異論をお持ちではないようです。


 たしかに、健康や病気についてすこし考えてみるだけでも、快さ苦しさが何であるか西洋学問では理解されてこなかったことがすぐにわかります。確かめてみましょう。


 医学はひとを、正常なものと異常なものとに二分し、前者を健康とか健常と、後者を病気とか障害とよんでやってきました。ちょっと考えさえすれば、異常なひとなどこの世に誰ひとりとして存在し得ないとわかるはずであるにもかかわらず、医学が多くのひとたちを不当にも異常と決めつけ、差別すること、実に実に長きにわたります(このことについては2017年秋から2018年春にかけてしつッこく確認しました*2)。

正常と病理〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

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異常の構造 (講談社現代新書)

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 実際のところ、ふだんのみなさんにとって、健康という言葉は、「苦しまないで居られている」ことを表現するためのものであり、また病気という言葉も、「苦しんでいる」ことを、その苦しみが手に負えないようなときに表現するためのものであって、正常とか異常とかを言うものではありません。なのに、どうして医学はワザワザ、健康を正常であること、病気を異常であることと定義づけてきたのでしょうか


 異常なひとなどこの世には存在し得ないということがわかっていなかったというのも、もちろんあるでしょうけれども、それよりなにより、そもそも快さ苦しさが何であるのか、理解できていなかったのではないでしょうか。そして、理解できていないそのものから人情にしたがって目を背け、代わりに正常、異常というものをどこかから持ち出してきて、健康と病気を定義づけた、ということなのではないでしょうか。

つづく


2019年11月8、9日に文章を一部修正しました。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年7月24日にこの一文から5字削除しました。

*2:下のカテゴリのなかにその記事があります。

引っ越して参りました

 このたび、seesaa blogから越して参りました。フツツカ者ですが、どうぞよろしくお願いいたします。


 seesaaに置いて参りました記事はそのままにしておくつもりです。ひょっとすると、後日、こちらhatena blogのほうに移管するかもしれませんけれども。


(2019年1月4日追記)

 seesaa blogのほうで書いた記事のうち主要なものはこちらに移管しました。

 

科学の奇っ怪な出発点は「部分」の否認にあり③

 鐘は、科学の手にかかるとこのように、ほんとうは見えないものであるということになる。俺が目をつむっていても、開けていても、眼鏡をかけていてもいなくても、後ろを向いていても、まえを向いていても、何ら変わることのないもの(見えないまま)であることになる


 科学が一気につぎのように決めつけることによって、前記2「存在の客観化」という存在すり替え作業をなすのはここで、である。


 鐘は
、俺が目を開けていようが開けてなかろうが、眼鏡をかけていようがかけてなかろうが、まえを向いていようが向いてなかろうが、何ら変わらないどころか、俺が1キロ離れたところにいても、30センチしか離れていないところにいても、太陽が雲間に隠れていても、雲に遮られていても、何ら変わることのないものなのである、と。


 実際のところ、鐘は、俺が近くづくにつれ、姿を刻一刻と大きく、かつ、くっきりさせていく(そうして姿を一瞬ごとに大きくしていくことで、鐘は実寸を終始一定に保つ)。俺が目をつむれば、姿を「見えないありよう」に変え、太陽が雲間に隠れれば、その姿を薄暗く、ふたたび太陽が雲間から現れれば、姿を黄色っぽく変えてみせる。このように鐘は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、逐一答える相対的なものであるが、科学はいま見たように、鐘を事実に反して、無応答で在るもの(客観的なもの)であることにすり替えるというわけである。


 さあ、今回は、科学が事のはじめになすふたつの操作、「絵の存在否定」および「存在の客観化」を素描した*1


 では最後に、あとひとつだけ確認して終わることとしよう。そのためにみなさん、ご自身がいま、ある一枚の絵をごらんになっているものとご想像くださるだろうか*2


 それは、抜けるように青い空のもと、赤茶けた地面が見わたすかぎり広がっている絵である。


 まず「抜けるような青空」と「赤茶けた地面」のふたつが、その絵(の姿)に共に参加しているのをご確認いただきたい。


 ついで、つぎのふたつの操作をなしてくださるだろうか。

  • ⅰ.それら「青空」と「地面」のふたつが、カンバスのそれぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。
  • ⅱ.しかしそれらふたつが、「ひとつの絵に共に参加している」のは認めない。すなわち、それらふたつを、「ひとつの絵に共に参加している」ことのないもの同士と考える(部分であることの否認)。


 すると、どうなるか。


 青空のもと、赤茶けた地面が見わたすかぎり広がっているという絵柄は存在していないことになる
。その絵の真んまえにみなさん目を開けていらっしゃるのに、そんな絵の存在は認められないということになる。ただみなさんのまえには、「青空」と「赤茶けた地面」とがただバラバラにあるだけということになる。


 いま、一枚の絵が忽然として存在していないことになるのをご確認いただいた。科学が事のはじめになす前記1の操作を俺が「絵の存在否定」と呼ぶ理由を最後におかわりいただけたなら、幸いである*3

(了)


次回は7月22日(日)朝9:00にお会いします。快さと苦しさについて考察をはじめます。


後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

  • 変更前:07:00
  • 変更後:07:05


ひとつまえの記事(②)はこちら。


今回の最初の記事(①)はこちら。


このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2019年11月8日にこの一文を追加しました。

*2:2019年11月8日にこのパラグラフの文章を加筆修正しました。

*3:2018年11月4日と2019年11月8日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。

科学の奇っ怪な出発点は「部分」の否認にあり②

 ではつぎに、これらふたつの不適切な操作の過程を順に詳しく見ていこう。


 いまこの瞬間、俺が、教会の塔のうえにある鐘を遠望しているとすれば、その瞬間、俺が目の当たりにしている鐘の姿は、俺の前方数百メートルのところにあるということになる。このように、俺が前方数百メートルのところにある鐘の姿を目の当たりにしているというのは、言ってみれば、たがいに数百メートル離れたところにある、鐘の姿と、俺の身体とが、そのとき、俺のしている体験(鐘を見ているという体験)に共に参加している*1ということである。


 しかし科学は、俺がその瞬間、鐘を見ているというこのことについて、つぎのふたつの論理操作をなす。

  • ⅰ.そのとき、鐘と俺の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)
  • ⅱ.ただしそれらふたつが、「俺のしている体験に共に参加している」のは認めない。すなわち、それらふたつを、「俺のしている体験に共に参加している」ことのないもの同士であると考える*2(部分であることの否認)。


 すると、どうなるか。


 その瞬間、「鐘を見ているという俺の体験」は存在していないことになって、鐘はそのとき俺に見えていないことになる。たがいに数百メートル離れたところに、見えていない鐘と俺の身体とがただバラバラにあるだけということになる。


 けれども、現にその瞬間、俺は数百メートル先のところにある鐘の姿を目の当たりにしている。


 そこで科学は、その瞬間、俺に鐘が見えていないということにするため、心とか意識とかコギトとかと呼ばれるけったいなものをもち出してくる。そして、俺が現にその瞬間に目の当たりにしている鐘の姿を、俺の前方数百メートルのところにあるものでなく、俺の心(現代科学の考えでは脳)のなかにある映像にすぎないことにする。で、俺の前方数百メートルの場所(心の外)にほんとうに実在しているのは、見ることのできない鐘であるということにする。


 これが、「絵の存在否定」と俺が呼ぶ不適切な論理操作のあらましである*3


後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

  • 変更前:07:00
  • 変更後:07:05


ひとつまえの記事(①)はこちら。


このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。

 

*1:ただしシリーズ第1弾と第2弾では、単純にこういったふうに表現した。たがいに離れた場所にある、鐘の姿と、俺の身体と、そのとき共に、鐘を見ているという俺の体験の部分である

*2:おなじくここもシリーズ第1弾と第2弾ではこういったふうに表現した。鐘と俺の身体のどちらをも、「鐘を見ているという俺の体験の部分」とは認めない

*3:2018年7月5日と同年11月4日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。

科学の奇っ怪な出発点は「部分」の否認にあり①

 2018年に入ってから、「2018年一斉書き直しシリーズ」と銘打って、第1弾と第2弾をお送りしてきた。


 シリーズ第1弾は「科学の出発点をナミダナミダで語り直す*1」と題して、またシリーズ第2弾は「科学が存在を別ものにすり替えるのをモノカゲから見なおす*2」と題して。


 それらで語り直したのは、科学が事のはじめに立てつづけになす、俺がつぎのように名づけた不適切な操作だった。

  1. 絵の存在否定
  2. 存在の客観化


 今回はこのふたつの操作を素描してみようと思う*3


 まず、このふたつをそれぞれ簡単にみなさんにご紹介するなら、こうなるか*4


 いまみなさんは目のまえに何をごらんだろう。パソコンもしくはスマホの画面ではないだろうか。その画面の姿はいまこの瞬間、みなさんの目のまえ数十センチメートルのところにあるけれども、画面のその姿を、みなさんの心(頭)のなかにある映像にすぎないことにするのが、前記1「絵の存在否定」という不適切な操作である。


 この操作の結果、みなさんがごらんになるもの、お聞きになるもの、お嗅ぎになるもの、味わわれるもの、お感じになるもの一切は、みなさんの心のなかにある像にすぎないことになる


 いっぽう、そのパソコンもしくはスマホの画面の姿は、みなさんがお顔を遠ざけられるにつれ、刻一刻と小さく、かつ、ぼんやりしていく。みなさんがサングラスをおかけになれば黒っぽくなるし、目をおつむりになれば、「見えないありよう」とでも言うべき姿に変わる。このように画面はみなさんの身体がどこにどのようにあるかによって、ありようを変えるが、そうした事実に反して、その画面を、みなさんがどこにいらっしゃってどこをお向きになり、どのようになさっていようとも、何ら変わることのないもの(客観的なもの)であることにするのが、前記2「存在の客観化」という操作である。


 この操作の結果、この世に実在するのは、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素だけということになる

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

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省察 (ちくま学芸文庫)

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方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

 


このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年第1作

*2:2018年第3作

*3:2019年11月8日にこの一文を追加しました。

*4:2019年11月8日にこの文章を一部修正しました。