(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

身体を機械と考えると、やれ健康だ、やれ病気だと言っているときに、争点にするところが、みなさんのように「苦しくないか、苦しいか」ではなく、「正常か、異常か」になってしまう科学の実例2つ(4/5)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.7】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.53


◆健康や病気を「身体機械」のありようだけを見て決めることになる

 あるとき、ふと、指先に痛みを感じたと想像してみてくれますか。で、指先に目をやると、紙で切れたらしい傷があることに気づいたとします。傷口から血が出ている。


 でも、こうした傷って、どうですか。ふとした瞬間に痛みを覚えはするけど、日中、何かに夢中になっているあいだは、痛みをまったく感じないのではありませんか。


 その、何かに夢中になっていて、痛み(苦しみ)を感じていないあいだのことを考えてみることにしますよ。


 科学は痛みを、心のなかにある像であることにするということでした(先の②)。脳が、心のなかに作り出したんだ、って。心の外に実在している「指機械」(「身体機械」の指部分)が異常であるという情報をもとに、って。


 つまり、指のその痛みは、心のなかにある、「身体機械」が異常であることを知らせるサインなんだ、って。


 したがって、日中何かに夢中になって、痛みを感じていない時間というのは、こういうことであることになります。


「指機械」にたしかに異常はあるものの、そうであるという情報が脳にきっちり伝えられていない。


 もしくは、脳にきっちり伝えられてはいるが、脳がその情報から、痛みという像を心のなかに作り出すことを怠っている、ということに、ね?


 要するに、「身体機械」が異常であることを俺の心のなかに知らせる仕組みがうまく働いていないんだ、って。


 このように、「身体機械」が異常であることを俺の心に知らせる仕組みは、うまく働かないことがある、いい加減なものであるということになると、現に快さを感じていても、それが果して、「身体機械」が正常であることを示しているのか、それともその異常であることを示しているのか、イマイチよくわからない、ということになりますね。苦しさを覚えてはいるが、それは「身体機械」が正常であること、もくしは異常であること、そのどちらを示しているのか、イマイチよくわからない、ということに、ね?


 そうなると、おのずと、そんな快さや苦しさという感覚などに頼っていないで、「身体機械」をじかに見て、それが正常か異常かを直接判定していこう、ということになります。






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身体を機械と考えると、やれ健康だ、やれ病気だと言っているときに、争点にするところが、みなさんのように「苦しくないか、苦しいか」ではなく、「正常か、異常か」になってしまう科学の実例2つ(3/5)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.7】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.53


 快さや苦しさという「身体の感覚」は、俺の心のなかにある像である(②より)。前者の快さは、心の外に実在している「身体機械」が正常であるという情報をもとに、俺の脳が作り出したものである(③より)。いっぽう後者の苦しさは、心の外に実在している「身体機械」が異常であるという情報をもとに、俺の脳が俺の心のなかに作り出したものである(おなじく③より)、って。


 つまり、快さは、俺の脳が、俺の心のなかに作り出した像で、俺の心の外に実在している「身体機械」が正常であることを(俺の心に)知らせるサインであり、かたや、苦しさは、それもまた、俺の脳が、俺の心のなかに作り出した像ではあるが、反対に、俺の心の外に実在している「身体機械」が異常であることを(俺の心に)知らせるサインである、って。

  • A.快さは、俺の脳が俺の心のなかに作り出した、「身体機械」が正常であることを知らせるサインである。
  • B.苦しさは、俺の脳が俺の心のなかに作り出した、「身体機械」が異常であることを知らせるサインである。


 さあ、どうですか。こういった快さや苦しさの解釈を、みなさんは医学からしばしば聞かされるのではありませんか。肝臓は沈黙の臓器であるとか、自覚症状がないとかいった、医学がよく口にする表現は、快さや苦しさをいまいったように、「身体機械」が正常であるか異常であるかを知らせる、心(もしくは脳)のなかのサインと解するものではありませんか。


 が、こうした快さと苦しさの解釈についてはつぎのふたつのことが指摘されなければなりません。


 ひとつ、誤りであること。


 ひとつ、そうした説をとると、結局、やれ健康だ、やれ病気だと言っているときに争点にするところを、「苦しくないか、苦しいか」から、「正常か、異常か」にすり替えることになること。


 いまから追うことになるのは、後者のほうですけど、そのまえに前者についても、簡単にすこし触れておきますよ。


 前者は簡単です。異常ということはこの世にはあり得ないとずっとまえに確認しました(後日また触れる予定にしています)。さらに身体は「身体機械」ではありません。要するに、みなさんが医学からよく聞かされる、こうした快さと苦しさの簡潔な解釈は、その短さにもかかわらず、ほとんどどこも正しくない、ということです。

 

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異常ということはこの世にはあり得ないと確認したのはこちら。

(注)上記より簡単な確認法はこちら。

身体が機械ではないことを確認したのはこちら(再掲)。

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 本題に戻りましょう。ここから、先に挙げた後者の、争点のすり替えについて見ていきます。






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身体を機械と考えると、やれ健康だ、やれ病気だと言っているときに、争点にするところが、みなさんのように「苦しくないか、苦しいか」ではなく、「正常か、異常か」になってしまう科学の実例2つ(2/5)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.7】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.53


◆快さ(苦しさ)を、「身体機械」が正常(異常)であることを知らせる、心のなかのサインとする説

 機械ではない身体を機械と見なす科学には、快さや苦しさを説明する仕方が、俺には、つぎの2種類あるように思われます。ただしそのどちらも、快さと苦しさを、心のなかにある何かを知らせるサインと解するものですが。

  1. 快さを、心のなかに発生した、「身体機械が正常であることを知らせるサインとし、苦しさを、心のなかに発生した、「身体機械」が異常であることを知らせるサインとする説
  2. 快さを、心のなかに発生した、好物への接近行動まえに「身体機械」が行っている準備運動(ウォーミングアップ)がいかようかを知らせるサインとし、苦しさを、心のなかに発生した、敵からの逃避行動まえに「身体機械」が行っている準備運動(ウォーミングアップ)がいかようか知らせるサインとする説


 今回はこの1を見ます。この説をとると、前記した深刻な争点のすり替えが起こるということをいまから確認します。


 では、身体は機械ではないということをもう一度確認するところからはじめましょうか。


 いま俺の頭のてっぺんから足の先まで「感覚」がひと連なりになっています。で、その「感覚」が占めているのとほぼおなじ場所を、髪、皮膚、筋肉、骨、内臓等といった「物」もまた占めています。


 これら、ほぼおなじ場所を占めている「感覚を合わせて、みなさんはふだん、身体と呼ぶということでしたよね。

 

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身体について確認した記事はこちら。

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 まえのほうで、その前者「感覚」のほうを「身体の感覚」、いっぽう後者「物」のほうを「身体の物(カラダ・ノ・ブツ)」とそれぞれ呼ぶことにしておきました。


 このように、身体には、機械にはない「感覚」というものが認められます。そのことから、身体は機械ではないと簡単に断じることができました。


 しかし、この機械ではない身体を、事のはじめに「絵の存在否定」「存在の客観化」というふたつの存在改悪作業を為す科学は、機械と見なすということでしたよね。


 言い換えると、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小のもの(元素)の寄せ集めにすぎないものと見るということでしたね。


 そのように科学が機械と見なす身体のことを先に「身体機械」と名づけました。以後その名前を使っていきます。


 そして、そんな科学にとって、頭のてっぺんから下半身の末端までひと連なりになっている「身体の感覚心のなかにある像であることになるということでしたね。心の外に実在している「身体機械についての情報をもとに脳が心のなかに作り出したものなんだ、って。


 以上、科学の身体観をまとめるとこうなります。

  • ①身体とは「身体機械」である。
  • ②「身体の感覚」は、俺の心のなかにある像である。
  • ③その像は、心の外に実在している「身体機械」についての情報をもとに、脳が作り出したものである。


 で、今回点検する説では、このあと、科学はこう続けます。






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身体を機械と考えると、やれ健康だ、やれ病気だと言っているときに、争点にするところが、みなさんのように「苦しくないか、苦しいか」ではなく、「正常か、異常か」になってしまう科学の実例2つ(1/5)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.7】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.53

目次
・やれ健康だ、やれ病気だとしきりに言うことによって、みなさんが争点にするのは、「苦しくないか、苦しいか」である
・快さ(苦しさ)を、「身体機械」が正常(異常)であることを知らせる、心のなかのサインとする説
・健康や病気を「身体機械」のありようだけを見て決めることになる


◆やれ健康だ、やれ病気だとしきりに言うことによって、みなさんが争点にするのは、「苦しくないか、苦しいか」である

 前回ついに、科学が、機械であるはずのない身体を機械と見なすに至った不幸な瞬間を、まざまざと目撃しましたよね。

 

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その場面

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 そのように身体を機械と見なすと、やれ健康だ、やれ病気だと言っているときに、「苦しくないか、苦しいか」を争点にすることができなくなり、あるまじきことに、「正常か、異常か」を争点にしてしまうことになると最初に指摘しておきました。


 今回から2回にわたって見ていくのは、科学がそうした争点のすり替えをすることになっている実際の様子です。

 

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その争点のすり替えがいかに深刻な損害をみなさんにもたらしてきたかについては、以下の2点を見ました。

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機械なんかでは決してないことが明らかな身体を科学が機械と決めつける、嗚呼、あの不幸な瞬間(6/6)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.6】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.52


◆身体全体を考える

 したがって、左手が「左手機械」であることになったように、身体全体が、「どの位置を占めているか」ということと、「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小の何か(元素)の寄せ集めにすぎないことになります(先のBに相当)。


 科学が考えるこの身体を以後、身体機械と呼ぶことにしましょうか。


 と同時に、俺が現に感じている、頭のてっぺんから足の先までひと連なりになった「身体の感覚俺の心のなかにある像にすぎないことになり(先のAに相当)、俺の脳が作り上げたものであることになります(先のCに相当)。俺の心の外に実在している「身体機械」についての情報をもとに、って。


 まとめるとこうです。事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」とを立てつづけに為す科学の手にかかると、

  • イ.身体は「身体機械」であることになる。
  • ロ.「身体の感覚」は、俺の心のなかにある像にすぎないことになる。
  • ハ.その心のなかの像は、俺の脳が、俺の心の外に実在している「身体機械」についての情報をもとに作り出したものであることになる。


 以上が、ほんとうは機械ではない身体が科学に、機械と見なされるに至った経緯です。






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機械なんかでは決してないことが明らかな身体を科学が機械と決めつける、嗚呼、あの不幸な瞬間(5/6)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.6】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.52


 では、この、「左手の感覚」がそこから除外された、単なる元素の寄せ集めにすぎないことになった左手を左手機械と名づけることにしましょうか。


 で、いま確認したところを、箇条書きにしてまとめてみると、こうなります。

  • .俺が現に目の当たりにしている「左手の物」の姿と、俺が現に感じている「左手の感覚」とは、ともに、俺の心のなかにある像であることになる。
  • .俺の心の外に実在しているほんとうの左手は、「左手機械」(どの位置を占めているかということと「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小の何か  元素  の寄せ集め)であることになる。


 そして科学は、Aの、俺の心のなかにある像であることにした、俺の「左手の物」の姿と俺の「左手の感覚」とを、俺の脳が作り上げた像にすぎないことにします。Bの、俺の心の外に実在している「左手機械」についての情報をもとに、って。


 いま科学が俺の左手を機械であることにする経緯を確認しました。


 左手は機械ではありません。左手とは、ほぼおなじ場所を占めている「左手の物」(の姿)と「左手の感覚」とを合わせたもののことです。機械にはない「感覚」というものがそこに認められます。


 だけど、事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」というふたつの存在改悪作業を立てつづけに為す科学の手にかかると、いま見ましたように、左手は「左手機械」にすぎないことになります。そして、俺の眼前数十センチメートルのところにある「左手の感覚俺の脳が俺の心のなかに作り上げた(感覚)像であるにすぎなくなります(「左手の感覚」のこの見方をと名づけておきます)。心の外に実在している「左手機械」についての情報をもとに、って。


 もちろん、科学のこうした存在改悪は、左手に限定されるものではありません。身体全体に為されます。






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機械なんかでは決してないことが明らかな身体を科学が機械と決めつける、嗚呼、あの不幸な瞬間(4/6)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.6】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.52


◆左手を例に考察する

 先ほど身体全体について言ったことが、俺の左手にも当てはまります。左手とは、ほぼおなじ場所を占めている、「左手の物」と「左手の感覚」とを合わせたもののことですね。


 さて、俺はいま、みなさんの想像では、俺の「左手の物」の姿を目の当たりにしています。その「左手の物」の姿は、俺の眼前数十センチメートルのところにありますね。いっぽう俺(が現に感じている)の「左手の感覚」も、そのおなじ場所を占めていますよね。


 ところが事のはじめに「絵の存在否定」を為す科学の手にかかると、俺が現に目の当たりにしているこの「左手の物の姿と、俺が現に感じている「左手の感覚とは共に、俺の眼前数十センチメートルのところにあるものではなくなります。一転、俺の心のなかにある映像と感覚像にすぎないことになります(先の①を参照ください)。


 そして、科学はさらに「存在の客観化」を為すことによって、俺の眼前数十センチメートルのその場所に実在しているほんとうの左手は、「どの位置を占めているかということと、「どんな力をもっているかということしか問題にならないこの世の最小の何か元素の寄せ集めにすぎないということにします(先の②を参照ください)。


 こうして科学にとって左手は、単なる「元素」の寄せ集めにすぎないものであることになります。そこに「左手の感覚」は含まれないことになります。


 つまり、機械であることになるわけです。






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